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蘆    名    氏

 鎌倉時代、執権北条の領地となり、相模国の三浦義明の7男/佐原義連公が地頭代となり、蘆名氏の租とする。
 桓武平氏の血筋で、分かれた系統。
 区別するために「会津蘆名氏」とも呼ばれる。
 本家の三浦氏は、足利尊氏に従って相模国守護となるも、その後に北条早雲と戦い滅亡している。

 居城のあった相模国の地名に由来し、“芦名”、“葦名”とも表記される。
 蘆名氏を名乗るのは、第3代領主/光盛公からである。
 歴代の領主の名には、「盛」の通し字を入れている。
 奥州を代表する有力な戦国大名として400年の栄華を誇ることになる。
 室町時代には、京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。
 蘆名400年の間に、多くの寺院 (328ヶ寺) も建立された。
 一族からは、日什大正師天海大僧正の名僧2人を輩出している。

  ・統治  400年間  = 文治5(1189)年〜天正17(1589)年
  ・石高  約72万石


佐原義連公 →
佐原盛連公  → 蘆名光盛公  → 蘆名泰盛公  → 蘆名盛宗公  → 蘆名盛員公  → 蘆名直盛公  → 蘆名詮盛公  → 蘆名盛政公  → 蘆名盛久公  → 蘆名盛信公  → 蘆名盛詮公  → 蘆名盛高公  → 蘆名盛滋公  → 蘆名盛舜公  → 蘆名盛氏公  → 蘆名盛興公  → 蘆名盛隆公  → 蘆名隆氏公  → 蘆名義広公  → 蘆名盛泰公  → 蘆名千鶴丸

初代領主  佐原 義連 (さはら よしつら)公

 400年も続いた蘆名時代の始祖である。
 三浦大介義明の7男として、三浦半島である相模国の佐原で誕生。
 佐原(横須賀市佐原)にを構え、佐原氏を名乗る。
 治承4(1180)年の源頼朝挙兵に、一族と共に馳せ参じて御家人となる。
 頼朝の信任厚く、養和元(1181)年には寝所警護の11名の1人に選ばれている。
 一ノ谷の合戦では源義経の軍に属し、“逆落とし”で真っ先に駆け下り武功をあげた。
 奥州征伐での功も加わり、会津四郡を拝領する。
 建久2(1191)年、地頭として会津入りし幕の内村を陣所 (佐原の館) とする。
 その後、半在家村の国府に館を築き、移り住む (伝?)。

  ・保延4(1138)年〜、永治元(1141)年〜とも
      〜建仁3(1203)年5月17日 (78歳) <葦名系図>
      〜建久3(1192)年4月15日没 (75歳) とも <異本塔寺長帳>
      〜承久3(1221)年4月15日没 (82歳) とも <葦名家由緒考證>
  ・別称 三浦十郎、佐原十郎、三浦義連
      従五位上、左衛門尉      号 : 性阿
  ・父  三浦義明
  ・兄弟 兄/杉本義宗、三浦義澄大多和義久
      弟/多々良義春、長井義季、杜重行、
      妹 (源義朝の側室)、妹 (畠山重能の正室)、妹 (金田頼次の正室)、
      妹 (長江義景の正室)
  ・正室 武田信光の娘、伊藤三郎(左衛門)の娘 (海蔵院殿鶴栖妙聲禅尼)
  ・子  盛連公、政連、景連
  ・墓所 半在家(宝きょう印塔)岩尾館(五輪塔)、三浦半島/満願寺(五輪塔)
  ・諱  満願寺殿得應性空大禅定門

第2代領主  佐原 盛連 (もりつら)公

 義連公の5男として生れる。
 黒川小館 (融通寺町) に住む。
 山城を小田山に築き、城下を黒川と称した。
 嘉禄2(1226)年に京都で酒に酔って乱暴狼藉をはたらいた罪で、天福元(1233)年に幕府によって殺害された。
 酒乱のため、「悪遠江守」とも呼ばれていたとのこと。
 三浦氏の乱の時、6人の子は幕府側として戦う。

