源義経が、兄/頼朝に追われて平泉に逃れる途中、湯浴みした芦ノ牧温泉に泊まろう。
「9時45分〜17時、不定休 (火/木/土曜日のみ開館)」「皆鶴姫にちなんだ店」「初恋の駅」と表示してあるので、何度も訪ねてみたが、土曜日でも閉まっていた。 隙間から覗いてみると、会津漆器や会津張り子などの販売店、喫茶コーナーがメイン? <閉店したのかも?>
▲(会津若松市大町1-10-13)
源義経と皆鶴姫の悲恋物語を伝える碑。
義経の初恋の人 (愛妾とも) でもある。
恋い焦がれた義経との再会は叶わず、この地に眠っている。
現世の人に別離の悲しみを味合わせないように、皆鶴姫が参詣人に良縁を授けているといわれ、今なお多くの参拝者が訪れている。
南へ60メートルほどにある小さな池が、身を投じた池。今は、かつての存在を示すだけの小さな池になっている。
難波の池の傍らに、移された。
義経が奥州に逃避する途中、鏡山に身をかくす時、駒を繋いだ石と言い伝えられている。
鏡山は昭和四十一年十二月国道四十九号バイパス新設に伴い、石の移転を迫られ、皆鶴由縁の地、難波池畔姫の墓地境内に移転奉納した。
皆鶴姫は藤倉村に逗留中、義経との再会の望みを絶ち池に身を投じた。
村人これを慰んで懇ろに葬ったと言う。
難波の池跡は、現在村の前の低い田圃となっているが昭和の初め頃までは一面の葭谷地であった。
平成七年九月 会津若松教育委員会
駒繋石の脇にある。
傍らにある3基の自然石に、梵字が刻まれている。
「暦応五年十二月敬白」(1342年)の銘があることから、「暦応の碑」と呼ばれている。
▲(会津若松市河東町倉橋字藤倉)
義経が馬を降りて、歩いて渡ったと云われる。
幅5〜6メートルほどの川の傍らに痕跡が残っていたが、平成2(1990)年の側溝工事で川とともに消滅した。
痕跡すら消滅し、想いに浸るだけ。
▲(会津若松市高野町界沢)
故なく兄/源頼朝から追討を受け、義経は第2の故郷である奥州平泉に向かう。
頼朝は、この地に最強の武人/渋谷荒人を配した。
頼朝の推察通り、皆鶴姫の墓参を済ませた義経が通りかかる。 渋谷は、弁慶と知り合いだった。
そして悲劇が起こり、伝説となった。
武人/渋谷荒人は、荒人神社として祀られた。
近年、清神社と合祀。
神社から望む集落に、今なお 「渋谷」 の地名として残る。
▲(猪苗代町一本木1442)
<渋谷地区/Yahoo地図
GoogleMap>
石碑だけで、何もない。
近くに、義経と所縁の龍福寺はある。
▲(南会津町糸沢)
鶴ヶ城から 52キロもあり、どうしてもという人は別として、日光・今市から会津に入る時や帰る時に立寄ろう。