新 潟 県 ・ 経 由 地 の 見 ど こ ろ
[戻る]
[TOP]
[行く]
[遊ぶ]
[知る]
[経由地]
魚 沼 市
魚沼市ホームページ
奥只見シルバーライン
奥只見ダムの工事用道路として建設された道路である。
昭和46(1971)年に有料観光道路として一般車に開放され、昭和52(1977)年には無料となる。
平成18(2006)年までは、二輪車の通行が禁止され、時間帯による一方通行の規制があった。
県道50号小出奥只見線の中で、上折立から奥只見ダムまでの区間が、奥只見シルバーラインと呼ばれている。
全長約22キロの内、19のトンネルが18キロを占め、他には類を見ない。
会津に向かっての主なトンネルは、津久ノ岐トンネル、湯の沢トンネル、黒又トンネル、明神トンネル、荒沢トンネル、仕入沢トンネルである。
津久ノ岐トンネル(12号隧道)以降は長さも長く、中は岩盤がむき出しの荒削りであり、道幅も狭い。
一番長いものは、明神トンネル(17号隧道)で、3,920メートルもある。
トンネル内に信号機の付いた丁字路があり、会津へと通じている。
直進した終点に、奥只見ダムがある。
一度は通りたいトンネルである。
奥只見ダム、奥只見湖(銀山湖)
只見川の最上流部に建設された発電用のダムである。
檜枝岐村と新潟県魚沼市にまたがり、ダムの中央が境になっている。
昭和28(1953)年に着工し、昭和35(1960)年に竣工した。
認可出力は、56万キロワットで日本一。
また、日本一高い重力式コンクリートダムでもある。
総貯水容量約6億トンは、47年間、日本一であった。
平成20(2008)年に、6億6千万トンの徳山ダム完成でトップの座を明け渡し、現在は第2位。
ダム水源地環境整備センターの「ダム湖100選」に選ばれている。
水没した地区が、明暦年間に銀を産出していた。
そのことから、地元では銀山湖と呼ぶ。
銀山平の名は、その名残りである。
三島由紀夫のダム設計技師を愛を描いた「沈める滝」や、開高健の「夏の闇」の題材にもなった。
映画「ホワイトアウト」のモデル地でもある。
▲位置 北緯37度09分13秒、東経139度15分00秒
河川 阿賀野川水系只見川
≪遊覧船≫
周遊(40分位)、銀山平まで(片道40分)、尾瀬口まで(片道40分)が運行されている。
貸し切りや船上結婚式も受け付けているとのこと。
▲奥只見観光(Tel. 025-795-2750)
≪奥只見電力館≫
奥只見発電所の概要の他に、水力発電のしくみ、水のエネルギーなどが展示。 シアターでは、工事の記録や、奥只見の四季折々の物語も紹介。
▲(Tel. 025-795-2059)
・9時~16時50分
・閉館日 5月~11月
・入場無料
・見学所要時間 50分程度
≪奥只見丸山スキー場≫
奥只見シルバーラインが冬季閉鎖されるため、冬季になると閉める珍しいスキー場である。
4月下旬から6月初旬までの間が営業期間であり、春スキー客で賑わう。
銀山平
只見川の上流に位置し、標高800メートルの盆地にある景勝地。
2千メートル級の荒沢岳、駒ヶ岳、平ヶ岳などに囲まれている。
春の新緑、秋の紅葉の名所として知られる。
冬は、6メートルの雪に埋もれる豪雪地でもある。
遊覧船も、運航している。
作家の開高健は、この地が大好きで、たびたび訪れている。
江戸時代には、只見川の上流において銀が発見され、諸国から集まった採掘人、商人、遊女などで大いに栄えた。
坑道の崩落により、江戸時代末には閉山した。
奥只見ダムの建設により、集落も湖底に沈んだ。
現在は、キャンプ場や、日帰り温泉のある銀山平森林公園などで知られている。
日光寺
