・統治 225年間 = 寛永20(1643)年〜明治元(1868)年
・石高 23万石 + 5万5千石(南山御蔵入領)
会津 + 蒲原・安積・魚沼・岩舟・三島・塩谷の一部
実高44万石 → 49万石
☆ 在任 寛永20(1643)年〜寛文9(1669)年
略歴については、こちら。
将軍/秀忠の4男として生れる。家光の実弟。
秀忠は恐妻家で知られ、母/於静の妊娠を正室に知られないようにしての誕生で、武田信玄の次女/見性院に預けられて幼年期を過ごした。
父子が対面したのは、秀忠の正室/於江與の死後であり、正之公19歳の時である。
高遠藩主/保科正光の養子となり、寛永8(1631)年に高遠藩3万石の藩主に就く。
山形藩20万石を経て、寛永20(1643)年に会津藩主 (23万石+新田+預り地) となる。
秀忠の死後、将軍となった家光は、まじめで有能な弟の正之公が大層お気に入りであった。 死に臨んで枕頭に呼び寄せ、遺言を託したほどである。
次の幼い将軍/家綱 (甥) の輔弼役 (実質的な副将軍) を全うし、武断政治から文治政治への転換を成し遂げている。 すでに会津藩で実施していた先君への殉死の禁止や、世継のないことによるお家断絶の緩和 (末期養子) などを、幕府として制度化した。
飲用水の安定供給のため、玉川上水も開削した。
未曾有の災害/明暦の大火では、行動力、統率力、市場性の洞察力などを発揮し、後の模範とされている。 詳細については、こちら。
藩内では、「漆、鉛、蝋、熊皮、巣鷹、女、駒、紙」の8品目を藩外持ち出しを制限し、産業としての育成に努めた。
諸宿駅制、飢饉時の救済のための社倉制 (日本初)、相場米買上制、升と秤の統一などを行って、飢饉の年にも餓死者を1人も出さなかった。
90歳以上の老人には、身分を問わず、玄米5合/日を支給している。
これが、日本の年金制度の始まりとされている。
・慶長16(1611)年5月7日
〜寛文12(1672)年12月18日 (箕田藩邸で死去、63歳)
・別称 幸松丸(幼名)、肥後守
・祖父 徳川家康
・父 2代将軍/徳川秀忠
・母 於静(於志津、浄光院、北条氏旧臣/神尾栄加の娘)
・養父 高遠藩主/保科正光
・養母 見性院
・正室 菊姫
幸松(長男)
・継室 於萬 (於万)
正頼(次男)、
媛姫(徳姫、春姫、清光院、長女、米沢藩主/上杉綱勝へ嫁ぐ)、
中姫(次女)
、将監(3男)
、正経公(4男)、
石姫(宮姫、5女、小田原藩主/稲葉正往へ嫁ぐ)
風姫(6女)、
亀姫(7女)、
正純(5男)
・側室 於塩
菊姫(3女)、
摩須姫(松姫、松嶺院、4女、加賀藩主/前田綱紀へ嫁ぐ)
・側室 富貴(布貴)
正容公(6男)、算姫(9女)
・側室 澤井氏
金姫(8女)
・兄弟 <全員が異母兄姉で、正之公は末弟>
長姉/千姫
.次姉/珠姫(子々姫)
.長兄/長丸
.3姉/勝姫
4姉/初姫
.次兄/家光
.3兄/忠長
.5姉/和子 (松姫)
・墓所 神号「土津霊神」として、猪苗代町見祢山に葬られた。
延宝3(1675)年、墓所に隣接の土津神社が建立され、
祭神「土津大明神」として祀られる。
以後、第2代/正経公を除き、藩主は神式で祀られている。
寛文8(1668)年、「会津家訓十五箇条」を定めた。 最初に、
大君の儀 一心大切に忠勤を存ずべく 列国の例を以て自ら処るべからず
若し二心を懐かば 則ちわが子孫にあらず 面々決して従うべからず。
と記されている。
忠実に守られ続け、幕末に「火中の栗を拾う」という悲劇の道を進む一因となる。
☆ 在任 寛文9(1669)年〜延宝9(1681)年
正之公の4男として江戸/芝藩邸にて誕生。
寛文9(1669)年4月27日、父の隠居に伴い家督を継ぐも、病弱であったという。
延宝3(1675)年8月19日、亡くなった正之公を弔うため土津神社を建立。
寛文10(1670)年、領民を疫病から救う目的で、「薬草園 (後の御薬園)」を建設。