  ・承安4(1174)年〜天福元(1233)年5月
  ・別称 二郎兵衛尉
      従五位下、遠江守、兵衛尉
  ・父  佐原義連公
  ・正室 (常善院殿瑞雲妙慶大禅尼)
      経連(長男、亀ヶ城を築き、耶麻郡半郡を領し、猪苗代氏を称す)
      広盛(次男、河沼郡北田に城を築き、河沼郡半郡を領し、北田氏を称す)
      盛義(3男、河沼郡藤倉にを築き、河沼郡半郡を領し、藤倉氏を称す)
  ・室  矢部禅尼 (三浦義村の娘)
      光盛公(4男、家督して会津を総領)
      盛時(5男、耶麻郡加納に城を築き、荘三宮を領し、加納氏を称す)
      時連(6男、麻耶郡新宮に城を築き、麻耶郡半郡を領し、新宮氏を称す)
  ・墓所 佐原城近くの寺と伝わるが現存していない
  ・諱  高照院殿真誉俊嶺大禅定門

(※ 大沼郡は伊佐須美神社の社領) .

第3代領主  蘆名 光盛 (みつもり)公

 盛連公の4男として生れる。
 佐原の氏を改め、蘆名を名乗る。
 父と共に、黒川小館に住む。
 宝治元(1247)年、宝治合戦で本家の佐原一族は滅亡するが、幕府方だった光盛公が佐原家の家名を残す。
 康元元(1256)年、執権の北条時頼が剃髪すると、光盛公も出家した。

  ・元久元(1204)年〜弘長3(1263)年
      文永5(1268)年没とも
  ・別称 次郎、四郎左衛門尉、次郎、左京太夫
      従五位下 (従四位上とも)、遠江守、左衛門尉、法名武山
  ・父  佐原盛連公
  ・正室 森崎隆時の妹 (岩松院殿天窓妙公大禅尼)
  ・子  経光
  ・養子 泰盛公
  ・墓所 寿山廟と伝わるが現存していない
  ・諱  祥瑞院殿寿山昌隣大禅定門

第4代領主  蘆名 泰盛 (やすもり)公

 弘安10(1287)年、鏡堂覚円 (大円禅師) を会津の地に招請し、興徳寺を建立した。
 元寇の再来襲に備え蒙古の情報収集のため、執権/北条時宗が宋 (中国) から高僧/無学祖元と鏡堂覚円を招請。

  ・嘉禎元(1235)年〜正和5(1314)年
      嘉禎2(1236)年誕生とも
  ・父  新宮時連
  ・義父 蘆名光盛公
  ・別称 三郎左衛門尉、下総守
      従五位下、遠江守、左衛門尉
  ・兄弟 兄/経光
  ・正室 加賀美遠光の娘 (恵照院殿影雲妙脉大比丘尼)
      盛宗公
  ・墓所 寿山廟と伝わるが現存していない
  ・諱  種徳院殿棟岩英梁大禅定門

第5代領主  蘆名 盛宗 (もりむね)公

 元寇では九州に赴き参戦している。
 元弘3/正慶2(1333)年に鎌倉幕府は滅亡したが、建武2(1335)年7月に北条時行 (鎌倉幕府14代執権の高時の子) が、鎌倉幕府復興のため挙兵した。
 「中先代の乱」 と呼ばれ、20日ほど鎌倉を支配した。
 建武2(1335)年、足利尊氏との相模国片瀬川の戦いで、子/盛員公・孫/高盛とともに戦死した。

  ・文永元(1264)年〜建武2(1335)年8月17日
      文永8(1271)年誕生とも
      暦応元/延元3(1338)年8月9日没 (68歳) とも
  ・別称 次郎左衛門尉
      従五位下、遠江守、左衛門尉
  ・父  蘆名泰盛公
  ・正室 藤原実成の養女 (昌明院殿日恵大法尼)
  ・側室 北田広胤の娘 (照雲院殿環月従満大禅定尼)
  ・子  盛員公、直盛公(?)
  ・外孫 日什大正師 (娘/清玉姫が石堂太郎覚知へ嫁ぐ)
  ・墓所 寿山廟と伝わるが現存していない
  ・諱  実相院殿泰嶺雲興大禅定門

