会  津  の  歴  史  年  表

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戦 後  ( 明 治 時 代 )

しばらく、戦闘は続いた。
悪逆非道を行っているとの休戦など認められない、と。


明治元(1868)年9月8日〜
9月 23日   藩主/松平喜徳公容保藩士たちに別れを告げ妙国寺で幽閉
遅れて、照姫も妙国寺に入る。
籠城していた藩士は、猪苗代へ護送され幽閉。
南会津/伊南谷で激しい戦闘、翌日まで続く。
  ・23日 入小屋の戦い(南会津町東地区)、木伏の戦い(南会津町木伏地区)
  ・24日 滝原の戦い(只見町坂田地区)
9月 24日   鶴ヶ城が、の軍監/中村半次郎らの管轄となる。
昭和/大芦で激しい戦闘。
10月 1日   が若松民政局を設置。
10月 19日   松平喜徳公容保が随従の藩士と東京へ出立。
世直し一揆が領内で起こる。 同年12月には一応終息。
11月 2日   松平喜徳公容保が東京に到着するや、直ちに幽閉。
11月     民生局 () が、占領下の下級武家屋敷を売却。
12月 7日   領地を没収され、松平容保が鳥取藩に永預り処分となる。
12月 中旬    会津五郡の郷村 (百姓たちの長) から、藩主/松平喜徳公と容保親子の助命嘆願書を提出。

明治2(1869)年
1月 6日
  極寒の中、塩川で幽閉 (謹慎) の藩士たちは越後/高田藩へ、
     猪苗代で幽閉の藩士たちは東京へ護送が開始される。
2月     東京で幽閉 (謹慎) のなかで身体強健の藩士100余名を蝦夷地開拓と詐称し送り込むことを通告する。
4月 11日   藩士/高木十郎と他藩3名を箱館渡航の手助けをした罪と称して斬首するなど、の極悪非道は終わらなかった。
5月 1日   アメリカ移民の日本女性第1号である“おけい”が出国。 2月に出航とも。
7月20日、入植地に入る。
5月 4日   民政局 () が廃止され若松県となる。
若松の人口は 12,904人で、現在の福島県内で一番多い人口だった。
庄内/酒井家の会津への転封は、領民の反対運動で白紙となる。
5月 18日   家老/萱野権兵衛が、戊辰の役の責任を一身に背負い切腹する
6月 3日   斗南藩主となる松平容大公が生れる。
6月   御山病院が閉鎖され、東京へ護送。
7月 20日   今までにない大雨となり、大川など多くの河川が氾濫する。
9月
10月
  東京謹慎中の約200戸/700人が、北海道/小樽に強制移送される。
11月 3日   下北 (後の斗南藩)への流刑が決まる。
   
11月     本丸の藩主/屋形が取り壊される。
12月 7日   松平容保は、紀伊国/和歌山に幽閉。
12月     若松町/惣代4名と、東谷地村 (猪苗代)、上西連村・赤崎村・下谷地村・中目村 (喜多方市)の百姓惣代が、松平容保の減刑を嘆願。
 この年 建福寺に埋葬されていた河井継之助の遺骨が、長岡/栄涼寺に帰る。
      戊辰の役で焼失した神明神社が、仮殿を建立し現在地に奉遷。
      常勝寺 (会津美里町) が、三日町から現在地に移転。
      塩川村 (喜多方市) に日新館の仮校舎が建立。
      広瀬神社 (会津美里町) が、山上三社を合祀し、本郷町の総鎮守として創建。
      慧日寺が、が施行した大罪/廃仏毀釈という仏教弾圧により廃寺となる。
明治3(1870)年
1月 5日   藩士/4千7百余名の斗南藩への移住が決まる。
斗南藩主/容大公に、北海道の後志国 (太櫓郡・瀬棚郡・歌棄郡)・胆降国 (山越郡) の4郡を管轄させる。
5月     誕生したばかりの松平容大公が斗南藩主となり、藩士たちが移住を開始。
容大公は、9月2日に若松を出立。
 〃     鶴ヶ城/本丸にあった御三階が、阿弥陀寺に移築される。
7月 17日   宮在家村 (喜多方市) から出火、焼失19戸。
10月 11日   大川村 (会津若松市) から出火、焼失15戸。
12月 11日   土津神社の御神体が、仮安置の磐梯神社から斗南藩へ出立。
 この年 戊辰の役で焼失した建福寺が、鶴ヶ城の御殿に使用されていた木材で再建。
明治4(1871)年
