萱野長修
.
興禅寺墓域の入口直ぐ左手にある。
家老/萱野権兵衛
開城後、藩主/松平容保を命がけでかばい、戊辰の役の責任を一身に背負った。 から責任者3名の首を差し出せとの要求に、すでに自刃している田中土佐と神保蔵之助と自分自身を届け出る。
明治2(1869)年5月18日、東京の上総飯野藩保科家下屋敷にて切腹して果てた。 享年40歳 (42歳とも)。
毎年5月、追善法要が行われている。
一刀流溝口派の相伝者であった萱野は、絶えないようにしようと、切腹前に井深宅右衛門に火箸を使って奥義を伝授したという。
墓は、天寧寺にもある。
鶴ヶ城内に殉節碑、阿弥陀寺に遥拝碑、余市町に殉節碑がある。
次男が、悲劇の郡長正 (萱野乙彦) である。
郡家歴代之墓 .萱野の家名が断絶となったため、「郡」の姓を名乗る。萱野家初代/長則の母親の出身が郡家。 少し離れた墓域にあるが、大きいので分かり易い。 |
通称:神保修理。 家老/神保内蔵助の長男。
慶応4(1868)年2月13日、鳥羽伏見の戦いの最中に戦場離脱、その責により三田下屋敷で切腹した。 突然、江戸に戻った将軍/徳川慶喜に、藩主/松平容保公が同行したからであった。
享年34歳。 「遺徳院殿仁道義了居士」。
菩提塔が神保家菩提寺の建福寺にある。
妻/雪子は、城下で中野竹子たちと共に薙刀で奮戦するも、討死した。
初代/長崎市長となった北原雅長は実弟。
辞世の句 「帰りこん 時ぞと母の 待ちしころ はかなきたより 聞くべかりけり」。
松斎の嫡男。 軍事奉行、表用人。
慶應4(1868)年8月23日、藩主/容保が滝沢本陣を引き揚げ、甲賀町郭門から鶴ヶ城に入ろうとしたが既に敵が侵入しており、止む無く六日町口郭門から入ろうとするも藩主の楯となって戦死した。
53歳。 阿弥陀寺に合葬。
平八の伜。
敢死隊/指図役。
慶応4(1868)年8月23日、戸ノ口原で戦死。
28歳。
「修覚院義山観忠居士」。
その他の会津藩士やその家族、子孫の墓碑が数多くある。
延宝2(1674)年、米沢藩主/上杉定勝の長女/松嶺隠之尼 (長松院松嶺隠之尼禅師) が開基、玉舟祖冷が開山した上杉家代々の菩提寺。
※ |
上杉定勝は、元会津藩主/上杉景勝の嫡男で、生母/桂岩院が出産後まもなく死去したため直江兼続夫妻に養育された。 |
大都会の住宅街にあるため区画整理はされているが、程良い空間が保たれていて、心地よい風が吹き抜けている。 清掃も行き届いていてゴミ1つ見当たらない。 ご住職の人柄が伝わってくる。
▲(港区白金6-14-6 Tel. 03-3473-0602)
大野原で眠る方の1人であろうか。
「久光院忠山義芳清居士
会津藩士瀬野久吾戊辰之役
八月二十三日於テ大野ケ原
戦死ス遺体ハ戦地ニ埋ム
慶應四年八月二十三日」
[墓誌]
▲(港区白金2-7-19 Tel. 03-3441-3853)
忠淳の父。
元普請方小奉行。
慶応4(1868)年8月25日、鶴ヶ城内で戦死。
享年62歳。
「曰華光院譛譽忠意居士」。
明治13(1880)年10月、13回忌の際に建立。
郡上藩/凌霜隊の副長。 .
会津藩の援軍として派遣。 .
「誠性院諦岳行道居士」。 .
明治29(1896)年10月、死去。.
75歳。右の速水累代之墓。 .
左は速水家族之墓。 .
