《現地観光案内板》
会津藩主の庭園 (5千1百坪/1万7千平方メートル)。
昭和7(1932)年、大名型山水庭園として国の名勝に指定。
永享元(1429)年、蘆名盛久公が、霊泉の湧くこの地に別荘を建てたのが始まりといわれる。
永享4(1432)年に移り住み、嘉吉元(1441)年に完成、
寛文10(1670)年、保科正経公が、聖徳太子の施薬院にちなみ、藩民を疫病から救うべく、数多くの薬草の栽培をはじめる。
元禄9(1696)年
、遠州の流れをくむ目黒浄定を招き、本格的な回遊式借景園に大改修する。
東山連峰の先に磐梯山がそびえ、西方の雪をいただく飯豊山連峰などを借景に、“心”の字を模した池や、島に数寄屋造りの茶室「楽寿亭」を建てるなど、灯籠、石、樹木が巧みに配されている。
享保年間に朝鮮人参の栽培を試みた場所でもあり、後に会津の特産物となった。
今でも、薬草約400種が栽培されている。
与謝野晶子の歌碑や、篠田悌二郎の句碑などもある。
戊辰の役の時に豪商/長尾和俊たちは、西軍が消滅させようとするのを聞き、会津一円に墓品活動を起こして買い戻し、松平家に献上した功績により今に残る事ができた。
平成3(1991)年、松平家から会津若松市が譲り受ける。
▲(会津若松市花春町8-1 Tel. 0242-27-2472 〔HP〕
) 鶴ヶ城から 1.4km
・8時30分〜17時 (入園は16時30分まで)
・年中無休
・見学時間 40分
昭和61(1986)年、開館。
県の特色ある歴史や文化を、民俗、政治、社会の様々な面から理解できる総合博物館 。 系統的な資料のほか、実物、模型、複製品など約3,700点が、常設展示されている。 テーマを設定した企画展や、講演会なども行われている。
所蔵の「椿彫木彩漆笈」「会津大塚山古墳出土品」「絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図 (鎌倉時代)」などは国指定重要文化財。
▲有料 (会津若松市城東町1-25 Tel. 0242-28-6000 〔HP〕) 鶴ヶ城三の丸口の向い
・9:30〜17:00 (入館は16:30)
・休館 毎週月曜日(祝祭日の時は翌日)、年末年始(12月28日〜1月4日)
・常設展の無料開放日
子供の日(5月5日)、県民の日(8月21日)、敬老の日(9月15日)、文化の日(11月3日)
まなべこ (会津若松市歴史資料センター)趣旨「先人に憧れ、郷土に誇りを持つ学びの場」。県立博物館の入口にある。 こちらは、無料。 時折、素敵な企画展も開催される。 ▲(会津若松市城東町2-3 Tel. 0242-27-2705 〔HP〕) 9時〜17時 ・定休 月曜日 (祝日は翌日)
※ 「小惑星 会津日新館」のパネルが展示されていた。
団体のホームページは、こちら。 その他にも、会津関連として下記などがある。 ◇ 平成4(1992)年2月13日に発見された小惑星「野口英世 (Hideyo nguchi)」 ◇ 平成12(2000)年1月7日に発見された小惑星「会津 (14701 Aizu)」 [Wikipedia] |
醸造元である宮泉銘醸が、会津酒造の歴史や、焼酎の製造工程、民具・農具などを展示している。 宮泉は、会津の老舗である花春酒造(株)から。昭和29(1954)年に分家創業。
焼酎の資料館としては、東北地方で初めてとのこと。
利き酒コーナーや、日本酒と焼酎のオリジナルラベル作成、冬期の甘酒サービスなどが人気とか。
歴史的景観指定建造物 (第15号)。
▲(会津若松市東栄町8-7 Tel. 0242-26-0031) 鶴ヶ城から 180m