1月 13日   初の白虎隊士の墓が斗南藩/三戸に建立。
2月     山本八重 (後の新島) は、兄/覚馬が生きていることを知り京都に移住
7月 1日   鶴ヶ城北出丸の塀や角櫓の取り壊しが開始。
甲賀町口郭門も壊され、外郭の外堀と土塁が売却される。
7月 14日   廃藩置県。
8月 14日   下野国/三依郷が若松県より日光県に割譲される。
9月 5日   斗南県が合併し弘前県となる (同月25日には青森県と改称)。
11月 12日   山川捨松が、日本初の留学生として米国に向けて横浜を出港。
11月 22日   若松県の飛地領/和泉国南郡 (岸和田市、貝塚市) が堺県に割譲される。
12月     斗南藩の日新館が閉鎖。
    長命寺の本堂が炎上。
 この年 日本女性初のアメリカ移民“おけい”がアメリカ/若松コロニーで没 (19歳)。
明治5(1872)年
1月     「若松新聞」が創刊。
    元藩士/和田某の妻/千賀が、東京府/洋学女学校の開校で教場手伝いを命じられる (文部省で初めての婦人出仕)。
2月 26日   東京/旧会津藩邸上屋敷から出火し、銀座・築地まで延焼、焼失2千余戸。
4月     東京府の邏卒増募に応じ、斗南より130人が応募し上京。
7月 1日   現在地に、若松郵便取扱所が設置。
田島村・静川村 (南会津町) に郵便取扱所が設置。
11月     常徳寺に古舘学校が創設。
 この年 春日神社 (昭和村) が、現在地に遷社。
      若松警察署が、馬場一之竪町に設置される。
明治6(1873)年
8月 22日   当主/松平喜徳の養子縁組が解消され実家に復帰。
11月 22日   塔寺村 (会津坂下町) から出火、焼失40戸。
12月     若松県庁が、旧会津藩の会所跡に設置される。
明治7(1874)年
1月 7月   鶴ケ城のすべてを取り壊すとの布告。
1月     東京での邏卒募集に、若松から170人、斗南から30人が応募し上京。
2月     楊枝村 (猪苗代町) から出火、13戸全村焼失。
4月 16日   川井村 (三島町) から出火、焼失11戸・土蔵小屋8棟。
4月 20日   鶴ヶ城での博覧会が開幕し、5月9日まで開催。
5月 3日   七日町で200余軒、北小路町で60軒ほど焼失。
7月     鶴ヶ城が完全に取り壊される。
9月 16日   土津神社の御神体が斗南藩/消滅で、磐梯神社へ帰郷 (仮安置)。
明治8(1875)年
1月     若松県の人口 21万6230人。
    若松郵便取扱所が、若松郵便局と改称。
2月     若松県の平均米相場 1石の上米/3円90銭・中米/3円76銭・下米/3円62銭。
5月 14日   前年に募集の屯田兵に応じ、青森港に参集した49人のほとんどが旧会津藩士であるほど、旧藩士たちは困窮の身に落とされていた。
7月 3日   40年来の大雨、洪水。
 7日、長瀬川が氾濫し、洪水1丈5尺を超える。
 9日、猪苗代・高田村周辺が大洪水。
31日、長瀬川が大洪水。
10月 18日   倉村 (下郷町) から出火、焼失25戸。
11月 29日   山本八重・新島襄が同志社大学の前身/同志社英学校を開校。
明治9(1876)年
1月 3日   山本八重が、新島襄と結婚。
3月 3日   壺楊村壺下 (猪苗代町) から出火、焼失32戸。
5月 3日   高田村 (会津美里町) から出火、焼失300余戸。 4月10日とも。
8月 21日   若松県、旧福島県、磐前県が合併し、現在の福島県となる。
 この年 私立会津中学校が廃止させられる。

11月 9日   野口英世が、野口佐代助シカの長男として耶麻郡三ッ和村に生れる。
11月     旧藩士/山本覚馬が買い取っていた旧薩摩藩邸跡地を譲渡し、同志社英学校が移転。 同志社女学校 (女子塾) を設立。
明治10(1877)年
3月 18日   旧藩士たちが率先して西南戦争に出征して、積年の怨念を晴らし、佐川官兵衛たちが戦死。
4月 16日   大雹雨に見舞われ、作物の被害甚大。
 郷之原では7〜8寸 (約24cm)の大きさに達する。
明治11(1878)年
4月 4日   川口 (金山町) 一帯で大洪水。