第6代領主  蘆名 盛員 (もりかず)公

 建武2(1335)年、足利尊氏との相模国片瀬川の戦いで、父/盛宗公と嫡男/高盛と共に戦死した。
 建武3/延元元(1336)年、継室/笹谷御前観音堂を建立、後に笹谷御前を開基とした宝積寺が創建される。
 笹谷御前は高盛の正室との説も。

  ・弘安8(1285)年〜建武2(1335)年8月17日
      永仁4(1296)年誕生など異説も多い
  ・別称 蘆名判官、太夫判官、入道道円
      従五位下、遠江守
  ・父  蘆名盛宗公
  ・正室 奥州平泉/藤原氏の娘
  ・継室 笹谷御前 (笹谷七郎の娘、宝積院殿金峯尊公大禅定尼/大姉)
      次男/直盛公
  ・子  長男/高盛、姉
  ・墓所 寿山廟と伝わるが現存していない
      鎌倉/建長寺に埋葬とも伝わるが現存していない
  ・諱  正伝院殿月圃道円大禅定門

第7代領主  蘆名 直盛 (なおもり)公

 建武2(1335)年、足利尊氏との相模国片瀬川の戦いで、祖父/盛宗公・父/盛員公・兄/高盛が戦死したため家督を継ぐ。
 文和3(1354)年からの会津入り時は、小田の小高木館に滞在。
  「小田垣ノ館始テ築ク (会津鑑)」
  「或記曰小高木館立始云 今小田垣之字也 (会津旧事雑考)」
  「会津黒川小田里小高木城ヲ築ク (異本塔寺長張)」
  「今年小田山城成一郭作 内外号小田垣 (富田家年譜)」
 康暦元/天授5(1379)年、鎌倉から会津に移り、幕内村に3年住む。
 この代から、蘆名氏は会津に土着する。
 永徳2/弘和2(1382)年、小館へ移り、2年住む。
 至徳元/元中元(1384)年、東黒川館を築き移り住む。
 東黒川館は、黒川城を経て鶴ヶ城になる。
 この時に市井を「黒川」と改め、城を「鶴城」と称したという説がある。

  ・元亨3(1323)年〜明徳元/元中7(1391)年12月30日 (山城国内野で討死)
      元亨4(1324)年誕生とも
      元中6(1390)年没とも
  ・別称 三郎左衛門尉
      従四位下、遠江守、左衛門尉、若狭守
  ・父  蘆名盛員公、蘆名盛宗公(?)
  ・母  笹谷御前 (笹谷七郎の娘、宝積院殿金峯尊公大禅定尼/大姉)
  ・兄弟 兄/高盛、兄/盛員公(?)
  ・正室 三浦紀伊守時継の娘 (妙徳院殿花芳浄蓮日法尊尼)
  ・側室 徳授院
  ・子  詮盛公、直攻、盛常、娘
  ・墓所 寿山廟と伝わるが現存していない
      京都/上屋敷にて死去、京都/妙満寺に埋葬。
  ・諱  霊祥院殿瑞麟賢秀大禅定門
 [町割り]

第8代領主  蘆名 詮盛 (のりもり、あきもり)公

 元服の時に、将軍/足利義詮から1字「詮」が贈られる。
 応安元/正平23(1368)年、源翁禅師に帰依し、慶徳寺を創建・寄進した。
 後に日什大正師に帰依し、妙国寺の開山・廟所の建立に援助している。
 明徳3/元中9(1392)年、城東/観音寺を創建。

  ・貞和2/興国7(1346)年〜応永14(1407)年9月15日
      応永5(1398)年11月4日没とも (73歳)
      応永25(1418)年11月4日没とも
  ・別称 会津小太郎、刑部律師什明
      従五位下 (従四位下とも)、遠江守、弾正少弼
  ・父  蘆名直盛公
  ・正室 大森直持の娘 (紫光院殿瑞天恵祥大禅定尼)
  ・子  盛政公、満盛、娘 (山形城主/最上満直の正室)
  ・墓所 寿山廟と伝わるが現存していない
      日什大正師に帰依し受戒しており、師の墓の側に埋葬とも伝わる。
    ・諱  高雲院殿信誉什明大禅定門

