「門田 (もんでん)」とは、会津を拝領した蘆名氏が一番良い田のある場所に本拠地を構えたことから「門田荘」となる。
中世の領主/居館の門前に広がる田地の全国的な呼称「門田 (かどた)」から。
開基については、不詳。
不退山、天台宗。
本尊は、子安観音菩薩。
▲(会津若松市門田町大字御山字中丸甲735
Tel. 0242-27-6757)
萩之原六地蔵尊とも呼ばれている。
寛治4(1090)年、村人の山田近右衛門が草刈をしていると、1寸8分の地蔵尊を発見し堂に安置した。
天永3(1112)年、大川の洪水で大木が流れ着き、近右衛門の名を呼ぶ。
流木を拾い上げると、目の前に地蔵尊が現れた。
霊木だと悟り、6体の地蔵尊を刻み、堂を建立し祀った。
宝永5(1708)年、巡業中の向誉上人が会津に至リ、六地蔵尊と堂宇を修造し、入仏供養をした。
現在の堂宇は、大正14(1925)年に改築されたもの。
照谷寺が管轄。
子供の守り本尊とされており、昔は「二つ子参り」で賑わった。
昭和30年代頃までは、門前にある棒タラ煮の名物店に立ち寄るのが常だった。
お日市 8月23日。
会津二十一地蔵尊の第二番。
▲(会津若松市門田町一の堰字村西)
・縁日 8月23〜24日
≪一ノ堰≫
三浦氏が会津を所領とした蘆名時代に、一番目の関所があったことから 「一ノ関 (村)」 と呼ばれていた。
「いざ鎌倉」で駆けつけられるように、鎌倉街道 (後に宇都宮街道) が通っていたからである。
寛文年間(1661〜1672)の保科時代に、「一ノ堰」と改称された。
今では、関所の痕跡は何もない。
天文年間(1532〜1554)年、僧/慶幽が草創し、善龍寺の梅峰本盛大和尚が開山。
水雲山、曹洞宗。 本尊は釈迦如来。
善龍寺の末寺。
正保年間(1644〜1647)年、僧/風岩が中興。
▲(会津若松市門田町面川字中江/字花坂)
館薬師如来、館の薬師 (旧館尉薬師) と呼ばれている。
慶長17(1612)年、蒲生忠郷公が創建し、前領/宇都宮から従った僧/秀栄が草創。
妙覚山、真言宗豊山派。
境内には、蒲生秀行公の廟がある。
町廻り三十三観音の第二十七番 舘。
本堂の脇に、町廻り三十三観音の第三番 天寧寺町もある。
お日市 9月8日。
廟の建立時には、院に200石・影堂に50石が与えられ、北山薬師も管轄するなど隆盛を誇ったが、蒲生家が途絶えると衰退した。
≪允殿館 (じょうどのたて)≫
別称:尉殿館。
宝徳3(1451)年、蘆名氏の家臣/松本右馬允通輔が築城。
尾山館主/多々良伊賀を襲撃したため、享徳2(1453)年に蘆名盛詮公の家臣/松本筑前に攻められ、允殿館を抜け出し日光に逃げたが、後に浜崎館で自刃した。
蘆名盛高公に背いたため、明徳7(1498)年に誅された同名の右馬場もいる。
松本氏は、出自を清和源氏伊那氏族とされ、はじめ薄氏と称し早くから会津に土着した豪族。
船岡館を居城とし、允殿館をはじめ松本対馬の中野館、松本勘解由の綱取城、松本備中の関柴館などを有し、蘆名氏四天宿老/筆頭の一族であったが、何度も主家に反乱を起こしている。
永正18(1521)年、廃城。
▲(会津若松市館馬町8/門田町年貢町甲749 <旧/南町分>)
至徳元(1384)年、法印亮珍が開基。
すでに丈建立され1尺の阿弥陀尊像を安置の御堂を寺とし、行基菩薩の作/弥陀像を安置して寿栄山光明寺と号する。
無為信が開基し、居住していた無為信寺跡地とされる。
しばらくして無住になってしまい、荒廃してしまう。
天文13(1544)年、尊慶沙門が中興し隆盛する。
寿栄山、天台宗。
戊辰の役で、に略奪・焼き討ちされ何も残っていない。
殉難者墓あり。
大正時代に再建された御堂があるだけで、常光寺が管轄。
≪無為信寺≫
寛元4(1246)年、親鸞聖人二十四輩の1人/無為信 (武田信勝) が開基。
本堂脇の墓域に、「大坊墓 (無為信の墓)」と「武田歴代之墓」が現存。
無為信寺は、承応3(1654)年に棚倉藩主の招聘に応じ転寺、棚倉藩主の転封に従い藤枝市・大阪・京都を経て、京都/東本願寺の預かりとなるが、後に北蒲原郡水原町 (阿賀野/会津藩預り領地) で再興され、現存している。
▲(会津若松市門田町大字一ノ堰字村西500)
開基については、不詳。
弘仁3(812)年、空海と名乗る僧が、磐梯山 (病脳山) の悪魔を払うため、薬師像5仏を刻み、堤沢村に安置し草創とも。
廣澤山、曹洞宗。 本尊は、地蔵尊。
《野寺薬師堂》
本尊/薬師如来は、徳一大師の作と伝わる。
会津十二薬師の第十一番。
会津五薬師の南方薬師
▲(会津若松市門田町大字堤沢709)
天平神護元(765)年、開山。
神護山、天台宗。
開山した年代から山号を定め、谷間を拓いて草創したことから寺号を決めたとのこと。