4月   野口英世が、囲炉裏に落ちて大火傷を負い左手の機能を失う。
4月 30日   大川村 (南会津町) から出火、焼失27戸。
5月     坂下町 (会津坂下町) から出火し、全町が焼失。
6月 9日   若松に第三十一国立銀行が開業し、銀行券を発行。
12月     若松警察署が、洋館三階建てで新築。
 この年 旧会津藩士たちによって、 長命寺戦死墓が建立される。
明治12(1879)年
1月 27月   奈良時代から続いていた会津藩 (会津郡) は広大過ぎるとして、北会津郡 (若松と67村) と南会津郡 (99村<現地板>) とに分割される。
3月 24日   旧藩士/山本覚馬が第1回京都府会選挙に当選し、初代議長にも選出。
5月 12日   玉梨村 (金山町) から出火、焼失16戸。 3月4日とも。
5月 18日   若松で3千余人が集まり、槍・薙刀・鎖鎌などの試合が行われる。
6月 7日   坂下町から出火、新町から古坂下まで焼失。
明治13(1880)年
2月 3日   吉川村三宮 (喜多方市) で出火、焼失16戸。
6月 20日   田名部の徳玄寺で戊辰戦争戦没者十三回忌が執り行われる。/td>
7月 28日   土津神社 (猪苗代町) が再建。
8月 5日   大雨大洪水。 特に銀山川と只見川沿いに被害多し。
黒滝の山崩れで田畑の被害も甚大。
8月 8日   喜多方町西町 (喜多方市) から出火、焼失300余戸。
8月 25日   熊倉村 (喜多方市) から出火、焼失35戸。
明治14(1881)年
2月 5日   〜7日豪雪。 積雪が3メートルを超え、史上初の豪雪といわれる。
12月 18日   やっと1基の白虎隊石碑が飯盛山上に建立することができた。
9月 21日   柳津町諏訪で大火、3軒残して全焼。
 この年 藩士でもある貿易商/足立仁十郎が死去。
      猪苗代湖で蒸気船/岩代丸が運行開始。
      高田村横町 (会津美里町) から出火、焼失30戸。
明治15(1882)年
1月 20日   若松郵便局に電信分局を並置。
1月 25日   (2日とも) 極悪人/三島通庸が福島県令となり、2月17日に赴任。
3月14日、流通の要である宿駅の解体を謀った三方道路開削を持ち出す。
5月12日、県議会は道路工事強硬に対抗して地方税議案を否決。
にもかかわらず、5月中に極悪人/三島通庸は三方道路の工事開始を強行。
7月 27日   新島八重が、夫と共に会津に帰省し、約1か月逗留。
8月 17日   帝政党員が自由党員を襲う「清水屋事件」が起こる。
9月 5日   現在の学鳳高校の場所に、復活した私立日新館が設立される。
11月 21日   山川捨松が、11年ぶりに津田梅子とともに帰国。
11月 28日   塩川町の弾正ヶ原に農民が終結し、喜多方警察署を襲撃 (弾正ヶ原事件)。
明治16(1883)年
4月 16日   三郷村 (猪苗代町) から出火、焼失17戸。
4月 30日   一ノ町/斉藤方の焚火の不始末で、焼失1,500余戸・焼死者多数。
 710余戸とも。
11月 8日   山川捨松が、大山巌と婚儀。
12月 12日   山川捨松と大山巌は、落成したばかりの鹿鳴館で結婚披露宴を開催。
明治17(1884)年
4月 30日   界村 (南会津町) から出火、焼失14戸。
6月 12日   大山捨松 (山川捨松) は、看護婦養成学校を設立するため、日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開催。
9月 23日   三浦文次たちの加波山事件が発生、惜しくも未遂。
9月 23日   三浦文次たちの加波山事件が発生、惜しくも未遂。
 この年 磐梯村大寺 (磐梯町) から出火、焼失45戸。
明治18(1885)年
4月 23日   小荒井村 (喜多方市) から出火、焼失30戸。
6月 24日   小田付村 (喜多方市) から出火、焼失52戸。
6月     村松村 (喜多方市) から出火、焼失30戸。
8月 23日   南会津郡役所が、現在地 (南会津町) に新築される。 今は資料館。
10月 12月   西方村 (三島町) から出火、焼失15戸。
明治19(1886)年