第9代領主  蘆名 盛政 (もりまさ)公

 領主の地位を確固とすめため、所領の寄進など寺社の勢力と関係を深めた領主。
 蘆名家の御影堂とした宗英寺日什大正師を招聘し妙法寺など創建もしている。
 「会津守護」を名乗る。
 これ以降、代々の領主は「会津守護」を名乗る。
 永享6(1434)年6月5日、所領を子/盛久公に譲る。

  ・元中3/至徳3(1386)年〜永享6(1434)年
      天授2/永和2(1376)年〜永享13(1441)年とも。
      〜永享12(1440)年3月9日 (79歳)とも。
  ・別称 会津小太郎、会津守護、弾正、法名紗弥祐仁
      従五位下、左衛門尉、刑部大夫、修理大夫
  ・父  蘆名詮盛公
  ・兄弟 弟/満盛、妹(山形城主/最上満直の正室)
  ・正室 畠山氏
  ・継室 伊達宗遠の娘 (無量院殿壽庵植福大禅定尼)
  ・子  盛久公、盛信公、娘、金上盛興
  ・墓所 寿山廟と伝わるが現存していない
  ・諱  崇輪院殿久山道庵祐仁大禅定門

第10代領主  蘆名 盛久 (もりひさ)公

 永享4(1432)年、後に会津藩の御薬園となる別荘を建てたといわれている。

  ・応永23(1416)年〜文安元(1444)年7月2日
      明徳元/元中7(1390)年誕生とも
  ・別称 会津守護、蘆名五郎、蘆名三郎右衛門
      従五位下 (従六位上とも)、遠江守、刑部大輔、修理大夫、下総守
  ・父  蘆名盛政公
  ・正室 田村利政の娘 (幽窓院殿菊黄妙金大禅定尼)
  ・養子 弟/盛信公
  ・墓所 花見ヶ森廟と伝わるが現存していない
  ・諱  輪鎖院殿円山常融大禅定門

第11代領主  蘆名 盛信 (もりのぶ)公

 菩提寺として天寧寺を創建。
 文安6(1449)年、漆の木の植栽を奨励したのが会津塗の始まりとされる。
 その漆の実から採った蝋を灯りとして利用し、会津絵ろうそくへとつながる。
 後に蒲生氏郷公が前任地から木地師や塗り師らを連れて来てから産業として発展。

  ・応永15(1408)年〜宝徳3(1451)年3月18日
      応永23(1416)年誕生とも
      文明3(1471)年没とも
  ・別称 小次郎、左近将鏡、法名沙弥聖喜
      従五位下 (従六位上とも)、下総守、修理大夫
  ・父  蘆名盛政公
  ・正室 三浦時高 (高明とも) の娘、金上盛統の娘
  ・子  盛詮公
  ・墓所 狸ヶ森廟 位牌は元慶寺に現存
  ・諱  宝厳院殿元慶聖喜公大禅定門

第12代領主  蘆名 盛詮 (もりあきら)公

 家臣団の反乱の鎮圧などに明け暮れた。
 将軍/足利義政からの足利成氏追討令を受けたも、領内の内乱に追われ、対処できない状況だったという。

  ・永享3(1431)年〜文正元(1466)年3月14日
      応永30(1423)年誕生とも。
      〜明応7(1498)年8月25日 (57歳) 死去とも。
      29歳で死去とも。
  ・別称 三郎 (幼名)、会津守護
      従五位下、遠江守、下総守
  ・父  蘆名盛信公
  ・母  三浦時高 (高明とも) の娘
  ・正室 上州守護/宇都宮持綱の娘 (大慈院殿祥安玄瑞大禅定尼)
  ・子  盛高公、猪苗代盛清、宮田詮実、荒井盛信
  ・墓所 花見ヶ森廟と伝わるが現存していない
  ・諱  照光院殿祝厳尊祐大禅定門

第13代領主  蘆名 盛高 (もりたか)公

 蘆名家の基礎を築き上げた名君。
 渋川義基、松本対馬、猪苗代盛頼など相次ぐ内乱を打ち破って基盤を固める。
 実子の盛滋公と不仲となり追放したが、後に許して家督を継がせている。