・8時30分〜17時 (冬期は、9時30分〜16時) ・年中無休
會津藩校/日新館の施設の中で、戊辰の役の戦火から唯一残っているのが天文台跡。
享和3(1803)年、日新館の施設「観台」として建造。
基底 12間余(21.71m)、台上部 5間半(9.9m)、高さ 3間半(6.4m)の、天文学の観測場である。
平成31(2019)年、日本天文遺産第1号 (日本天文学会) として、国宝/藤原定家の日記「明月記」(京都市)と共に認定された。
「唯一現存している江戸の遺構」
▲(会津若松市米代1-1-56) 鶴ヶ城から 640m
・見学自由
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江戸時代前期の代表的な兵学者・儒学者であり、国学・神道の奥義も極める。 山鹿流兵学の祖。 元和8(1622)年8月16日、この地に誕生。 6歳の時に、父といっしよに、江戸に出る。 9歳から林羅山に朱子学を学び、15歳から小幡景憲、北条氏長らに兵学を、廣田坦斎に神道を学ぶ。 |
その後、孔子の教えの原点復帰を唱え、武士道「聖教要録」にまとめた。
朱子学批判と受け取った藩主の怒りをかい、播磨国赤穂藩へ流罪。
赤穂藩預かりの間は赤穂藩士への教育を行っており、赤穂四十七士の生みの親といわれる。
吉良邸討ち入りの大石なども門弟の一人で、“山鹿流の陣太鼓”に表れている。
延宝3(1675)年に許されて、江戸へ戻る。
貞享2(1685)年9月26日、江戸にて没、享年64歳 (黄疸)。
墓は、東京/宗参寺 (新宿区弁天町1) にある。
山鹿素行の略歴については、こちら。
兵法の教義や武士道の精神 「忠・信・義」 は、武士社会に大きな影響を与え、東郷平八郎らへも引き継がれる。
大正15(1926)年、東郷平八郎元帥の筆による碑が建立。
生誕地碑の裏側に、
内藤鳴雪句碑
がある。
上杉景勝公に従って入府した直江兼続の屋敷のあった場所でもある。
神指城を築く時には、昼夜にわたる突貫工事の総監を務めている。
関ヶ原の戦いで豊臣側についたため、米沢に移封となった。
▲(会津若松市山鹿町1-25) 鶴ヶ城から 380m
・見学自由 (碑があるだけ)
会津藩家老/萱野権兵衛の屋敷跡。
一刀流溝口派の達人でもあった。
藩主父子の助命嘆願に尽力した後、戊辰の役の責任を一身に背負い、明治2(1869)年に切腹した。
最期は、平素と変わらずに穏やかであったという。
墓は、天寧寺と東京/興禅寺 (港区白金) にある。
鶴ヶ城に殉節碑、阿弥陀寺に遥拝碑、余市町に殉節碑。
現在は碑があるだけで、昔の面影は、まったくない。
会津若松市の埋蔵文化財管理センターとなっている。
恥辱を晴らした後に、16歳の若さで自刃した倅の郡長正は、ここで育った。
▲(会津若松市追手町) 鶴ヶ城から 190m
・碑があるだけ
つばくろ児童公園の北側に説明板があるのみ。
鶴ヶ丘稲荷の近くに、雑草に隠れるほどの小さな石碑がある。
邸宅があった実際の場所は、道路の向かい側一帯。
幕末時の当主は、柴太一郎。
藩士/柴佐多蔵榮由道の長男。
柴四朗 (東海散士)や、柴五郎の兄。
戊辰の役では、西軍が乱入との報に接し、恥辱を避け、足手まといにならないとの教えに従い、家族の婦女子等9人が自刃した。
▲(会津若松市城前8-8) ・案内板があるだけ
万延元(1860)年〜大正8(1919)年。
幼名は咲子、2男5女の末娘として生まれ育つ。
兄には、東京帝大総長山川健次郎、陸軍少将を経て貴族院議員となった山川浩がいる。