延宝2(1674)年、藩士学問所「講所」を創設し学問の奨励などにも力を注ぎ、名君だったと伝えられている。
延宝9(1681)年、隠居し家督を弟/正容公へ譲る。
・正保3(1646)年12月27日〜天和元(1681)年10月3日 (箕田藩邸で死去、36歳)
・別称 大之助(幼名)、肥後守 号:素行軒致休
・父 保科正之公
・母 於萬
・正室 久萬姫(加賀藩主/前田利常の娘、僊渓院殿昌室宗桂大禅定尼)
慶安4(1651)年、誕生
寛文6(1666)年3月31日に入輿〜正徳5(1715)年2月8日死去
・側室 佐藤氏
・側室 於せん(恵照院、池原吉左衛門の娘)
承応2(1653)年誕生〜享保14(1729)年死去
諏訪姫(長女)
・養嗣子 正容公(正之公の6男)
・戒名 鳳翔院殿前拾遣會陽太守宜山休公大居士 (唯一の仏式)
☆ 在任 天和元(1681)年〜享保16(1731)年
正之公の6男として鶴ヶ城にて誕生。
延宝8(1680)年、兄の正経公の養嗣子となる。
延宝9(1681)年、兄の隠居に伴い、13歳で家督を継ぐ。
元禄9(1696)年、松平姓と葵の紋の永代使用を受け入れ、正式に家門大名となり、御家門の筆頭として江戸城内の黒書院溜之間の常詰となる。
学問の奨励などに力を注ぐ。
特産物を輸出するための運搬路として、阿賀川水路の整備や、新たな猪苗代と南会津ルートを整備した。 猪苗代(沼の平)の硫黄鉱山の開発や、藩札を発行するなど、藩財政の改革も行っている。
宝永6(1709)年3月、江戸和田倉門内に御屋敷を拝領、小川町邸を返却し移る。
・寛文9(1669)年1月29日〜享保16(1731)年9月10日 (鶴ヶ城で死去、63歳)
・別称 十四郎 → 重四郎 (幼名)、正信 (初名)、保科正容、肥後守
・父 保科正之公
・母 富貴(栄寿院、沖友也昌純の娘)
・養父 保科正経公
・正室 竹姫
・継室 祐姫
元姫(長女)
、正甫(3男)
、栄之丞(4男)
、順子(次女)
・側室 於伊知(美崎)
容貞公(8男)
・側室 於佐久(外嶋定重の娘、唯心院)
元禄14(1701)年誕生〜安永5(1776)年1月18日死去
常姫(梅園院、4女、加賀藩主/前田宗辰へ嫁ぐ)
、
容章(9男
-)
・側室 於もん(智現院、榎本遺倫の娘)
正邦(長男、真照院殿玉峰雪童子)
、春之助(次男)
・側室 於きち(量寿院、小林義昌の娘)
元禄6(1693)年誕生〜享保10(1725)年死去
正房(5男)
・側室 於礼津(れつ、珊瑚院、篠澤秀全の娘)
貞享(1686)年誕生〜享保13(1728)年死去
萬吉(6男)、養姫(3女)、政五郎(7男)
・神号 徳翁霊神
☆ 在任 享保16(1731)年〜寛延3(1750)年
正容公の8男として鶴ヶ城にて誕生。
享保16(1731)年、父の死去に伴い、幼少で家督を継ぐ。
しかし、享年27歳の若さで死去。
・享保9(1724)年8月16日〜寛延3(1750)年9月27日 (箕田藩邸で死去)
・別称 菊千代(幼名、長菊とも)、肥後守
・父 松平正容公
・母 於伊知(美崎、本妙院、塩見平右衛門行重の娘)
・正室 登茂姫(友姫、高松藩主/松平頼豊の娘、正覚院殿雲香妙花大姉)
享保7(1722)年誕生
延享元(1744)年11月25日入輿〜延享3(1746)年5月17日死去
・継室 於貴也 (貴養、壽詮院)
容頌公(長男)、貞歴(次男)
・側室 於そよ(安恵重直の娘)
吉姫(喜知姫、長女)
・側室 於きし(中村氏の娘)
員姫(次女)
・神号 土常
南会津と大沼郡の大半、栃木県の1部は「南山5万石」とよばれ、幕府の天領 (蔵入地) となったり、会津藩の預かり地と繰り返していた。
天領の時、冷害と天候不順のため百姓一揆が起きた。
会津藩が預かり地として管理した時の年貢は多い時で43%だったが、天領の時は63%であった。