  ・文安5(1448)年8月17日〜永正14(1517)年12月8日 (70歳)
      永正12(1515)年12月8日没で実相寺に埋葬とも
      永正15(1518)年没とも
  ・別称 小太郎、会津守護、左京太夫
      従四位下、修理大夫、刑部丞
  ・父  蘆名盛詮公
  ・母  宇都宮持綱の娘
  ・正室 越後守護/上杉房定の娘、大崎入道洞嶽の娘
  ・側室 伊達成宗 (尚宗とも) の娘
  ・子  盛滋公、盛舜公、泰心院 (奥州守護/伊達稙宗の正室)
  ・外玄孫 天海大僧正 (外孫/盛常の娘が船木景光へ嫁ぐ)
  ・墓所 花見ヶ森廟と伝わるが現存していない
  ・諱  常勝院殿天祥麟公大禅定門

(補) 大番役を勤めるため京都四條坊門油小路にあった広大な京都屋敷が応仁の乱で焼失したが、なぜか再建されることはなかった。

第14代領主  蘆名 盛滋 (もりしげ)公

 武勇に優れた領主との評価。
 永正2(1505)年、不仲となった父の盛高公と争い敗れ、出羽国長井に追放される。
 後に許され、帰国した。

  ・文明14(1482)年〜大永元(1521)2月6日 (40歳)
      寛正3(1462)年誕生とも
      寛正4(1463)年誕生とも
      文明16(1484)年誕生とも
      天文9(1540)年6月23日没 (59歳) とも
  ・別称 蘆名三郎、会津守護、出羽判官、出羽三郎判官
      従六位上、民部少輔、遠江守
  ・父  蘆名盛高公
  ・兄弟 弟/盛舜公、妹 (伊達稙宗の正室)
  ・正室 (芳岩院殿花山水悟大禅定尼)
  ・子  針生盛幸
  ・養子 盛舜公
  ・墓所 花見ヶ森廟と伝わるが現存していない
  ・諱  法住院殿成道高岩大禅定門

第15代領主  蘆名 盛舜 (もりきよ)公

 奥州を代表する戦国大名まで築き上げた名君。
 家督相続直後に、松本大学による反乱が起きるが鎮圧。
 内紛に乗じた猪苗代氏の攻撃も撃退し、葛西氏や岩城氏、結城氏との戦いでも領土を拡大した。

  ・延徳2(1490)年〜天文22(1553)年8月21日 (64歳)
      長享元(1487)年誕生とも
  ・別称 会津守護
      従五位下、遠江守、修理大夫
  ・父  蘆名盛高公
  ・母  上杉房定の娘
  ・養父 蘆名盛滋公
  ・兄弟 兄/盛滋、妹 (伊達稙宗の正室)
  ・正室 金上盛興(盛貞とも)の娘
  ・側室 川野御前(白拍子)
  ・子  氏方 (吉祥丸、山城守)、盛氏公、
      娘 (堀内近胤の正室)、娘 (陸奥小高城主/相馬盛胤の正室)
  ・墓所 花見ヶ森廟と伝わるが現存していない
  ・諱  雲松院殿慶峯善通大禅定門

第16代領主  蘆名 盛氏 (もりうじ)公

 蘆名家の全盛期を築き上げた名君。 「奥州の名君」と称された。
 山内氏を討ち、二階堂盛義を降伏させ、田村清顕も従属させ、 中通りまで勢力を拡大させた。 統治するために本格整備した勢至堂峠経由の街道が「白河街道」である。
 支配地は耶麻郡/河沼郡/大沼郡/会津郡の会津4郡のほか、安積郡西部と岩瀬郡長沼地方 (二本松、郡山、三春、須賀川、白河、相馬) に及ぶ。
 石高は120万石に達し、5万6千人の軍団を有する日本有数の戦国大名となる。
 甲斐/武田信玄や、関東/北条氏康などとも同盟を結び、遠交近攻の策を積極的に推進し、盤石な体制を整えた。
 戦国大名/四家合考として「丹波の赤井、江北の浅井、会津の盛氏、若干の三河の家康」と称されたが、明治に入り意図的に歴史から葬り去られている。
 永禄11(1568)年、家督を嫡男の盛興公に譲り、剃髪し止々斎と号して完成したばかりの向羽黒山城へ移り隠居したが、実質的に政治や軍事の実権を掌握していた。
 文人でもある盛氏公が常陸大田から雪舟を会津に住まわせ師事したため数多くの作品が残されていたが、戊辰の役で価値の判らないに焼失 (一部は略奪) される。
 盛氏公は側室を持たず唯1人の息子/盛興公が先に死去し、養子/盛隆公に継がせる。
 しかし、盛氏公の死後、蘆名家は急速に衰退をはじめる。
 9年後には、伊達政宗公との戦いに敗れることになる。