4月 6日   塩生村 (下郷町) から出火、全村焼失。
5月 10日   蒲原郡を新潟県に割譲との通告あり。 5月27日に新潟県の管轄となる。 5月25日、長賊らに急ぎ編入手続きされる。
7月 24日   小田付村 (喜多方市) から出火、焼失10戸。
9月 17日   古町村 (只見町) から出火、焼失14戸。
 この年 高田村下町 (会津美里町) から出火、焼失50戸。
明治20(1887)年
4月 26日   川井村 (三島町) から出火、焼失12戸。
5月     田島村上町 (南会津町) から出火、焼失13戸。
6月 20日   塩川村 (喜多方市) から出火、駒形神社阿弥陀寺などが焼失。
7月     田島村東町 (南会津町) から出火、焼失20戸。
 この年 張平村 (下郷町) から出火、全村が焼失。
明治21(1888)年
3月 21日   上野尻村 (西会津町) から出火し焼失13戸。同村白坂で焼失26戸。
5月 3日   広野村 (喜多方市) から出火し、焼失16戸。
7月 13日   摺上原戦死者の三百回忌を行う。
7月 15日   7時45分頃、磐梯山が大爆発し小磐梯山が山体崩壊する。 発生した時速77キロの泥流は山麓を飲み込み、秋元、細野、雄子沢の3集落が全滅し死者477人を出す。 桧原湖小野川湖秋元湖五色沼などの堰止め湖が形成される。
10月 6日   秋元湖が満水となり、溢れ出して洪水。
 この年 天徳寺 (猪苗代町) が、磐梯山噴火で危険なため現在地に移転。
      岩越鉄道が設立され、郡山-新潟間の鉄道施設が計画される。
明治22(1889)年
1月 27日   「若松〜喜多方」 間の乗合馬雪舟が開業。
2月 中旬   小野川湖が満水となり、溢れ出す。
4月 1日    ◇ 若松桂林寺町など83町の合併で、若松町 (会津若松市) が発足。
 ◇ 只見村・田子倉村・叶津村・蒲生村・塩沢村・石伏村・寄岩村・十島村の合併で、伊北村 (只見町) が発足。
 ◇ 磐梯村 (磐梯町) が、更科村・大谷村・赤枝村を編入。
 ◇ 町村制施行により檜枝岐村が発足。
 ◇ 柳津村・大柳村・細八村の合併で、柳津村 (柳津町) が発足。
など、この年、町村の大合併が施行。
4月 29日   上野尻村 (西会津町) から出火、焼失27戸。
5月     檜沢村大豆渡 (南会津町) から出火、焼失30戸。
11月 15月   大川村 (南会津町) から出火、焼失12戸。
明治23(1890)年
1月 23日   新島八重の夫/襄が、静養先の大磯没 (46歳)
2月     安田銀行が大町に支店を開設。 開店は4月とも。 明治40(1907)年改築の建物は、明治村 (愛知県犬山市) に移築され公開されている。
3月 26月   川口村川口 (金山町) から出火、焼失12戸・土蔵2棟。
4月 3日   私立会津中学校 (県立会津高等学校) が開校する。 授業開始は5月1日。
4月 24月   堂島村大木 (喜多方市) から出火、焼失22戸。
5月 25月   上井草部落 (金山町) で大火、8戸全焼。
5月 28月   熊倉村高柳 (喜多方市) から出火、焼失15戸。
7月 1月   第1回衆議院選挙で、会津からは山口千代作・三浦信六が当選。
8月     若松賎子が、「小公子」を著す。
9月 14月   本名村 (金山町) から出火、焼失36戸。
11月 3日   自刃から20余年を経て、やっと飯盛山白虎隊士墓が建立できた。
11月 18月   本名村 (金山町) から出火、焼失18戸。
 この年 鶴ヶ城が競売にかけられ、消滅の危機にさらされる。
旧藩士/遠藤啓士が買い取り、旧藩主/松平家に寄贈する。
      磐梯村赤枝 (磐梯) で大火。
      横田村横田 (金山町) から出火、焼失13戸。
明治24(1891)年
4月 5月   安久津村 (柳津町) から出火、焼失23戸。
5月     田島村長野 (只見町) から出火、焼失40戸。
6月 2月   大芦村喰丸 (昭和村) から出火、焼失22戸。
6月 3日   第10代藩主/松平喜徳公没 (37歳)

6月 5日   川西村長井 (会津坂下町) から出火、焼失32戸。
6月 17日   只見川が大洪水。