この一揆は会津藩内にも波及し、若松城下にまで強訴があったという。
参勤交代の1年免除を受け、その経費などを含め、社倉米などを窮民に与え、藩士や農民を救済した。
☆ 在任 寛延3(1750)年〜文化2(1805)年
容貞公の長男として鶴ヶ城にて誕生。
寛延3(1750)年11月12日、幼少 (7歳) で家督を相続する。
しばらく容貞公の弟で叔父にあたる容章が藩政を担う。
宝暦9(1759)年、藩主として会津にお国入り。
聡明で博識の誉れが高く、藩祖/正之公以来の名君といわれる。
・寛保4(1744)年1月9日〜文化2(1805)年7月29日(62歳)
・別称 亀之助、亀五郎(幼名)、容綏、容清、肥後守
・父 松平容貞公
・母 貴也 (貴養、壽詮院)
・正室 銑姫(鉄姫、忍藩主/阿部正允の娘、浄心院殿貞巌紹節大姉)
・継室 齢姫(誠姫
・側室 於みさ(得悟院、内野喜兵衛の娘)
・婚約 直姫(玉章院、加賀藩主/前田重煕の養女、庄内藩主/酒井忠寄の娘、
入輿前の8歳で夭折)
・結納 沛姫(春台院、仙台藩主/伊達宗村の娘、入輿前に死去)
・養子 容詮(松平容章の子、宣明院殿円通義覚大居士
-
-)
常姫(容章の娘、
吉井藩/松平信明へ嫁ぎ、後に大洲藩主/加藤泰候に嫁ぐ、春洞院)
留姫
・神号 恭定
藩主に就任した頃、藩の借財が36万4千余両に達しており、財政は破綻していた。
しばらくは、容貞公の弟で叔父にあたる容章が藩政を担う。
6歳年下の田中玄宰を家老に登用し、藩の財政の再建をはじめ藩政の改革を行なう。
田中玄宰は、厳しい倹約令や華美な風俗の取り締まり、荒廃した農村の復興、特産品の奨励、教育の普及などを行った。
容頌公も、自ら節約に協力し、参勤交代の経費も大幅に削減した。
農村の復興では、城内に居座り、指示だけ出していた代官や奉行たちを、農村に赴任させ指導に当たらせた。
特産品の奨励では、蝋や漆を専売化し、養蚕や漆器の生産制を強化、他国から人を招聘して新たな酒造りも始めた。
酒処会津の始まりである。
江戸の中橋に会津藩産物会所を創設して販売を促進した結果、会津塗は、一時、江戸の漆器のほぼ100%を占めるようになった。
朝鮮人参 (会津人参) の栽培では、清国に輸出するほどにまで成長し、かつては生産高が全国1位で、品質も日本一と評価され、藩の財政に貢献した。
財政再建は達成され、会津藩中興の偉業を成し遂げた。
幕末まで財政は健全を続け、実質石高40万石以上は御三家の水戸藩をしのいでいた。
教育も推進し、全国300諸藩の中でも随一との評判を取った藩校「日新館」を創設している。 藩士の澤田名垂に命じ、「日新館童子訓(上下2巻)」も編纂させ、自らも筆を入れている。
正之公時代に編纂された「会津風土記」も改訂され、完成は容頌公の死後であったが「新編会津風土記」と呼ばれている。
悲恋物語の「皆鶴姫の碑」も建てている。
☆ 在任 文化2(1805〜1806)年閏8月19日〜12月27日
容詮の次男として、江戸/芝藩邸にて誕生。
藩主に就任し、将軍/家斉から特別の言葉を賜ったが、在任わずか5ヶ月で死去した。
「大將軍特に容住を召して曰く、祖父容頌篤實に勤仕すること數十年の久きを經たり、予將に之を賞せんとして未だ果さず、今不幸にして逝す遺憾に堪へず、汝亦宜しく心を政務に留むべしと」
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☆ 在任 文化3(1807)年〜文政5(1822)年
容住公の次男として、鶴ヶ城にて誕生。
父が早世したため、4歳で家督を継ぐ。
☆ 在任 文政5(1822)年〜嘉永5(1852)年
公式には、容住公の3男とされ、家督を継ぐ。
実際は、高須9代藩主/松平義和の4男 (庶子、3男とも) として誕生。
天保4(1833)年、越後国魚沼郡3千石余を預けられるも、大飢饉が起こった。
実高28万余石まで減じたという。