ぬいぐるみや人形を供養する「お炊き上げ」でも知られる。
会津三十三観音の第二十番札所。
[伝説]
▲(会津若松市門田町大字御山字館山甲3080 Tel. 0242-26-0149)
文禄2(1593)年、僧/雲嶺本龍が庵を結び、元和7(1621)年に創建。 治安元(1021)年に草創とも。
白龍山、曹洞宗。 本尊は大日如来。
寛永20(1643)年、保科正之公の家老/内藤介右衛門自卓が再興し、内藤家の菩提寺とした。
戊辰の役には、西軍来襲の報を聞き、この寺で内藤一族/家臣19名が自刃、踏み込んだ敵兵による略奪後の放火で堂宇は全て焼失した。
明治6(1873)年、仮本堂が建立される。
昭和18(1943)年に本堂が焼失したため、翌々年に再建される。
本堂脇と小道を挟んで、最近、三十三観音が建立されている。
殉難者墓あり。
▲(会津若松市門田町大字面川字舘堀64 Tel. 0242-28-0215)
慶長5(1600)年、天寧寺14世の住職/嶽翁怒山が、隠居寺として草創。 以降は天寧寺の直系一族の隠居寺として、末寺53ケ寺の筆頭として扱われる。
羽黒山、曹洞宗。 本尊は釈迦如来。
現在は、福井/永平寺の末寺。
蘆名盛氏公に庇護されるも、無住の時代が長く続いた。
平成2(1990)年、本堂が再建。
▲(会津若松市門田町大字御山字三島11 Tel. 0242-27-8321)
寛治年代(1087〜1094)、源義家が東征の御礼に造営。
祭神は、品陀和気命、大鷦鷯尊
寛文12(1672)年、保科正之公が再建。
武神だったが、今では農耕の神とされている。
▲(会津若松市門田町大字御山中村甲1552)
大同2(807)年、前年に大噴火した磐梯山を鎮めるため弘法大師 (空海) が勅命を奉じて八方位に祀った社の一つで、鬼門・裏鬼門 (艮坤) を鎮護する。
除災の守り神に加え、農業・商工業など全ての殖産工業の御利益があるとされる。
関東地方からの参詣者も多いとのこと。
▲(会津若松市門田町一ノ堰字村東455)
・例祭 8月23日
大宝山、真言宗豊山派。
境内にある地蔵堂には延命地蔵尊と不動明王が祀られており、古来より霊験あらたかと深く信仰されてきた。
地蔵堂の扉は開け放たれており、閉じられることはない。
弥勒寺が管轄。
▲(会津若松市門田町大字中野字屋敷92/中野600 <旧/中野村>)
慶長年間(1596〜1615)、僧/中宥意が近くの荒廃した薬師堂から、徳一大師の作と伝わる薬師如来像を移し開創。
「境内東西十九間 南北二十間 年貢地」
徳久山、真言宗室生寺派。
本尊は、薬師如来。
金剛寺の末寺。
▲(会津若松市門田町大字徳久字竹之元1220)
天平12(740)年、羽黒山東光寺の末寺として、行基菩薩によって開かれる (伝)。
来迎山、天台宗。
本尊は、阿弥陀如来。
最盛期には、七堂伽藍が建ち並び、末寺300寺を誇った。
戊辰の役では激戦地となり、すべての寺宝は敵兵に略奪され、堂宇すべてが焼き払われた。
昭和35(1960)年、ようやく本堂が再建。
殉難者墓あり。
康暦元/天授5(1379)年、蘆名直盛公が鎌倉より会津に移り住む際、本光寺に宿泊、城郭ができるまでの3年間 居住した。
飯を炊いて食べたことから、地名が新寺村から飯寺村と改められたという。
▲(会津若松市門田町飯寺字村西674 Tel. 0242-26-2813)
徳一大師の開山と伝わるが詳細不詳。
建久8(1197)年、「ナタ彫」の十一面観音像が造立とも。
延元元(1336)年に羽黒山東光寺の末寺として開基とも。
日吉山、天台宗。 本尊は不動明王。
比叡山延暦寺の末寺。
徳一大師が彫った「ナタ彫」の十一面観音菩薩像を山中を安置したところ、一夜にして宝堂が現れたという。
殉難者墓あり。
▲(会津若松市門田町大字御山字館ノ内81-1 Tel. 0242-26-0160)
御山館 (おやまだて) 別称:尾山館。
康平年間(1058〜65)、源義家が築く。 応安年間(1368〜75)、多々良氏が全面改築。 宝徳3(1451)年、9代目/多々良伊賀守政重が允殿館主/松本右馬允通輔 (典厩) に敗れ廃城。 |
開基については、真言宗の他には不詳。
天正13(1585)年、僧/全洞が曹洞宗に改宗し中興。
大洞山、曹洞宗。 宝積寺の末寺。
本尊は、地蔵菩薩。 曹洞宗なら本尊である釈迦如来も小さいながら祀られている。
江戸時代を通じ寺子屋として利用され、一昔前までも算盤塾に使われていた。
▲(会津若松市門田町大字黒岩字南青木191 Tel. 0242-26-0498 <旧/南青木村>)
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