  ・大永元(1521)年〜天正8(1580)年6月17日 (60歳)
  ・別名 四郎丸 (幼名)、盛治 (初名)、平四郎 (通称)、止々斎 (号)
      従四位下 (従五位下とも)、修理大夫
  ・父  蘆名盛舜公
  ・母  金上盛興の娘
  ・正室 奥州守護/伊達稙宗の次女 (養徳院)
  ・子  盛興公、娘 (結城義親の正室)
  ・養子 盛隆公 (二階堂盛義の長男で、初めは人質)
  ・墓所 花見ヶ森廟宗英寺に現存する座像は国指定重文
  ・諱  瑞雲院殿竹巌宗関大禅定門
 [起請文]

第17代領主  蘆名 盛興 (もりおき)公

 若いながら優れた武将と、誉れ高い。
 ただし、無類の酒好きだったようだ。
 父/盛氏公は、領内に禁酒令を2度も出しているほど。
 この代で、蘆名氏の血脈は途絶え、一気に滅亡へと向かう。

  ・天文16(1547)年〜天正2(1574)年6月5日 (酒毒で死去、29歳)
  ・別称 会津守護、出羽判官
      従四位下 (従六位上とも)、修理大夫、左衛門尉
  ・父  蘆名盛氏公
  ・母  伊達稙宗の娘
  ・正室 彦姫 (奥州探題/伊達晴宗の4女)
      長女/円通院 (盛隆公の養女となる)
      次女/岩瀬御台(盛隆公の養女となる)
  ・墓所 花見ヶ森廟
  ・諱  喜応院殿武山浄勇大禅定門

第18代領主  蘆名 盛隆 (もりたか)公

 蘆名盛氏公は、二階堂盛義との戦いで勝利し、その長男が人質として送られてきた。
 その後、第17代領主/盛興公が世継を残さずに早世したため、盛興の未亡人/彦姫を正室とした上で養子となる。
 若いながら優れた武将と、誉れ高い。
 しかし、黒川城 (鶴ヶ城) 内で家来/大庭三左衛門に暗殺される。
 享年23歳での早すぎる突然の死が、蘆名氏滅亡を早めた。

  ・永禄4(1561)年〜天正12(1584)年10月6日
  ・別称 平四郎
      従五位下、三浦介 (織田信長の推挙による)、左京亮
  ・父  二階堂盛義
  ・母  阿南姫 (伊達晴宗の長女)
  ・養父 蘆名盛氏公
  ・正室 彦姫(盛興公の元/正室、隣昌院殿有芳永徳大禅定尼)
      子/隆氏公 (亀王丸、亀若丸とも)
      娘/江戸崎御前 (相馬中村藩主/相馬利胤の正室)
  ・養子 円通院 (盛興公の長女、義広公の正室)
      岩瀬御台 (二階堂盛義の養女となり出羽久保田藩主/佐竹義宣へ嫁ぐ)
  ・墓所 花見ヶ森廟
  ・諱  瑞泉院殿蘭室大禅定門

第19代領主  蘆名 隆氏 (たかうじ)公 (亀王丸、亀若丸とも)

 父の盛隆が暗殺されたため、生後1ヶ月で領主となるも、翌々年に夭折してしまい、蘆名氏嗣子が途絶える。
 伊達政宗公の弟/小次郎と佐竹義重の次男/義広との間で、次の領主の座を巡り争いが起き、蘆名氏は弱体化する。

