兄/山本覚馬が生きていることを知り、母などと一緒に上洛した八重が移り住んだ。
覚馬が新門辰五郎から36圓で買い取っていた敷地/約100坪 5部屋の住宅で、覚馬は終生 住み続けている。
明治8(1875)年には、新島襄も居候した。
平成25(2013)年11月2日、大河ドラマ「八重の桜」放映を機に建立された。
「北隣地 明治時代 山本覚馬-八重邸跡
上京三十一区下丸屋丁三百九十一番地」
▲(京都市中京区河原町
∴
御池交差点/南西角/三栄ビル前、スギ薬局前)
明治11(1878)年に竣工した建物で、外観はコロニアル・スタイルの洋風だが、内部は和が取り入れられ和洋折衷になっている。
八重は、夫/襄の没後も書斎を生前のまま維持し、生涯 住み続けた。
現在でも、暮らした当時のまま保たれている。
▲(京都市上京区寺町通丸太町上ル松陰町)
八重の夫/新島襄らが、キリスト教に基づく本格的な国際教育を行うために設立。
しかも、キリスト教の伝道を目的とはしていない。
校名「志を同じくする者が集まって創る結社」は、八重の兄/山本覚馬が命名。
明治8(1875)年 前身となる同志社英学校が開校。
明治9(1876)年、覚馬が提供した現/敷地に移転。
斗南藩主/松平容大 (中退) や、もう一人の八重/井深八重、自由民権運動家/兼子常五郎など多くの会津出身者を輩出している。
敷地内に国指定の重要文化財である日本で現存最古のレンガ造りのプロテスタント教会/礼拝堂 (明治19(1886)年) や彰栄館 (明治17(1884)年)、ハリス理化学館 (明治23(1890)年)、クラーク記念館 (明治26(1893)年) がある。
ハリス理化学館には、資料が展示されて一般公開されている。
なぜか構内に、大日如来の石柱が設置されていた。
平成25(2013)年2月26日、大河ドラマ「八重の桜」放映を機に、府庁旧本館の中庭にある松平容保の名を冠した「容保桜」の実生苗木が植樹された。
今の学生たちが社会で活躍する頃には、見事な桜花を見せてくれるだろう。
▲(京都市上京区今出川通り烏丸東入 Tel. 075-251-3120)
明治9(1876)年、新島襄が京都御苑内の旧/柳原邸に同志社女子塾を設立。
明治(1877)年、同志社女子塾を母体として同志社分校女紅場を開設。
同年9月、同志社女学校と改称。
▲(京都市上京区今出川通寺町西入
Tel. 075-251-4128)
明治5(1872)年4月14日、日本初の女学校として旧/九条殿河原町邸に開校、八重は教師として礼法・養蚕・機織りなどを教え、母/さくは舎監を務める。
英国人教師による英学 (英語教育)と、女工 (裁縫・手芸・読み書きなど)の2科でスタート。
旧/会津藩奥右筆の妻の蘆澤鳴尾も、書道の教師を務めた。
明治9(1876)年5月、「女学校及紅場」と改称。
今の「京都府立鴨沂高校」と「八坂女紅場学園 (舞妓・芸妓の教育所)」へとつながる。
▲(中京区駒之町
鴨川に架かる丸太町橋西詰/北東の角)
明治37(1904)年4月、府立京都第一高等女学校と改称。
昭和23(1948)年4月、現校名に改称。
▲(京都市上京区相国寺門前町709 Tel. 075-231-1512)
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八坂女紅場学園 (祇園甲部歌舞練場内)昭和26(1651)年、学校法人「八坂女紅場学園」となる。祇園町南側界隈の土地を所有している。 「祇園女子技芸学校」とは、まったくの別法人。 ▲(京都市東山区祇園町南側570-2 Tel. 075-561-1115) |
晩年に禅の教えに興味を持った八重が、度々、管長/竹田黙雷禅師を訪ねた。 巷で「仏教に改宗した」との噂に対して、「キリスト教徒が仏教の話しを聞いてはいけないのですか」と反論し動じなかったエピソードは有名。
建仁2(1202)年、栄西が鎌倉幕府2代将軍/源頼家の援助で臨済宗の拠点として創建。本尊は釈迦如来。
▲(京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町584 Tel. 075-561-6363)
藩士/山本権八の娘、山本覚馬の妹。
新島襄の妻。
戊辰の役では、籠城戦にて奮戦。
略歴については、こちら。
山本権八の長男、新島八重の兄。
禁門の変の傷で後に失明、戊辰の役で捕えられるが逸材と知る薩摩藩から厚遇、建白書「管見」は明治政府の政策の骨格となる。 最初の京都府会議員に当選、初代議長にもなった。
権八と佐久は<
覚馬と八重の父母。
権八の墓は、光明寺。
三郎の慰霊碑は、黒谷にもある。
入り口の標識の通り「約20分」は、たっぷりある。
運動不足の年寄りには、結構きつかった。
▲(京都市左京区鹿ケ谷若王子山町)
同志社卒の横井時雄と結婚し、長男/平馬を出産の数日後に25歳の若さで死去。
後に平馬は山本家の養嗣子になる。
時雄の父/横井平四郎(小楠)の「平」と、実父/覚馬の「馬」から取った名前とのこと。
以前は、八重の夫/新島襄の父/民治の墓 (同志社墓地に改葬) もあり、この地に襄も埋葬の予定だったとのこと。
拝観経路に含まれておらず、墓参はできなかった。
▲入場有料 (京都市左京区南禅寺福地町86-8 Tel. 075-771-0744)