明治11(1878)年、会津/東光寺は羽黒山神社のみが残され廃寺となり、木造金剛力士立像2躯などが、この地 (旧/会津藩領) に移された。
鎌倉時代に製作されたとされる仁王像は、一般的な阿形像と吽形像とが逆に配置されている。
寺の創建時期には、2説がある。
・延暦元(783)年、伝教大師が創建。
・大同 2(807)年、徳一大師が創建。
▲(阿賀町払川)
道の駅 ゆのたに
小出ICから近く、小出奥只見線沿いにある。
"深雪の里"は、特産品販売所。
魚沼コシヒカリや山菜加工品などを販売している。
"奥只見郷インフォメーションセンター"は、観光案内、釣りやイベントの情報、宿泊について案内している。
小出での、唯一の観光案内所。
▲(魚沼市吉田1148)
・深雪の里(Tel. 025-792-9300)
・インフォメーションセンター(Tel. 025-792-7300)
小出島陣屋の跡
旧/小出町は「小出島」と呼び、会津藩の領地であった。
小出島と、預かり地の小千谷に陣屋を置いて、統治していた。
宝暦13(1763)年には、
小出島組、小千谷組、塩沢組、六日町組、浦佐組
を配下に置くほど大きかった。
善政だったと、近くのお寺の住職から聞いた。
今では、陣屋のあった通りを「陣屋通り」と名付けている。
殉難者については、こちら。
通りの中ほどに説明板が建っているだけで、遺構はない。
平成の大合併で、魚沼市となった。
また1つ、自治体としての歴史的な名が消えた。
[閑話]
▲(魚沼市諏訪町1 陣屋通り)
小 千 谷 市
小千谷市ホームページ
花火大会
|
片貝まつりで打ち上げられる四尺玉の花火は、世界一の大きさ。
打ち上げられる花火は、ほとんどが尺玉以上。
その迫力は、花火王国といわれているのが実感できる。
浅原神社秋季大祭の奉納として、毎年9月9日~10日に開催。
▲(小千谷市片貝町)
・Tel. 0258-83-3512(小千谷市観光協会)
・Tel. 0258-84-3900 (片貝煙火協会)
|
牛の角突き
闘牛であるが、スペインなどとは違い、牛と牛が闘う格闘技。
同じく長岡市山古志闘牛場でも開催。
岩手県山形村、島根県隠岐島、愛媛県宇和島、鹿児島県徳之島、沖縄県などでも行われている。
「牛の角突き」は神事のため、勝ち負けの優劣は求めず、5分ほどで引き分けにすることが多い。
年7回ほど開催予定だが、中止されるのも多いので、出掛ける際は問合せが必要。
駐車場奥には、牛の形をした巨石がある。
▲小千谷闘牛場 (小千谷市小栗山2453 〔HP〕)
Tel. 0258-83-3512 (小千谷市商工観光課)
小千谷陣屋の碑
天和元(1681)年、徳川幕府直轄の天領となり、出雲崎代官所が支配する。
まもなく設置された陣屋が信濃川近くだったため氾濫で川岸共々流されてしまい、碑のある現在の地に移った。
享保9(1724)年、会津藩預り地となり、陣屋が拡張される。
宝暦13(1763)年には、小千谷組の他に浦佐組・小出島組・塩沢組・六日町組を支配していた。
本陣の間口は5間・奥行き16間の東向き建物で、敷地内には数軒の役宅があり、南側に善光寺街道が通っていた。
屋敷や人家が連なる"高札場町通り"と"日光小路"へ通じ、信濃川側は江戸へ通じていた。
戊辰の役では主力部隊の一部を配置しており、朝日山の戦いなどで多くの藩士が散っていった。
平成9(1997)年に介護老人保護施設水仙の建てられ、南側の通り沿いに石碑があるのみ。
▲(小千谷市元町10-1)
小千谷陣屋の遺構 (五智院)
小千谷陣屋の表玄関が、この寺に移築された。
最近まで中玄関として使用されていたが、現在は地蔵堂の屋根として現存している。
