《神指 (こうざし) の由来》
平安時代前半 (860年頃)、この地にやって来た源融の家来/秦氏が、 山王権現の安住の地を探していたところ、夢の中に老人が現れて指を差す。 「ここより北の林の中に香木があるので、 村人に開墾してもらい、安住の地にせよ」 とお告げがあった。 このとから、「香指」と呼ばれるようになる。 その後、「神差」から「神指」と表記されるようになった。 |
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慶長5(1600)年2月から、会津120万石の藩主であった上杉景勝公によって築城された城。
[本丸図]
[A] 自然景観指定緑地の1つ (第19号)。 鶴ヶ城は、 ◇ 周辺の山などに近く、砲撃戦に弱い ◇ 浅瀬の湯川を利用しており、守りに不安がある との判断で、はるかに大きい大川の水を利用できる この地に、築城を始めた。 |
中野竹子の終焉の地。
昭和13(1938)年、建立。
江戸常詰勘定役/中野平内の長女として江戸に生れ、学問と薙刀を修める。
戊辰の役がぼっ発したため、会津に戻る。
父親の許可をもらい、鶴ヶ城に入るべく従軍したが、と遭遇し戦闘となる。
参加した女人 (婦女隊) は、
◇ 中野孝子(こう子) | 44歳、竹子の母 | |
◇ 中野竹子 | 19歳 | |
◇ 中野優子 | 16歳、竹子の妹 | |
◇ 依田まき子 | 35歳、依田源治 (京都/伏見で戦死) の妻 | |
◇ 依田菊子 | 18歳、まき子の妹、後に水島 | |
◇ 神保雪子 | 23歳、神保修理 (自刃) の妻 | |
◇ 岡村すま子 | 30歳位 | |
◇ 平田小蝶 | 18歳、竹子の義妹、後に戸田 | |
◇ 平田吉子 | 16歳、小蝶の妹 |
慶応4(1868)年9月4日、の奇襲を受ける。
壮絶な戦いで 19名中 13名が戦死した。 当初は全員討ち死とされたが、斎藤一たち6名は生き残っていた。
ここは、神指城/二の丸土塁の遺構の一部でもある。
樹齢は不明だが、樹高25メートルほどのイチョウの木がある。
激しい戦いを目撃していたのは間違いあるまい。
自然景観指定緑地の1つ (第33号)。
戦死者 13名 (新井破摩男、小幡三郎、清水卯吉、高田文二郎 高橋渡、森権次郎、森庵六之助、円尾啓二郎、 姓名不詳/夫卒 5名) 生存者 6名 (斉藤一、久米部正親、吉田俊太郎、 池田七三郎、志村武蔵、河合鉄五郎) 斎藤一の墓は、阿弥陀寺にある。 |
皆鶴姫は、源義経の後を追って、苦難の末に会津に至る。
しかし、この地で平家の追っ手と出会い、義経との間に生まれた赤子/帽子丸は、沼に投げ入れられ溺死してしまう。
憐れんだ村人たちは、沼を「帽子沼」と呼ぶようになった。
帽子丸の墓は、産土地蔵尊の隣りに、ひっそりと佇む。
寛永12(1635)年、幕命により加藤明成公は、キリスト教徒の横沢丹波一族と信者60余名を捕らえ、15人を処刑した。
キリシタン大名/蒲生氏郷公の入府により会津にもキリスト教が伝播し、一時的ではあったが若松では3割強、猪苗代では8割もがキリシタンになった。
昭和32(1957)年の農地整備の際、言い伝え通りの場所から人骨が見つかったため、昭和37(1962)年に塚碑が建立。
人骨が誰のものかは、分かっていない。
▲(会津若松市神指町黒川字薬師川原) 鶴ヶ城から 3.4km
・見学自由
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1千4百平方メートルほどのミニミニ公園に、身長2メートルほどの赤べコがいる。 揺れる首だけは再現されていないけれど、実にリアルに作られていて、どの角度から見ても可愛すぎる。 体内からの滑り台になっており、世界でただ一つの赤べコ遊戯だそうだ。 水飲み場や子供向けの腰掛も赤ベコで、取り囲むフェンスにも赤べコが描かれている。 |
天元12(1543)年、越後の栖吉城主/長尾信景 (政景?) が上杉謙信に追われ、蘆名盛舜公を頼って会津へ逃れて、当地に居を構える。
その後、庇護の下、会津藩の豪商となる。
保科正之公が名付け、正容公が目黒浄庭 (浄定) に改築させた。
幕末には容敬公の信任が篤かった家老/丹羽能教 (丹羽五郎の曽祖父) が隠居後に住んでいた。
庭園内に、容保の歌碑が残っている。
「風をのみ いとひし庭の もみぢばを けふは雨にも 散らしぬる哉」
かつては御薬園・可月亭とともに会津三庭とされたが、今では雑草に覆われており、いずれ歴史から消えるのであろうか。
▲非公開 (会津若松市柳原町2-2) 鶴ヶ城から 2.2km
令和2(2020)年、市役所観光関連部署か、同市の教育委員会か、の怠慢?で、市民の知らぬ間に不動産屋に売却されてしまい、存続が危ぶまれている。
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