江  戸  湾  防  備  /  殉  難  者

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]  十夜寺  正珊禅寺  [ご縁]

千    葉    県

富    津    市    (千葉県)

「十夜寺 (松翁院 無量光寺)」 については、こちら。

「正珊禅寺」 については、こちら。

延命寺

 本堂の右側の墓地入口にある。
 墓域の左側は、白川藩と備前藩。

 以前は参道の山肌にあったと記憶していたが、今では清々しくキレイに整備されていた。



寛阿妙照信女 堀重遠妻墓 柏谷忠勝墓

寛阿妙照信女  嘉永二年 酉年正月廿一日 會津 金澤権之○母
   堀重遠妻墓 直応静真妙歓大姉 君諱重會津臣堀新蔵重理二女養子丁蔵重遠妻也
      柏谷忠勝墓  會津臣 穴澤源八父 嘉永二子酉三月廿四日
         無相院○○道光居士 會津臣 堀丁蔵重道墓 嘉永四辛亥十二月十五日


 ▲(富津市竹岡4455)

長秀寺

長秀寺の無縁墓

会津藩士・家族墓

 過去帳に会津藩12名が記載されているとのことだが、無縁墓として整理されており、今では1基のみしか確認できない。


安楽源助妻墓

安楽源助妻墓

  嘉永七寅年 會津家臣水主頭
妙法 春理院妙性信女 安楽源助妻墓
  四月十八日 行年四十有五歳卒

長秀寺の無縁墓

 左右を、下記の墓に守られている。
  珊瑚院玉山日迎居士
   (白川家中、永井荘右衛門)
  要道院智照日顕居士
   (下総家中、渋谷団右衛門)


長秀寺

 ▲(富津市富津169-1 Tel. 0439-87-3951)

妙経寺

細川外記之墓

細川外記之墓

細川外記之墓と義軍墓

 「会津若松士族
  大正十三年七月建之
    旧會津藩士 荒井政行
  昭和六十三年八月吉日
    古川志の 再建立

義軍墓

義軍墓
 江戸城開城に不服の旧幕臣/福田八郎左衛門率いるフランス式銃砲隊/撤兵隊が徳川義軍と名乗り、上総八幡・姉崎・木更津などで迎撃。
 「慶應四年閏四月七日
 戊辰義士戦死者 撤兵隊
 関口○○  風間長兵衛  渡邊○○    和田土佐吉
 剛 三進  眞本豊太郎  金子三右衛門  中村氏
 相原氏   清水作造   横田○○    夕○壹○○
 五名姓○○

   妙経寺

 ▲(市原市姉崎453 Tel. 0436-61-0242)

富津陣屋跡

富津陣屋跡の碑

 文化7(1810)年2月26日、幕府は房州沿岸警備 (安房・上総) を白河藩に命じた。
 この時、会津藩は江戸湾防備 (相模の浦賀周辺) を命じられる。
富津陣屋跡  その後、幕府代官/文政6(1823)年、武州忍藩/天保13(1842)年が房州沿岸警備を歴任。
 弘化4(1847)年2月15日、会津藩 (松平容敬公) が房州沿岸警備 (富津〜竹岡) を命じられ、富津と竹岡の2ヶ所を陣屋とする。
 堀や土塁で囲まれた富津陣屋の中には町が形成され、総坪数は7,875坪に達していた。
 嘉永5(1852)年、容敬公が死去したため養嗣子/容保が藩主となる。 富津陣屋跡の説明文  富津陣屋跡は宅地で埋め尽くされており、辛うじて「富津陣屋跡」の碑が昔を偲ぶのみ。
 なお、竹岡陣屋は竹岡小学校になり、面影すら残っていない。