「山川三兄妹誕生の地」碑は、会津酒造歴史館の駐車場にある。
8歳の時に戊辰の役が勃発、家族とともに籠城し、弾薬筒運びなどを手伝っている。
斗南藩の時代に、北海道開拓使が募集した女子留学生に応募し、11年間アメリカに渡る。
渡米が決まった時に母/えんは、
「お前を捨てたつもりで許すが、立派になって帰ってくる日を心待ちに待つ」
との思いで、“咲子”から“捨松”に改名させた。
地元高校をから、ニューヨーク州ポキプシーの名門校ヴァッサー大学に入学。
2年生の時には学生会長に選ばれ、3番目の成績で"偉大な名誉(magna cum laude)" 称号を得て、卒業生総代の一人に選ばれる。
帰国後、薩摩出身の大山巖と結婚。
日本人離れした長身と、流ちょうな英会話を活かし、「鹿鳴館の華」、「鹿鳴館の貴婦人」 と呼ばれ、外交親善にも貢献する。
看護婦養成の資金を得るため、日本初のチャリティーバザーである「鹿鳴館慈善会」を開催する。この資金をもとに、日本初の看護婦学校「有志共立病院看護婦教育所」が設立された。
日本赤十字社でのボランティア活動にも取り組む。
大山捨松の略歴については、こちら。
藩祖から続く重臣。
幕末時の当主は、西郷頼母近悳
鶴ヶ城の北出丸の入口手前にある。
戊辰の役では、西軍が乱入との報に接し、恥辱を避け、足手まといにならないとの教えに従い、家族9人を含む一族21名が自刃した。
善龍寺には、同様に自刃した殉難婦女233名の名前が刻まれた碑が建っている。
妻/千重子の辞世の歌から、"なよ竹の碑"と名付けらた。
会津武家屋敷には、西郷邸と頼母一族の自刃の様子が再現されている。
▲(会津若松市追手町) 鶴ヶ城から 80m
・碑があるだけ
家老/内藤介右衛門の屋敷にあった由緒ある名園。
その庭園の名残りが、裁判所の前庭として、ほんの一部が微かに残っている。
庭園様式は、江戸時代の遠州派の流れのある名園とか。
自然景観指定緑地の1つ (第5号)。
戊辰の役では、家族9人と一族が泰雲寺で自刃した。
▲(会津若松市追手町6) 鶴ヶ城北口前の角
外郭と内郭を区画した土塁の遺構。
わずかに現存する貴重な遺跡で、国指定史跡。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公が鶴ヶ城を改築した際に築造され、大手として最重要地点であった。
加藤明成公が改修の際に甲賀町口を大手に変更した。
各郭門については、こちら。
▲(会津若松市花春町126) 鶴ヶ城から 1.0km
・外からの見学自由
建久2(1191)年、蘆名氏初代領主/佐原義連公が地頭として初めて会津入りし、二本木稲荷神社を陣所とした。
土塁と堀などの遺構は、オリンパス建築時に撤去されたようである。
少なくとも、昭和30年代には残っていた。
幕を張って陣所としたことから幕内と呼ばれるようになる。
天授5/康暦元(1379)年、土着入りした蘆名直盛公も、小館に移り住むまでの間、幕内館 (新城寺) に居住した。
寛永10(1633)年の洪水で、村落は現在の幕内集落の地に移った。
鶴ヶ城稲荷は、二本木稲荷の分神との説も。
▲(会津若松市門田町大字飯寺字村西)
・鶴ヶ城から 3.0km
戊辰の役の時、会津藩軍事顧問 (砲術) であったヘンリー・スネルの屋敷跡。 プロシア人でオランダ公使館に勤務していた。
平松武兵衛と名乗り、ちょんまげを結っていたという。
戊辰の役の後、若松の約40人と米国カリフォルニアで 「若松コロニー」 という入植地の開拓に参画する。
その時に参加した17歳の“おけい”が、海外に移民した日本人初の女性であるといわれている。