速やかに救済策を実施し、1人の餓死者も出さず、むしろ戸口は増えたという。
弘化4(1847)年2月15日、幕府から安房・上総両国の警備を命じられる。
翌年には、容敬公みずから房総警備を巡視し、自らスケッチを残す。
嘉永2(1849)年5月5日、容敬公は幕府の諮問に対し、
「外国船打払令の復活は時代に合わない、開港すべし」
と返答している。
会津人参などの輸出を通じて、国際情報の把握は国内随一であったとされる。
彦根藩主/井伊直弼は、国内の実力と海外情勢の掌握・分析力にいたく感心し、
「当今英雄の大将 天下のため無二の忠臣」
と称賛した。
・享和3(1803)年12月23日〜嘉永5(1852)年2月10日(47歳)
公式上は文化3(1806)年4月28日の生まれ
・別称 慶三郎(幼名)、靭負、容和(初名)
・父 高須藩主/松平義和
・母 たき(清琳院、平松氏)
・公式上の父 松平容住公
・公式上の母 白岩氏
・養父 松平容衆公
・正室 節姫(久保田藩主/佐竹義和の娘、本光院殿瑞岩妙祥大姉)
・継室 厚姫(加賀藩主/前田斉広の娘、清仙院殿齢保妙壽大禅定尼)
(後に正室)
厚姫(3女)
・側室 於絲(いと、小寺氏、1827〜1899、貞順院円心妙證大姉)
美世姫(邦姫、長女)、芳姫(次女)、
・側室 須賀(すが、寿賀、岡崎氏、1821-1896、円隆院殿鶴林禅雅大姉)
算三郎(長男)、幾久丸(次男)、熈(4女)
敏姫(5女、容保の正室、1843〜1861、宝鏡院殿鑑室智明大姉)
[金+皆]之助(3男)、浮陽院(6女)、瓊光院(7女)
・養子 松平容保(高須藩主/松平義建の6男)、
煕姫(飯野藩主/保科正丕の娘、中津藩主/奥平昌服へ嫁ぐが離縁)
・神号 忠恭
☆ 在任 嘉永5(1852)年〜慶応4(1868)年
概歴については、こちら。
高須10代藩主/松平義建の6男(7男とも)として生まれる。
「高須四兄弟 (徳川慶勝・徳川茂徳・松平定敬)」の1人。
弘化3(1846)年、12歳の時に容敬公の養子となり、嘉永5(1852)年に藩主となる。
その後、歴史に翻弄されることになる。
幕末の動乱についてや、孝明天皇からのご宸翰については、なぜか最後まで何も語らなかった。
・天保6(1836)年12月29日〜
明治26(1893)年12月5日(東京/
小石川の自宅にて肺炎で死去、59歳)
・別称 _之丞(幼名)、肥後守、祐堂(法号)、芳山(法号)
・主君 徳川家茂 → 徳川慶喜
・別称 _之允(幼名)、会津中将、会津宰相、肥後守
・父 高須藩主/松平義建
・母 於千代(善孝院、古森義孝の娘)
・養父 松平容敬公
・正室 敏姫(容敬公の5女、14歳で正室となるも19歳で死去)
・継室 禮子(礼姫、浦乃局、加賀藩主/前田慶寧の娘、1854〜1899、
戊辰の役で解消)
・側室 佐久(瑞光院、田代孫兵衛の娘、1846〜1909)
容大公(長男、11代当主)、
健雄(次男、伊佐須美神社宮司、1873〜1936)、
英夫(5男、山田伯爵家の婿養子、1875〜1945)、
保男(7男、海軍少将、1878〜1944)
・側室 名賀(貴代、霊光院、川村源兵衛の娘、1844〜1920)
美弥(長女、1869〜1909)、泡玉院(次女、1873)、3男(1875)、
4男(1875)、恒雄(6男(1877〜1949)
・側室 (非公式) 浦乃局 (通子)
・養子 徳川喜徳公(10代藩主、水戸藩)
・兄弟 源之助、徳川慶勝(尾張藩主)、松平武成(浜田藩主)、整三郎、
徳川茂徳(高須藩主 → 尾張藩主)、
(弟) 松平定敬(桑名藩主)、鐡丸、松平義勇(美濃/高須藩主)、
女(米沢藩主/上杉茂憲の正室)
・義姉 煕姫(照桂院、飯野藩主/保科正丕の娘、中津藩主/奥平昌服に嫁ぐも離縁)
・神号 忠誠
文久2(1862)年、幕政参与に任ぜられ、京都守護職にも推されるが固辞する。