  ・天正12(1584)年9月4日〜天正14(1586)年11月21日 (疱瘡、3歳)
  ・父  蘆名盛隆公
  ・母  彦姫 (奥州探題/伊達晴宗の4女)
  ・養子 義広公
  ・墓所 花見ヶ森廟と伝わるが現存していない
  ・諱  月心院殿空顔恵幼大童子

第20代領主  蘆名 義広 (よしひろ、盛重、義勝)公

 天正17(1589)年、伊達政宗公との摺上原の戦いで敗れ、蘆名家は没落する。
 後に、義広公を救うため討ち死にした「金上盛備佐瀬種常、佐瀬常雄」のことを聞き及び、松平容敬公が建立した碑が「三忠碑」である。
 天海大僧正に護られ、実兄/佐竹義宣の常陸国に逃れ、秀吉から常陸江戸崎を与えられたが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため実父/佐竹義重・実兄/義宣と秋田に国替え。
 1万千石を与えられた角館に城を築き、今の城下町角館の始まりをつくる。
 天寧寺の末寺として、まったく同じの山号や寺号の萬松山天寧寺を、花場山の麓に菩提寺として創建している。

  ・天正3(1575)年〜寛永8(1631)年6月7日 (57歳)
  ・別名 喝食丸 (幼名)、平四郎 (通称)、盛重 (江戸崎藩)、義勝 (秋田/角館)
      主計頭
  ・父  常陸太田城主/佐竹義重
  ・養父 白河義親
  ・義父 蘆名隆氏公
  ・兄弟 兄/佐竹義宣、弟/岩城貞隆岩城宣隆佐竹義直
      妹 (江戸実通の正室、後に高倉永慶の正室)
  ・正室 小杉山御台 (岩姫、盛隆公の娘、園通院殿)
  ・側室 安昌院
      子/佐竹盛泰、盛俊公
  ・養子 江戸崎御前 (盛隆公の娘、相馬中村藩主/相馬利胤の正室)
  ・墓所 角館/天寧寺
  ・諱  大運院殿性翁天公大禅定門
  ・戒名 大暹院性翁天公大居士

第21代当主  蘆名 盛俊 (もりとし)公

 父/義勝が死去してから4ヶ月後にに誕生。
 寛永20(1643)年3月、元服し平三郎盛俊と改称。
 同年6月、天海大僧正の計らいで徳川家光に拝謁した。
 しかし、弱冠20歳で急死。 名門蘆名氏の再興が途絶えたと家臣/岩橋又右衛門・宮崎主殿介・下男 (草履取り) が殉死している。

  ・寛永8(1631)年10月7日〜慶安4(1651)年6月10日
  ・別名 千鶴丸 (幼名)、平三郎、平三郎盛俊
      主計頭
  ・父  蘆名義広(盛重、義勝)
  ・母  安昌院
  ・正室 松寿院 (宇都宮氏)
  ・子  千鶴丸
  ・墓所 角館/天寧寺

第22代当主  蘆名 千鶴丸 (せんつるまる)公

 慶安4(1651)年6月10日、父/盛俊の急死したため、1歳で家督を継ぐ。
 しかし2年後、菩提寺である角館/天寧寺に参詣した際、縁側から敷石 (沓脱ぎ石) に転落し、3歳の若さで夭折した。
 敷石は、千鶴丸の供養のため造られた青銅製の大仏の土台石になっている。
 会津守護と称賛されていた名門/蘆名家が名実ともに滅亡した。

  ・慶安3(1650)年2月17日〜承応2(1653)年6月13日
  ・父  蘆名盛俊公
  ・母  松寿院 (宇都宮氏)
  ・墓所 角館/天寧寺

 葦名系図、葦名家由緒考證、異本塔寺長帳などに記載の年号などは異なっている。
 明らかに転記ミスと推察できるものもあるが、そのまま併記した。
 真偽のほどは、各自 調査されたし。
 盛員公までは「葦名」を使用し、直盛公の時代から「蘆名」が見られるようになった。 当サイトでは「蘆名」で統一している。

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