水沼村 (金山町)・名入村 (三島町)・柳津村 (柳津町)の諸橋が流失。
7月 6日   〜9日、若松の開市三百年祭が行なわれる。
10月 7日   私立会津中学校が県知事管轄となり、県立会津尋常中学校と改称。
11月     柳津村安久津 (柳津町) から出火、焼失23戸。
明治25(1892)年
2月     二川村芦ノ原 (下郷町) から出火、焼失30戸。
8月 6日   会津尋常中学校に武芸演習所が落成。 9日に開設式。
8月 8日   〜10日、保科正之公の会津入り二百五十年祭が執り行われる。
  11月には喜多方でも催行。
9月 27日   佐原義連公の七百年祭が執り行われる。
10月     野口英世が、若松の會陽医院で左手の火傷の手術を受ける。
この体験で医学の道へ進むこととなる。
12月 28日   新島八重の実兄/山本覚馬没 (64歳)
 この年 公布された鉄道敷設法に、現在の磐越西線が規定される。
  「新津ヨリ若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道
      富田治作が活版印刷で「新編会津風土記」を発行。
      楢原村戸石 (下郷町) で出火、焼失15戸。
      丹羽五郎によって後志に丹羽村の開拓が開始。
明治26(1893)年
3月 16日   若松-新潟間の電信線が直通する。
4月     海老名リンにより、私立若松幼稚園、7月に私立会津女学校が開校。
5月 19日   、6月4日の2回、吾妻山が噴火。
6月7日、火口付近を調査中の職員2名が死去。
5月     若松で、初めて牛乳が販売される。
6月 16日   西方村 (三島町) で出火、4戸を残して全焼 (17戸)。
7月 12日   高田村 (会津美里町) で出火、焼失92戸。
7月 21日   会津尋常中学校に学而会が発足。
9月 9日   野岩越鉄道会同盟が結成。
9月 20日   私立若松図書館が、若松基督協会内に開館する。
12月 5日   第9代藩主/松平容保が、東京/小石川の自邸にて没 (59歳)

12月 25日   女流歌人の柏木志那子が没 (86歳)。
 この年 慶徳村 (喜多方市) で山崎古墳が発見される。
      檜枝岐村から出火、全戸焼失。
明治27(1894)年
3月 4日   吾妻山が小爆発。
5月 29日   岩越鉄道案が衆議院で可決。
  同月、先駆けて岩越鉄道株式会社が設立。
6月 19日   〜、大旱魃。
7月 12日   高田村中町 (会津美里町) から出火、焼失60戸。
12月 11日   大暴風雨、湯川大川が洪水。
 この年 野岩鉄道株式会社が設立。
      若松電灯株式会社が設立。
      若松女学校が、若松町栄町五ノ丁に移転し会津女子技芸がっこうと改称。
明治28(1895)年
3月     5月、7月、吾妻山の小爆発が続く。
4月 3日   旭田村桃曽根 (下郷町) から出火、焼失18戸。
4月     熊倉村小沼 (喜多方市) から出火、焼失25戸。
5月 1日   豊川村荒分 (喜多方市) から出火、焼失10戸。
5月 19日   柳津村岩坂 (柳津町) から出火、全戸焼失。
6月     岩越鉄道の株券売行き好調で、8万株に達する。
同月、檜沢村針生 (南会津町) から出火、焼失40戸。
7月     熊倉村熊倉 (喜多方市) から出火、焼失15戸。
8月 26日   赤沢村赤留 (会津美里町) から出火、焼失11戸。
 この年 大桃の舞台 (南会津町) が再建。
      池内儀八「会津史第一巻」刊行。 完結は明治31(1896)年。
明治29(1896)年
1月 20日   現在の磐越西線 「郡山駅若松駅新津駅」 の鉄道を建設するため、岩越鉄道が設立 (認可)。 8月4日に東京/神田で操業総会が開かれる。
2月 10日   「小公子」などを翻訳した若松賎子没 (33歳)
4月     新聞「魁会津 (週刊)」が創刊。
5月 15日   雄国沼が満水となり堤が決壊、83町7反余が浸水。
高田村で大洪水も、高田/宮古橋水位が一丈六尺に達する。
5月 26日   会津銀行 (若松町大町一之町) が創立。