郡上藩士。
凌霜隊として奮戦。
慶応4(1868)年8月30日(九月朔日)、
大内峠で戦死。
17歳。
「山脇金太郎橘正廉墓 九月朔日」
会津藩士/桐生氏が、“足し丘
昭和10(1935)年から昭和12(1937)年にかけて、無縁墓6千2百余基が新たに造成した多摩墓地へ移され、旧/会津藩士の墓も数多く含まれていたという。
2種イ3号1側。
新しい墓碑になっており、旧墓碑は見当たらなかった。
≪外島機兵衛≫ 堀藤左衛門の次男、名は義直。
佐原義連公の流れを汲む外島家の養子となる。
勘定奉行。 享年43歳。
容保公に恭順を説き、総督府と交渉中の慶応4(1868)年3月7日に病死。
2種イ12号8側。
≪斎藤甚左衛門≫ 大工 (御普請方)。
慶応4(1868)年8月27日、鶴ヶ城で戦死。 享年73歳。
墓碑は、「慶応三年八月廿三日 於會津鶴城内没」。
≪斉藤のぶ (碑には信子)≫
斉藤甚左衛門の妻。
慶応4(1868)年8月24日、小田村で死。 享年64歳。
1種ロ8号53側。
名:政文。 通し名:喜三郎。 別名:木三郎。
吉川神道高弟。
藩校/日新館の神道方/大竹一族。
文政2(1819)年12月1日、死去 (70歳)。
「會津藩神道大家
〜〜 高弟 大竹喜三郎 外二十八霊」
戊辰の役で青龍足軽一番隊/杉田隊として、慶應4(1868)年5月1日に磐城で戦死 (48歳)した大竹喜三郎は子孫。
神道家吉川惟足大人奥城
. 元和2(1616)年〜 〜元禄7(1695)年11月16日 (79歳) 京都で萩原兼従の門に入り、吉田神道の奥義を授けられて、新しい流派/吉川神道の開く。 保科正之公に見い出され、天和2(1682)年に幕府神道方に任じられ、子孫が神道方を世襲することとなる。 正之公の神葬祭を取り仕切った。 藩士/坂本義邵、服部安休、友松氏興の師 (神道) の1人。 |
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墓域内に、大竹一族の「大竹家之墓」もある。 |
1種ロ9号4側。
通称:芦沢寛治。
蘆澤直道や内村直義の父、代官。
慶應4(1868)年8月23日、甲賀町口郭門で負傷し、
9月19日に城内で死去。 56歳。
(墓には、8月23日に甲賀町郭門で戦死とある)
蘆澤直道
. 蘆澤寛治の倅。 初名:生太郎。 戊辰の役の後に、西南の役に従軍。 (陸軍少尉兼二等少警部) 明治37(1904)年9月11日、病没。 |
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蘆澤鳴尾
. 藩士/蘆澤直輝の3女。 明治5(1872)年、日本初の女学校「新英学級及女紅場」で、一等舎長や、諸礼の主任教師 (自らは書道など) を務める。 「近世名婦伝/岡田霞船」などにも記載されるほど、当時は著名な名婦であった。 半面、気丈な名婦も子が無かったためか、可愛がっていた甥/内村直義の戦死を知るや、誰憚ることなく嘆き悲しんだという。 |
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共著「女子習字帖」など。 |
横山主税常守
山川源八常道の子で横山主税常徳の養子となり、若年寄に就任。
慶応4(1868)年5月朔日、岩城/白河で戦死。
首級は、大窪山に埋葬 (首塚)された
。
墓碑に名はないが、妻/松尾は記載されている。
丹羽家之墓 .1種ロ7号14側。二本松藩主の墓碑。 戊辰の役時の藩主は、11代/丹羽長国。 卑劣極まりない三春藩の裏切りにより、霞ヶ城 (二本松城) が落城。 藩主/長国は、辛くも米沢藩へ逃れた。 動員された少年兵の多くが犠牲となった。 |
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丹羽家の墓域内にある。二本松藩士戦死者慰霊塔 .武将戦死者慰霊塔 . |
大正6(1917)年6月9日、院内御廟へ改葬される。