嘉永7(1854)年、陣屋を新築した時の門と伝えられている。
五智院は、慶雲4(707)年に創建された古刹。
永禄7(1564)年の兵火にあい、今の場所へ移された。
寺の周りは門前町として栄え、小千谷の中心だったという。
[逸話]
▲(小千谷市元町14-7 Tel. 0258-82-2915)
阿 賀 町
阿賀町ホームページ
津川城址 (麒麟山公園)
建長4(1252)年、佐原氏一族の金上盛弘が築城。
[配置図]
寛永4(1627)年、廃城。
入口にある注意書き「登山道」の意味を実感する。
年寄りには、本丸までの道のりは結構きつかった。
登山道
十分注意して登山してください。
阿賀町観光協会
麒 麟 山 狐 戻 城 の 由 来
慶長四年 (一二五二) 会津芦名の一族藤倉盛弘が麒麟山の天嶮を利用して築いたこの城は嶮阻のため狐も戻ると言うのでこの名がつけられた。
その子孫である兼上氏が永い間城主として越後国の備えを堅くした。 一五世の盛備 (もりはる) は特に文武の道に秀で芦名家使者として京に上った際 豊臣秀吉と和歌を問答をして名を挙げ従五位下遠江守に任せられた。
天正十七年 (一五八九) 六月芦名義弘は米沢から侵入した伊達正宗と磐梯山麓に戦って敗れた。 急を聞くや盛備は手勢を従え摺上原 (すりあげはら) に馳せつけ奮斗し壮烈な戦死をとげた。 寛永四年 (一六二七) に三百七十七年の歴史を誇るこの城も幕命によって廃城となった。 以後 津川に代官が置かれた。
≪野口雨情の歌碑≫
入口から歩いて間も無く、歌碑がある。
大正3(1914)年、野口雨情が来訪。
昭和3(1928)年、城山のキツネの伝説をもとに童謡を作る。
「津川城山 白きつね 子供が泣くから 化けてみな」
展望台に本丸跡があり、碑が建っている。
展望台「白狐」から望む常浪川 (阿賀野川) の景色は素晴らしい。
≪西郷四郎の碑≫
川側に一段下りると出丸跡、さらに下った平場に西郷四郎の碑がある。
津川は、姿三四郎のモデルとなった西郷四郎が少年期を過ごした地である。
銅像は、会津武家屋敷と終焉地/吉祥坊跡。
墓は、長崎/大光寺と正法寺。
国道49号の交差点にも、
「西郷四郎の出身地」
の標柱が建っていた。
▲(阿賀町津川)
将軍杉、余五将軍維茂墓碑
入口には、巨大な幹を型取った看板があり、迷うことはない。
大きく書かれた「日本一の巨木」が目を引く。
天然記念物 将 軍 杉
所 在 東蒲原郡阿賀町岩谷二〇一三
指 定 昭和二年四月八日 文部省
管理団体 阿賀町
我が国における日本一のスギである。
推定樹齢約千四〇〇年、幹のまわりは十九メートル三十一 樹高約四十メートルに達する。 根元かの近くから六本の大支幹にわかれているが中央の一本は 昭和三十六年秋の第二室戸台風のため折損した。
樹下の「余五将軍維茂墓碑」は、この地に晩年を送ったとつたえる陸奥鎮守府将軍維茂の業績をしのび寛文八年 会津藩主保科正之が建てたもので将軍杉の名もこれに起因する。
その昔、村人がこの杉を切り、船を造ろうと計画したところ、一夜にして地面に沈んでしまったという伝説が残されている。
▲(阿賀町岩谷2013~2242)
・Tel. 0254-92-3333(阿賀町教育委員会社会教育課)
狐の嫁入り屋敷

「狐の嫁入り行列」の映像や、行列の様子を再現したジオラマの展示などがある。
「狐の嫁入り行列」は、5月3日に行われる。
狐の面づくり体験や、狐のメーク体験 (有料で要予約)もできる。
阿賀野川に面しており、靄が水面から立ち上る景色は幻想的。
▲(阿賀町津川3501-1 Tel. 0254-92-0220)
・9時~17時
・定休 木曜日 (祝祭日の時は翌日)