弟のエドワルドは、武器販売のスネル商会を設立している。
慶応4(1868)年7月、会津藩への最新式武器や弾薬を満載した輸送船が、運悪く新潟港で西軍に略奪されてしまい、その後の戦闘に多大な影響を及ぼした。
なお、スネルは明治に入ると訴訟を起こし勝訴、新政府から賠償金が支払われている。
▲(会津若松市材木町2) 鶴ヶ城から 1.8km
・現在は個人の私有地
明治2(1869)年、東京で幽閉 (謹慎) 中に蝦夷地流刑となった藩士/103戸333名が、品川沖から送り出され、11日間後にオタルナイへ着岸した。 行き先が決まらぬ日々が続き、樺太への開拓に変更になるが、それも頓挫、1年半が過ぎて余市で開拓が始まる。
明治8(1875)年、米国人の顧問/ケプロンからリンゴ・ナシ・サクランボなどの果樹苗木が配布され、農業の経験すらない旧会津藩士たちは果樹栽培に戸惑ったという。
米国から伝わったリンゴ栽培は各地で失敗するが、金子安蔵たちは明治7(1874)年にドイツ系米国人の果樹園芸家/ルイス・ベーマーと米国人の牧畜家/エドウィン・ダンから直接指導を受けていた。
明治12(1879) 年、旧会津藩士/赤羽源八と金子安蔵の庭先で、日本初のリンゴの結実に成功 (民間初) する。 初年度は、赤羽源八が6個 (後の緋衣) 、金子安蔵が7個 (後の国光) の収穫であったが、翌年には1本の木から 50kgを超えるリンゴが収穫されたとのこと。
赤羽源八の品種名は、孝明天皇から信頼の証しとして賜った「緋の御衣」と、会津での戦い終結の時に受けた侮辱「緋毛氈 (泣血氈の誓い)」から、緋衣 (ひのころも、ひごろも) と名付けられた。
札幌で開催の農業博覧会に出品したところ、美味しいと大好評を得る。
やがて、余市が大産地に発展するだけでなく、世界に冠する日本のリンゴ産業の礎となった。
大正3(1914)年、東京で開催の拓殖博覧会で、緋衣が1位に選ばれる。
天皇家への献上品として40余年間も続き、会津藩への故無き汚名を晴らす一翼ともなった。
その後、品種改良が繰り返されており、“幻の品種”になってしまったと思われていたが、平成10(1998)年に余市町から現存との知らせあった。
平成12(2000)年、会津の有志/リンゴ農家が苗木を譲り受け、接ぎ木した中から2本を市制・町制百周年の記念として公園内に植樹された。
平成17(2005)年、会津の土地で見事に結実、余市の会津魂が故郷で復活した。
<補> 平成20(2008)年、会津坂下町の菓子店が「緋の衣アップルパイ」を商品化。
▲(会津若松市門田町大字御山字村上164) 鶴ヶ城から 3.7km
≪日橋川≫
猪苗代湖を水源とする (猪苗代湖から流れる唯一の川)。
総延長 25キロメートルの一級河川。
古くは、戸ノ口川、新橋川、堂島川、大川、揚川と呼ばれていた。
猪苗代湖から出口辺りが戸ノ口川と呼ばれ、磐梯町大寺に架かる橋から新橋(にっぱし)川と呼ばれ、やがて「日橋」となる。
只見川と合流すると、急に水かさが増えることから「揚川(あががわ)」と呼ばれたのが、いつしか「阿賀川」となった。
戊辰の役での“運命の分かれ目”十六橋などがある。
≪只見川≫
尾瀬沼を水源とする。
総延長 145キロメートルの一級河川。
支流は、伊南川、野尻川、滝谷川など。
田子倉ダムや奥只見ダム、只見ダム、滝ダム、本名ダム、上田ダム、宮下ダム、柳津ダム、片門ダムなど数多くのダムがある。
かつては、合流点に渡し舟があった。
秋月梯次郎生誕之地 | 松江春次記念館 | 渡部恒三記念館 | |
岩屋観音との追分道標 | 面川荒川の道標 |