6月 10日   只見川が決壊し被害甚大。
安久津村 (柳津町) の下川原の銀山用材が全流失。
6月     楢原村 (下郷町) から出火、焼失13戸。
    川路村 (会津美里町) に小谷吊橋が架設。
7月 21日   大洪水、宮古村 (喜多方市) では量水標が1丈6尺を示す。
8月 4日   東京で岩越鉄道の創業総会が開催。
 この年 社会事業家/瓜生岩子が、女性として初めての藍綬褒章を受章。
      野口英世が、医学を目指し上京。
 「志を得ざれば、再び此の地を踏まず (柱に刻んだ決意文)」
      高田町社人町〜上町 (会津美里町) から出火、類焼200戸。
      若松在住の財界人8名によって瀬棚郡北桧山に若松村の開拓が開始。
明治30(1897)年
2月 11日   上三宮村 (喜多方町) から出火、焼失24戸。
2月 21日   岩越鉄道が郡山で起工する。
同年5月26日、本免状が下り、設立が認可。
4月 19日   日本のナイチンゲールと呼ばれた社会事業家/瓜生岩子没 (69歳)
5月 4日   西川村宮下 (三島町) から出火、焼失31戸。
10月 23日   井深八重が、父/井深彦三郎の長女として台北市 (台湾) で誕生。
明治31(1898)年
1月 11日   若松町立会津漆器徒弟学校が開校。 4月に設立とも。
3月 11日   楢原村板倉 (下郷町) から出火、焼失10戸。
3月 25日   桧沢村針生 (南会津町) から出火、焼失40戸。
4月 15日   甲賀町に「若松染色伝習所」が開設。
4月 19日   土井晩翠が、鶴ヶ城を思い描き、七五調の「荒城の月」を作詞。
7月     早田文蔵が、燧ケ岳山麓の沼尻平で「ナカハノマウモンゴケ」を新発見。
7月 26日   岩越鉄道 (磐越西線) が郡山〜中山宿まで開通。
8月     坂下町 (会津坂下町) から出火し、焼失300余戸。
10月 1日   政治雑誌「会津週報」が創刊。
10月 5日   野岩鉄道の仮免許が期限切れ、最初の挫折。
12月 7日   私立会津法律学校が開校 (明治36年2月に廃校)。
明治32(1899)年
2月 28日   猪苗代町四谷から出火、焼失10戸。
3月 10日   岩越鉄道 (磐越西線) の「山潟駅 (現/上戸駅)〜郡山駅」が開通。
4月     猪苗代町新町から出火、焼失13戸。
5月 5日   西川村宮下 (三島町) から出火、焼失23戸。
5月 15日   永井野村永井野 (会津美里町) から出火、焼失53戸。
4月 1日   現/福島県で最初の市として、若松市が発足 (人口 30,488人)。
中学校令の改正で、会津尋常中学校が会津中学校に改称。
6月 16日   若松市で第1回市会議員選挙で30名が選出。
7月26日、乞われて秋山清八が初代市長に就任。
7月 15日   岩越鉄道 (磐越西線) の「若松駅 (現/会津若松駅)〜郡山駅」が開通。
8月 4日   岩越鉄道 (磐越西線) の「川桁駅」が貨物駅として新設。
10月     会津中学校で、第1回競漕大会を猪苗代湖/小石ヶ浜で開催。
 この年 「会津日報」が創刊。 明治38年5月24日に創刊とも。
 この年 神指村下神指 (会津若松市) から出火、焼失10戸。
明治33(1900)年
2月 14日   榎沢村針生 (南会津町) から出火、焼失33戸。
4月 3日   上野尻村 (西会津町) から出火、焼失17戸。
5月 15日   伊南村浜野 (只見町) から出火、焼失13戸。
6月 4日   伊南村古町 (只見町) から出火、焼失14戸。
7月 17日   吾妻村 (猪苗代町) の沼ノ平/硫黄山の硫黄精錬所で30余名が犠牲・40余名が負傷。
9月 16日   阿弥陀寺で戊辰戦死者三十三回忌法要が催される。
10月 30日   小梁村梁取 (只見町) から出火、焼失9戸。
11月 3日   岩越鉄道 (磐越西線) の「川桁駅」が貨物駅から一般駅に変更。
12月 5日   野口英世が渡米のため横浜港より出航。
12月 13日   会津電力が創立。
12月     大雪、積雪5〜6尺 (150〜180センチメートル)。
明治34(1901)年
3月 13日   会津育英会が設立。