富津陣屋跡 小河原多宮自刃の(地) 白井宣左衛門自刃の地
 脇に「小河原多宮自刃の(地)」と「白井宣左衛門自刃の地」の碑がある。  房州沿岸警備は、柳川藩、二本松藩を経て、戊辰の役時は前橋藩が富津陣屋で任に就いていた。
 前橋藩家老/小河原多宮 (左宮、政徳、子辰) は、の難癖から前橋藩を救うべく、責任を一身に背負い自刃した。
 2ヶ月後 からの再度の言いがかりを受け、前橋藩町在奉行兼勘定奉行/白井宣左衛門は養子/茂八郎に介錯させて自刃した。  この2人の死により前橋藩は、からの「いちゃもん」から何とか逃れることができた。
 両名の墓は、群馬県前橋市/源英寺にある。
 ▲(富津市富津925辺り)

飯野藩士 (浄信寺)

飯野藩士(浄信寺)

 飯野藩は、西軍にも藩士20名を出征させたが、大義は会津藩にあるとして優秀な藩士20名 (最終的には28名) を選び脱藩させ、会津へ向かわせた。
 そして、森要蔵と子/寅雄など多くの者が散った。
 本堂の左手前に、野間銀次郎と樋口盛秀の碑が並んで建つ。
樋口盛秀の墓 樋口盛秀之碑 徳功院義誉忠純盛秀居士

樋口盛秀之碑 .
 樋口弥一郎盛秀。
 飯野藩領/摂津国浜村の医師の子。
 保科家に仕官し、次席家老となる。
 慶応4(1868)年6月12日、藩士を脱藩させた責で自刃。 61歳。

野間銀次郎の墓 保科家盡忠士野間銀次郎君碑 慈孝院淳誉義忠居士

保科家盡忠士野間銀次郎君碑
 野間銀次郎橘幸信。
 飯野藩士/野間道明の長男。
 箱根で奮戦後、同じ6月12日に脱藩者の代表として自刃。 26歳。
 講談社の創業者/野間清治の伯父。

森要蔵の供養塔 森要蔵の供養塔の説明文 森景鎮之塋 (森要蔵の供養塔)
 墓は、大龍寺
 講談社創立者/野間清治の祖父 (母/ふゆの父)。
飯野藩剣術指南 森要蔵墓地
 ここ浄信寺 (浄土宗) には、飯野藩二代藩主保科正景の墓所の傍に飯野藩剣術指南 森要蔵の墓がある。
 慶応四年 (一八六八) 戊辰戦争が勃発、長賊、薩摩藩など西国諸藩に徳川親藩までもが加わって會津藩を撃とうと會津へ向かった。
 森要蔵は「大義は會津にあり」と親藩である會津藩を救援すべく飯野藩士の子弟ら二十八人を率いて會津へ。
 同年七月一日、奥州の玄関口白河城を巡る、激しい攻防戦で森要蔵と寅雄親子に花沢金八郎ら五人が壮烈な戦死を遂げた。
 五人の墓地は福島県西郷村の大龍寺に地元民が明治三十年 (一八九七) 建立。 富津では、明治七年 (一八七四) 生き残りの藩士が供養塔を建立した。
  平成二十七年春                 房総半島會津藩士顕彰会

≪飯野藩主≫
 野間銀次郎と樋口盛秀の碑の奥に飯野藩2代藩主/保科正景の墓域がある。
 その左側近くに照姫の母/民 (重枝、佐々木氏、静広院) の墓もある。
 歴代藩主の墓は、10代藩主/正益が青山墓地、正景を除く以外は大円寺にある。
照姫の母/静広院の墓 保科正景の墓 保科正景の墓
  明治三庚午歳
静廣院殿邦譽操謐大姉
  三月二日