・駐車 20台
津川代官所跡
「狐の嫁入り屋敷」の敷地入口に、津川代官所跡の記念碑がある。
石碑があるだけで、遺構は全く残っていない。
▲(阿賀町津川3501)
|
津川宿
古来より交通の要衝であるため、麒麟山に軍事拠点/ 津川城が築かれていた。
江戸時代に入り一国一城令による廃城に伴い城下町の機能は焼失したが、街道の重要性は変わらず代官所が設置され、改めて町割りされ宿場として整備された。
阿賀川 (新潟側は阿賀野川) 舟運の最大の拠点として大藩/会津藩の物資集積・中継地であることから、帆掛け舟150余隻が発着し、荷揚要員100余名が在職するなど、「日本三大河港」の一つと称された。
宿場は、上町・鉄砲町・仲町・港町・下田町・柿木町・天町・寺ノ前・上寺町などで構成され、宿場の中心である港町には代官所 (船番所) や本陣 (御蔵) も設置された。
慶長15(1610)年、大火に見舞われ、再建する時に津川城主/岡半兵衛重政が、家屋の玄関先に雁木 (地元では“とんぼ”と呼んでいる) を設置したことから、「アーケード発祥の地」とされている。
|
阿 賀 野 市
阿賀野市ホームページ
水原代官所
延享3(1746)年、天領となり代官所が設けられた。
主な任務は新発田藩と村上藩の監視であったが、6万~10万石を算出する肥沃な土地でもあった。
一時、会津藩の預かり地となる。
平成7(1995)年、復元される。
併設の"水原ふるさと農業資料館"には、昔の農具や民具が展示されている。
▲(阿賀野市外城町10-5 Tel. 0250-63-1722)
・9時30分~16時 (12~3月は、10時から)
・定休 月曜日、年末年始
瓢湖
「白鳥の渡来地」として、全国的に知られている人造湖。
寛永16(1639)年、用水池として完成。
完成時は、瓢箪の形に似ていた。
昭和29(1954)年、日本で初めて吉川重三郎が野生の白鳥の餌付けに成功。
国の天然記念物に指定。
ラムサール条約の登録湿地でもある。
▲(阿賀野市水原)
・Tel. 0250-62-2690(瓢湖管理事務所)
新 潟 市
新潟市ホームページ
せんべい王国
平成14(2002)年、(株)栗山米菓の本社敷地内にオープン。
せんべいを職人が作る工程が見学できる。
資料コーナーでは、資料やミニチュア模型などから、新潟の米菓の歴史が学べる。
米粉を使った麺作り、手焼せんべい、ばかうけ味付けなどの体験もできる。
▲(新潟市北区新崎2661 Tel. 025-259-0161 〔HP〕)
新潟競馬場
日本中央競馬会(JRA)が運営している競馬場の1つ。
平成(2001)年、日本最長の直線が設けられ、日本で唯一の直線競馬が行われている。
この時から、右回りだったコースが、左回りに変更された。
▲(新潟市北区笹山3490 Tel. 025-259-3141 〔HP〕)
長 岡 市
長岡市ホームページ
寺泊魚市場
魚の市場通りは、"魚のアメ横"とも呼ばれ、日本海の新鮮な幸と旬な味が並ぶ。
品揃えと安さは評判で、遠方からの買い物客で賑わっている。 イカやサザエ、ホタテなどの浜焼きは、楽しみの1つ。
▲(長岡市寺泊荒町)
・Tel. 0258-75-3363(寺泊観光協会)
寺泊水族博物館
海岸に就き出ており、"海に浮かぶ水族館"として有名。
約400種1万もの魚が1~3階に展示されている。
餌付けショーなども催される。
天気が良ければ、佐渡島が一望できる。
▲(長岡市寺泊花立9353-158 Tel. 0258-75-4936 〔HP〕)
・9時~17時
牛の角突き
▲山古志闘牛場
(長岡市山古志南平)
▲虫亀闘牛場 .
(長岡市山古志虫亀) .