4月 1日   会津中学校が、県立に移管される。
同月24日に県立会津中学校と改称。
4月 19日   瓜生岩子の銅像が、東京/浅草時の境内に建立。
5月 7日   千咲村 (会津坂下町) から出火、村の9割が焼失。
10月     川南村 (北会津町) の小松渡しに高田橋 (長さ300間) が架設。
明治36(1903)年7月31日に完成とも。
11月 23日   大塩川を利用した岩下発電所 (120KW) が送電開始。
11月     東山発電所 (280kW、会津若松市) が完成。
〃      野口英世が「蛇毒の研究」を発表、米国/医学界で絶賛される。
12月 1日   若松市に初めて電燈が灯る。
明治35(1902)年
1月 1日   会津電力株式会社が開業し東山発電所から70KWを送電開始、市内に電力が供給される。 前年の初電燈の電力は岩下発電所の送電であった。
1月 30日   若松〜米沢間の電信が開通。
2月     千咲村宮月 (会津坂下町) から出火、焼失11戸。
3月 15日   会津中学校で「学而会雑誌」が創刊。
4月 5日   田島町東野 (南会津町) から出火、焼失12戸。
4月     柳津村一王町 (柳津町) から出火、焼失30戸。
5月 1日   竪三日町の飲食店/鈴木方から出火、焼失360戸。 240余戸とも。
5月 14日   〜15日、西川村滝谷 (三島町) から出火、焼失34戸。
5月     田島村長野 (只見町) から出火、焼失20戸。
8月 8日   柳津村寺家町 (柳津町) から出火、焼失46戸。
8月 14日   只見川が氾濫し、犠牲者1千余名。
9月 14日   川路村大石 (会津美里町) から出火、焼失12戸。
9月 28日   大暴風雨、大洪水、死者102名。
全壊758棟、破損6,992棟、水田872町歩、畑174町歩。
〜29日、伊奈川も大洪水。
明治36(1903)年
4月 15日   勝常寺
 ◇ 薬師如来坐像、日光・月光菩薩像、十一面観音立像が国宝
 ◇ 薬師堂が特別保護建造物 (現/国重文)
延命寺の地蔵堂 (藤倉二階堂) が、特別保護建造物 (現/国重文)
に指定される。
5月 16日   川口村小栗山 (金山町) から出火、焼失18戸27棟。
6月 16日   伊南村青柳 (只見町) から出火、焼失18戸。
8月 1日   会津中学校の校旗が制定。
8月 25日   赤沢村赤留 (会津美里町) から出火、焼失12戸。
明治37(1904)年
1月 20日   岩越鉄道 (磐越西線) の「若松駅〜喜多方駅」が開通。
2月 11日   特別保護建造物 (現/国重文) に指定される。
 ◇ 恵隆寺の立木観音堂
 ◇ 八葉寺の阿弥陀堂
 ◇ 常福院の田子薬師堂 (同月18日)。
若松市立会津図書館が開館。 同月18日より閲覧を開始。
4月 15日   県立会津工業学校が開校。
6月 20日   北山村漆 (北塩原村) から出火、焼失16戸。
6月 12日   若松大火。
8月 21日   猪苗代町新町から出火、焼失90戸。
11月 12日   神指村 (会津若松市) の文殊堂が焼失。
12月 3日   伊南村宮沢 (只見町) から出火、焼失13戸。
 この年 慧日寺が、恵日寺として再興。
明治38(1905)年
3月 27日   県立会津工業学校の第1回卒業式で、漆工科12名が巣立つ。
3月     吾妻村小田 (猪苗代町) から出火、焼失41戸。
5月 6月   坂下町上町 (会津坂下町) から出火、焼失41戸。 焼失100戸とも。
5月 18日   若松市立会津女子技芸学校が開校 (創立は5月1日)。
6月 12日   馬場上二ノ丁町丑木方から出火、焼失119戸。
明治39(1906)年
1月 6日   中ノ川村砂子原 (柳津町) から出火、焼失6戸。
5月 2日   大和町から出火、焼失156戸。
5月 23日   〜25日 玉梨村・中井村 (金山町) 一帯が気温低下、作物の霜害甚大。
11月 1日   岩越鉄道が国有化され、官設鉄道の岩越線 (磐越西線) となる。
名称変更は、明治42(1909)年10月12日から。
12月 8日   熊倉村高柳 (喜多方市) から出火、焼失11戸。