その後、家臣の大反対を押し切り、朝廷の警護と京都の治安維持のため、敢えてこの大役を受諾。
「よの常の 旅路なりせば ふり捨てて 行れんものか ふじのしら雪」
“火中の栗を拾う”を承知の上での受諾であり、会津の悲劇へ繋がっていく。
赴任当初は、朝廷の許可のもと倒幕派の者とも話し合いを行っている。
京都市内の治安維持に、尽力する。
しかし、倒幕派のあまりの傍若無人に、新選組と改める配下の壬生浪士組などを使うことになる。
また、薩摩藩と手を組み、孝明天皇に弓弾く不穏な輩を、京都から排除している。
孝明天皇は、容保の人柄、忠節心にいたく感謝され厚い信頼を賜り、褒め称えたご辰韓 (書簡と和歌) をいただいている。
文久4(1864)年に京都守護職を辞任するも、元治元(1864)年に復職している。
慶応2(1866)年、孝明天皇が暗殺で崩御され、この時も京都守護職辞退を何度も申し立てるが、幕府も朝廷も認めなかった。
朝廷の命令により、容保は京都残留。
次いで、従兄弟の息子/慶喜が将軍となり、一途に幕府を守る立場を取ることになる。
慶応4(1868)年1月3日、戊辰の役、ぼっ発。
◇全会津の人口 240,000人
・武士 23,000人(家族含む)
・村方衆 155,000人
・その他 8,000人
・南山御蔵入 54,000人
◇若松城下 39,000人
・武士 23,000人(家族含む)
・若松町方衆 16,000人
◇家臣数 4,500人
◇江戸詰め 1,600人
慶応4(1686)年2月、恭順の意を表し隠居、藩主の地位を降りる。
同年9月22日、降伏勧告に応じて、開城。
戦後処理において西軍のやり方は、空前絶後の極悪非道なものだった。
孝明天皇から拝領したご辰韓は、小さな竹筒に入れ首から下げ、死ぬまで手放すことはなかった。
容保こそ忠臣であることを示すものであるため、明治政府にとっては抹殺しなければないらいものとして恐れたという。
ご宸翰の存在を知り、内容を知って驚愕した山縣有朋は、密かに現在の10数億円で買いたいと申し入れたが、黙殺される。
その後の明治政府の対応は一変し、気を遣うようになる。
昭和3(1928)年、松平勢津子 (容保の6男/恒雄の長女) が、秩父宮雍仁親王 (大正天皇の第2皇子) に嫁ぎ、汚名は完全に晴れた。
☆ 在任 慶応4(1868)年〜明治4(1871))年
水戸藩主/徳川斉昭の19男として生まれる。
最後の徳川将軍/慶喜の弟でもある。
慶応3(1867)年、松平容保の養子となる。
慶応4(1868)年2月、容保の隠居により、家督を相続する。
戊辰の役後、久留米藩預りとなる。
養父/容保の長男/容大公が斗南藩に移封されると、斗南藩預りとなる。
明治6(1873)年8月11日に弟である守山藩主/松平頼之が死去したため、同年8月22日に養子縁組を解消し実家に復帰する。
のちに、頼之の養子となって松川藩(守山藩)の家督を継ぐ。
明治9(1876)年10月12日に横浜港からフランス留学に出発し、明治11(1878)年6月に帰国している。
明治17(1884)年7月8日、子爵となる。
[閑話]
・安政2(1855)年10月22日〜明治24(1891)年6月3日(37歳)
・別称 余九麿(幼名)
・父 水戸藩主/徳川斉昭
・母 高橋氏
・養父 松平容保、松平頼之(守山藩主)
・養子 松平頼平(宍戸藩主/松平頼位の3男)
・兄弟 徳川慶篤(水戸藩主)、次郎麿、三郎麿、四郎麿、池田慶徳(鳥取藩主)、
六郎麿、徳川慶喜(15代将軍)、松平直侯(川越藩主)、
池田茂政(岡山藩主)、松平武聰(浜田藩主 → 鶴田藩主)、
喜連川縄氏(喜連川藩主)、余二麿、余三麿、松平昭訓、余五麿、
松平忠和(島原藩主)、土屋挙直(土浦藩主)、徳川昭武(水戸藩主)、
(弟) 廿麿、廿一麿、松平頼之(守山藩主)
・墓地 谷中霊園(場所は不明)に埋葬されたが、院内御陵に改葬された