小千谷市の牛の角突きを参照。
Tel. 0258-59-2343(山古志支所産業課)
新 発 田 市
新発田市ホームページ
旧会津街道一里塚 (赤谷一里塚)
一里塚は、街道に一里ごとに築かれた左右一対の盛土で、慶長九年 (一六〇四) 、徳川家康が織田・豊臣二氏の古制にならい、秀忠に命じ江戸日本橋を起点として東海・東山・北陸の三街道に築かせたのが最初である。 江戸幕府は、のちに三街道以外にもこの制度を広め、諸藩もこれにならい、主要街道や脇街道にも築いた。
米沢・会津・三国・北国・北陸にどの街道が走っていた本県には、当時これらの街道とその脇街道にあわせて一千ヵ所近くの一里塚があったが、今では半壊状態のものも含めてわずか八ヶ所しか残っていない。
この一里塚は、会津藩が築いたもので、新発田や村上など下越の藩主が参勤交代の際に利用した会津街道に遺る四ヵ所のうちの一つであり、市内に遺る唯一のものである。 一対のうち一基が遺されている。
昭和四十八年一月指定
新発田市教育委員会 .
新発田城
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (31番) の1つ。
築城年は不詳だが、新発田氏が築城とされる。
明治6(1873)年、廃城。
▲(新発田市大手町6-4)
上 越 市
上越市ホームページ
春日山城
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (32番) の1つ。
鉢ヶ峰城とも呼ばれる。
上杉景勝の前任地。
南北朝時代に上杉氏が館として築き、謙信も居城としていたが、 大城郭への整備は天正7(1579)年に養子/景勝が入城してからとのこと。
景勝が会津を拝領し、次の領主/堀氏も直江津/福島城を築城して移ったため、慶長12(1607)年に廃城となる。
現在は春日山神社で、入口の高台に信玄の銅像がある。
▲(上越市中屋敷
~ 大豆)
会 津 と の ご 縁
保科民部正興の墓 (さすらいの丘)
家老/保科正近の嫡男。
曾祖父/正勝が保科正之公に従い、山形を経て会津に入る。
父/正長の家督を継ぎ、家老職を務める。
貞享3(1686)年、於萬に連座し職を解任、家禄は没収され、この地に配流される。
毒殺事件を企てた於萬は、正之公が死去するや遺言を守らず、実子/正経公が藩主に就くと、生母という立場を利用し、実家/藤木一族を京都から呼び寄せ要職に就け権勢をふるう。
正経公が嫡男なしで死去し3代藩主/正容公が就くと、正興の後妻が於萬の姪であったために、藤木一族とともに一掃された。
元禄2(1689)年8月7日、許されることなく、流人として死去 (43歳)。
元々の墓碑は十文字に切断され、今も倒れたまま置かれている。
「家世実紀」では、元禄3(1690)年8月7日に死去とある。
この地では、村の子供たちに読み書きを教えたり、干ばつによる村人の難儀を見るや険しい山に登り雨乞いをしたりと、村人のために尽力したため、村人から「民部さま」と親しまれていたという。
辞世の歌とされる各行の頭尾を綴ると「保科正興の塚」となる。
▲(阿賀町日出谷甲2278/鹿瀬町水沢)
|
ほ た る ひ を
したへとくらき
な つ の よ の
まつかせをちつ
さすらいのおか
|
|
雲泉寺
延文3(1358)年、境内にあった老杉が倒れて根元から温泉が湧き出したため、逗留していた源翁禅師が霊験に感謝して雲泉寺から温泉寺に改称し、真言修験から曹洞宗へ改宗した。
この時、師/峨山紹碩禅師の坐像を老杉に刻んだと伝わる。
貞治3/正平19(1364)年、再び訪れた源翁禅師は、湧き出している温泉を封じ、再び雲泉寺の名に戻した。
竜峰山、曹洞宗。
▲(関川村大字土沢2056 Tel. 0254-64-1536)>br>
無為信寺