 この年 大宮村入小屋 (南会津町) から出火、焼失8戸。
明治40(1907)年
4月 9日   高田村 (会津美里町) 一帯に巨大な雹が降り、作物が壊滅。
4月 15日   旭田村南倉沢 (下郷町) から出火、焼失15戸。
4月 27日   世界的な版画家/斎藤清が、会津坂下町に生れる。
8月 28日   若松市の市街地が浸水。
11月 3日   「会津実業新聞」(旬刊) が創刊。
 この年 辰野次郎が「会津白虎隊十有九士実伝」を著す。
      姥堂村上利根川 (喜多方市) から出火、焼失10戸。
明治41(1908)年
4月 11日   ソニーの創業者/井深大が、栃木県日光市で誕生。
9月     伊北村塩沢 (只見町) の製塩が廃止。
明治38(1905)年、日露戦争の膨大な戦費調達で塩の専売制度を実施。
11月     若松電話交換局が落成。 12月1日より電話が開通。
12月 10月   若松で雑誌「若葉」が創刊。
明治42(1909)年
3月     月輪村都沢 (猪苗代町) から出火、焼失32棟・非住宅20棟・倉庫15棟。
4月 6日   堂島村赤星 (喜多方市) から出火、焼失17戸。
4月 14日   柳津村一王町 (柳津町) から出火、焼失21戸。
4月 21日   群岡村下野尻 (西会津町) から出火、焼失7戸。
5月 1日   県立会津高等女学校が開校。
5月 18日   磐梯村大寺 (磐梯町) で汽車から飛び火し、70戸・学校・役場が焼失。
5月 31日   野沢村原町 (西会津町) から出火、焼失270戸。
9月 26日   東山村 (会津若松市) に電話が開通。
10月 21日   喜多方町 (喜多方市) に電話が開通。
明治43(1910)年
2月 26日   坂下町 (会津坂下町) に電話が開通。
4月     若松〜坂下間に初の乗合自動車が運行。
4月 30日   野沢村原町 (西会津町) から出火、焼失21戸。
5月 3日   旭田村水門 (下郷町) から出火、焼失23戸。
5月 17日   〜26日、ハレー彗星が出現。
6月 11日   斗南藩主/松平容大公没 (41歳)

7月 20日   西方村 (三島町) から出火、焼失14戸。 7月23日に本屋6軒・棟数12棟とも。
8月 1日   大志村 (金山町) で火災、焼失5戸。
8月 9日   翁島村戸ノ口 (猪苗代町) から出火、焼失20戸。
8月 10日   〜11日、暴風雨、湯川が大洪水。
11月 15日   文部省視学官/小西重直が会津工業高校の事業を視察。
12月 15日   岩越鉄道 (磐越西線) の 「若松駅山都駅」 が開通。
 この年 一ノ戸川鉄橋 (喜多方市) が完成。 完成時は東洋一。
明治44(1911)年
3月 9日   木幡村宮古 (喜多方市) から出火、焼失15戸。
4月 31日   中ノ川村砂子原 (柳津町) の裏山からの野火で焼失31戸。
5月 20日   坂下町 (会津坂下町) から出火、焼失413戸。
5月 25日   塔寺村 (会津坂下町) から出火、焼失99戸。
5月     田島町長野 (南会津町) から出火、焼失16戸。
7月 8日   「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」で、野口英世の名が世界の医学界に知れわたる。
7月 13日   〜17日、豪雨が続く。 塩川方面 (喜多方市) では流出田畑88町歩・浸水田畑1,659町歩・浸水家屋2,214戸。
河沼郡でも浸水家屋49戸など、各地で大被害。
8月 15日   加藤長四郎が「会津藩戦死名簿」を刊行。
9月     ようやく「京都守護職始末/山川浩」が刊行できた。 11月とも。
9月     吾妻村高森 (猪苗代町) から出火、焼失10戸。
明治45(1912)年7月30日まで
1月 22日   政友会系「若松新聞」が創刊。 大正2(1913)年7月1日に廃刊。
4月 20日   「会津会」の創立が決まる。
2月 15日   野岩鉄道敷設が貴族院で可決。
5月 25日   市立若松商業学校が開校。

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