       元禄十三庚辰夭
    泰嶽院殿前従五位真譽帰元大居士
       五月十有六日

 高遠藩主/保科正光の養嗣子/正貞は、将軍/徳川秀忠の隠し子/正之公が養子に迎えられるや廃嫡となる。
 保科家を継いだ正之公が秀忠の実子/4男として公式に認められ徳川一門となるや兄である将軍/家光に願い出たことから、正貞は加増され大名に昇進し飯野藩を立藩、正之公から保科家累代の品々/家宝を譲られ、改めて保科氏正統を継承することになった。
 正之公と正貞は義兄弟であることから、飯野藩は会津藩を本家とする親戚藩として、幕末まで特別な関係が続いた。
 初代藩主/保科正貞 「源松院殿天永高本大居士」
 3代藩主/保科正賢 「保国院殿雄巌昌英大居士」
 4代藩主/保科正殷 「観了院殿徹山宗悟大居士」
 5代藩主/保科正寿 「霊仙院殿活参玄道大居士」
 6代藩主/保科正富 「高勝院殿義雄桂山大居士」
 7代藩主/保科正率 「安居院殿偶住一光大居士」
 8代藩主/保科正徳 「壽山院殿高照朗月大居士」
 9代藩主/保科正丕 「高顕院殿峯霞雲大居士」
 10代藩主/保科正益 「高岳院殿徳雲雅馨大居士」
 なお、正之公は「松平」を名乗るよう命じられても、保科正光からの恩義を忘れず辞退し、生涯、保科を名乗り続けた。
 松平容敬の養女となり、戊辰の役で籠城戦を戦い抜いた照姫は、飯野藩9代藩主/保科正丕の3女である。
 ▲(富津市青木887 Tel. 0439-87-1022)

浦    安    市    (千葉県)

しおかぜ緑道内送電鉄塔の下

成瀬氏の墓

成瀬氏

 側面に「會津家中 成瀬氏」とある。
 江戸川から二基目の送電鉄塔の支柱の下。

しおかぜ緑道内送電鉄塔 成瀬氏の墓


 成瀬氏の先祖は、寛永20(1643)年に山形から会津に移る。
 宝暦5(1755)年、足軽召抱え。
 文化14(1817)年、江戸詰。
   寳聚院諦譽聴察居士  明和元申年七月十二日
   誓耽院超譽貞勝大姉  明和五子年三月十八日


 ▲(浦安市富士見4)

佐    倉    市    (千葉県)

小柴小次郎重稜之墓 . (佐倉藩士)

成瀬氏の墓

 佐倉藩士/小柴一郎宣雄の長男。
 19歳になると、江戸の江川塾にて西洋砲術を学ぶ。
 慶応3(1867)年、幕府開成所教授方/小林鼎輔にフランス学を学ぶ。
 慶応4(1868)年、戊辰の役が勃発すると、に与することは義に反するとし、幕府軍/草風隊に加わり差図役として奮戦。
 8月7日、船生で肩を撃たれ日新館病院に搬送され療養中、が侵入との報を聞き、8月25日に自刃 (に虐殺とも)。 22歳。
 表面「慶應四戊辰年八月二十五日死
 裏面「〜〜〜〜〜 慶應四年八月
     會津若松城防戦之際於藤原口戦死享年二十二

 麻賀多神社に記念碑がある。
 ▲(八千代市大和田新田  「工業団地入口」交差点近くの国道沿い)

両士記念之碑 . (麻賀多神社)

両士記念之碑

 両士とは、戊辰の役でに与するのは義に反するとし、佐倉藩を脱藩して幕府方に参加し、信念を貫き通して戦死の
  ◇ 木村隆吉 (彰義隊)
  ◇ 小柴小次郎 (草風隊)
の記念碑である。 記念碑を建立するのにすら、大正2(1913)年まで待たねばならなかった。
3つの碑  その際にも、「義烈の碑」に2人の名を加えようとしたのだが残党どもは認めず、やむを得ずして、別の小さな碑として社殿の奥まった見えない所へ、隠れるように建てざるを得なかった。
 現在は、日清・日露戦争までに出征した戦没者記念碑「義烈の碑」「忠勇の碑」の隣に移設され、名誉は回復されている。
両士記念之碑
 麻賀多神社は、佐倉城の大手門近くに位置しており、歴代の佐倉藩主に庇護され、佐倉城の鎮守神と称されていた。

 ▲(佐倉市鏑木町933-1 Tel. 043-484-0392)

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]  十夜寺  正珊禅寺  [ご縁]