寛元4(1246)年、親鸞聖人二十四輩の1人/無為信 (武田信勝) が、無為信寺 (現/光明寺) を鶴ヶ城下の外れに開基。
その後、棚倉・藤枝市・大阪・京都を経て、京都/東本願寺の預かりとなる。
宝暦10(1760)年、会津藩預り領/水原の大地主/佐藤伊左衛門により再興される。
▲(阿賀野市下条町8-21 Tel. 0250-62-2676)
慈光寺
天寧寺を開山した傑堂能勝が再興した寺。
開創年代 (真言宗もしくは天台宗) は不詳。
応永10(1403)年頃、傑堂能勝を勧請して、禅寺として再興。
明白山、曹洞宗。
越後四ヶ道場 (耕雲寺・種月寺・雲洞庵)の1つ。
▲(五泉市蛭野870 Tel. 0250-58-4000)
高倉宮以仁王は宇治川で敗れ、奈良路から近江/信楽、東海道を通り甲斐から信濃・沼田・片品川を経て檜枝岐村に入る。
会津の地を転々とし、会津領の辺境/蒲原郡小川の荘の東山村に至るも、追討軍に襲われ自決したとされる。
「高さ三四尺余り径九尺程」の盛り土の所が墓域と伝わる。
左手側には、高倉宮の住居跡とされる「東西二町、南北二町余り」の平地がある。
その周りの2方面は空堀に囲まれており、幅二間半と幅四間半で深さ二間ほどの落とし穴の設置跡も確認でき、要害の様子も窺える。
東方にある土の堤防のような盛り土には、5基の大きな塚と20余基の小さな塚が連なっているが詳細は不詳。 大きい塚は慰霊墓とも伝わる。
いずれの遺跡も、朽ち果てようとしている。
▲(阿賀町上川 旧会津領)
・標柱「高倉宮以仁王墳墓入口」から山道を徒歩15分ほど
種月寺
文安3(1446)年、上杉房朝が創建し、南英謙宗が開山。
南英謙宗は、天寧寺を開山した傑堂能勝に学んだ弟子。
越後四ヵ道場 (耕雲寺・慈光寺・雲洞庵)の1つ。
▲(新潟市西蒲区石瀬3356 Tel. 0256-82-2160)
寺田徳祐の墓 (悉地院)
文政11(1828)~明治16(1883)年10月21日
幼名/山本滝三郎。 号/小陶。
日新館の英才の1人。
会津藩士/寺田家を継ぎ、寺田寛介と改名。
房州沿岸警備に7年間就き、江戸詰となる。
京都勤番などを歴任し、最後となる津川代官に就任。
戊辰の役では、越後口にて奮戦。
開城後は越後高田藩で幽閉(謹慎)。
新潟港から斗南藩へ向かう途中、沼垂の人たちの懇望を受け留まり、徳裕に改名し、私塾/有隣館 (新潟沼垂高校) を開く。
明治5(1872)年。沼垂小学校の初代校長に就任し12年間務め、今でも敬慕されている。
「寺田徳祐君墓」
▲(新潟市中央区沼垂東3-3-43 Tel. 025-244-1289)
|
沼垂小学校
寺田徳祐が初代校長。
▲(新潟市中央区鏡が岡5-5
Tel. 025-247-5326)
|
|
上杉謙信の供養塔 (林泉寺)
上杉景勝の養父。
7歳の時、父/長尾為が死去したため、この寺に預けられる。
14歳で元服するまで、6世住職/天室光育から学問を学ぶ。
近くに、川中島戦死者供養塔もある。
婿養子/景勝の会津移封により、墓は春日山城の廟所から鶴ヶ城内に改葬されたが、関ヶ原の戦いで石田光成に与したため米沢に減封され、再び改葬された。
明治に入り廃仏毀釈により上杉家廟所に移される。
▲有料 (上越市中門前1-1-1 Tel. 025-524-5846)
上杉謙信の供養塔 (栃尾美術館)
伝承。
栃尾城跡に建つ美術館入口の庭園奥にある。
隣りの墓は、信玄の幼き頃からの学んだ師の1人/門察和尚の墓。
▲(長岡市上の原町1-13 Tel. 0258-53-6300)
溝口政良の墓 (大栄寺)
加藤明成の娘が、沢海藩主/溝口政良へ嫁ぐ (再婚)。
生年不詳~天和3(1683)年6月1日
幼名:金助。初名:政胤。
父/溝口政勝、
母/溝口宣勝 (新発田藩主) の娘。
越後沢海藩/3代藩主。
「雄巌俊英涼雲院」
▲(新潟市江南区沢海3-3-18 Tel. 025-385-2032)
田丸直昌の墓 (太岩寺)
妻 (正室) が、蒲生氏郷の妹。
天文12(1543)年~慶長14(1609)年3月7日 (67歳)
別称:具直、具安、具康、忠昌。
父/田丸具忠。
戦国時代・安土桃山時代の大名、須賀川城主。
「太岩寺殿本秀心空大居士」
慶長10(1605)年、田丸直昌が越後福島城下/小町川のほとりに創建。
寛永年間(1624~1645)、現在の越後高田城下に移る。
▲(上越市寺町3-11-37 Tel. 025-523-6456)
直昌が出家した名立寺
永正年間の開基。 文明年中に上杉能景が創建とも。
江崎山、曹洞宗。 本尊は聖観世音菩薩。
越後三十三観音/第1番札所の岩屋堂観音堂を管轄。
江戸時代には加賀藩/前田氏の参勤交代の宿所。
▲(上越市名立区名立大町270 Tel. 025-537-2304)
徳昌寺
直江兼続の位牌を所蔵。
文明11(11(1479)年、直江兼続の義曽祖父/直江秀綱が開基・耕陰道夫和尚が開山し、直江家の菩提寺として隆盛。
香積山、曹洞宗。 本尊は十一面観音。
慶長3(1598)3(1598)年、上杉景勝が会津藩への入封に従い、藩領の米沢へ移る。
元和5(5(1619)年に兼続、寛永14(1637)年に兼続の正室/船が死去し直江家は断絶、後に廃寺となる。
元禄15(1702)年、与板で経て現在地で再興。
▲(長岡市与板町与板乙6025 Tel. 0258-72-2423)
雲洞庵 (うんとうあん)
応永27(1420)年、天寧寺を開山した傑堂能勝耕雲寺/傑堂能勝の法嗣の顕窓慶字を招き、禅寺として再興。
幼少期の喜平次(上杉景勝)や與六(直江兼続)が、この名刹の13世/通天存達 (長尾政景の兄で景勝の伯父) らから学問を学び修業したとされる。
越後四ヵ道場 (耕雲寺・慈光寺・種月寺)の1つ。
▲有料 (南魚沼市雲洞660 Tel. 025-782-0520)
上杉景勝・直江兼続のレリーフ (南魚沼市役所)
上杉景勝と直江兼続が同地の坂戸城で生まれたことから、南魚沼市役所の前庭に2人のレリーフが設置された。
▲(南魚沼市六日町180-1 Tel. 025-773-6660)
お六と桂姫の銅像
市役所近くの魚野川に架かる「六日町大橋」のたもとにある。
幼き頃の直江兼続 (お六) と上杉景勝の妹/桂姫との想像上の恋物語をもとに建立された。
傍らには、「お六の湯」 と名付けられた足湯もあり、橋の欄干には兼続の兜が描かれている。
耕雲寺
応永元(1394)年、天寧寺を開山した傑堂能勝が開創。
天寧寺などを行き帰り、南英謙宗、孤峰覚明など多くの弟子を育てる。
末寺80、孫寺を合わ800にも及ぶ名刹となる。
応永34(1427)年、耕雲寺で入寂。
▲(村上市門前143 Tel. 0254-53-0279)
巻菱湖記念時代館
巻菱湖は、荘田胆斎の師 (書学) の1人。
安永6(1777)年~天保14(1843)年4月7日 (67歳)
名:大任、通称:右内、字:致遠 (起巌)、号:菱湖、弘斎。
越後国/巻町にて誕生、出生地にちなんで巻姓を名乗る。
19歳で上京、書家/亀田鵬斎に師事し漢詩や書法を学ぶ。
29歳で「十体源流』を著し、書塾「蕭遠堂」を開き、書家として数多くの書道手本を創作する。
幕末の三筆(貫名海屋・市河米庵)と称され、門下生は1万人を超えると伝わる。
著書「書法類釈」「墨池余滴」「書人録」「十体源流」「書流質疑」など。
墓は、天王寺墓地。
▲有料 (新潟市東区河渡庚296-33 Tel. 025-271-9567、080-4159-2581 〔HP〕)
[戻る]
[TOP]
[行く]
[遊ぶ]
[知る]
[経由地]
Copyright(C) 会津への夢街道(Kazuyosi W = KU) All Rights Reserved.
|