正受院は、松平家の菩提寺の1つ。
現在は、墓碑・案内板など何も残っていない。
野村家之墓 晩年の容保の世話をした「松枝」が葬られている。 容保公の墓の改葬後、松平家墓域の一部が贈られた。 ほかの墓とは,比較にならないほど広い。 |
三淵隆衡の墓もあったが、霊寿院に移されている。
家老/萱野権兵衛の実弟のため家名断絶され、「三淵」を名乗る。
▲(新宿区新宿2-15-20 Tel. 03-3341-1416)
松平容保終焉の地明治26(1893)年12月5日 晩年を過ごした東京/小石川の自邸で死去 (肺炎)。遺体を清める際、常に首から提げていた筒を開けたところ、錦で包まれた孝明天皇の御宸翰・御製2首が現れた。 翌6日、各地へ散り散りにされた旧藩士に知らせるべく、旧斗南藩主の長男/容大公と家令 (樋口光) の名で読売新聞に死亡通知を掲載。 「公御病気の処本日午前十時薨去被遊候此段旧藩士へ広告す 但来る九日零時三十分小石川第六天御邸御出棺 内藤新宿北町正受院に於て神葬式御執行の事 石川区第六天町 松平容大 家令 明治廿六年十二月五日」 前日の正三位昇叙も付け加えられていた。 同月9日、全国各地から駆け付けた会葬者3千2百人ほどに見守られ、神式による葬儀が営まれ、内藤新宿の正受院に埋葬された。 ▲(小石川区小日向第六天町8番地/文京区小日向1丁目 荒木坂を上った辺り) 痕跡は何も無く、荒木坂の説明版にも記載は無い。 |
≪小檜山包四郎
. ≫ 鉄蔵の倅。 町野隊付。 26歳。
慶應4(1868)年閏4月23日、越後/三国峠で負傷し、小千谷で死去。
小出の戦死者姓名碑にも記載されている。
≪小檜山岩次郎≫ 鉄蔵の次男。 江戸詰。 青龍足軽隊。
慶應4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。 23歳。
「二之一側」にある。
「南無妙法蓮華経 先祖代々霊位
旧會津藩士 大正七年十月三日 小檜山鉄蔵建之」。
墓碑に、名の記載はない。
同一墓域に、芥川龍之介などの墓がある。
▲(豊島区巣鴨5-35-33 Tel. 03-3910-1579)
乙8号7側。
井深保の子。 安部井帽山の養子となるも後に離縁。
開城後に悪業を繰り返し住民たちを苦しめ、会津藩を誹謗中傷していた民生局監察兼断獄の極悪人/久保村文四郎を、伴百悦たちと共に束松峠付近で天誅を下した。
明治6(1873)年2月5日、獄死。
旧藩士で政府高官/日下義雄が、自分の墓所内に建立。
甲8号2側。
明治17(1884)年、栃木県令に転出した極悪人/三島通庸らへの暗殺未遂事件のこと。 武力蜂起した16名中12名が福島県人で、この碑の4名中2名が会津人。
◇ 三浦文治 肝煎/真部喜一の次男。三浦家へ養子
明治19(1886)年10月2日、処刑
◇ 横山信六 藩士/池上信三の3男
死刑判決だったが、明治19(1886)年9月3日に拷問で獄死
その前の明治15(1882)年に、三島通庸の横暴さに耐えかねた農民千数百人が喜多方警察署に押し寄せた喜多方事件(弾正ヶ原事件)が起きている。
顕彰墓は、示現寺にもある。
▲(台東区谷中7-5-24 Tel. 03-3821-4472)
蝶、小蝶とも。
嘉永3(1850)年、藩士/平田門十郎の次女として江戸上屋敷にて誕生。
赤岡忠良 (大助) の養女になる。
中野竹子も養女となっていたが、戊辰の役の年、2人とも離縁した。
慶應4(1868)年8月24日、坂下村から来た義姉/竹子と出会い婦女隊に参加、翌25日に柳橋辺りで戦う。
竹子は敵弾に斃れたが、蝶子は入城を果たし、開城するまで戦い抜く。
戦後、藩士/戸田衛門と結婚し、山形から東京へと移り住み、明治18(1885)年10月6日に36歳の若さで死去。
墓は、本堂裏の塀で囲まれた墓域の中ほど手前にある。
「會津藩士平田門十郎二女
蝶子之墓」
▲(台東区谷中5-10-10 Tel. 03-3821-3393)
明治9(1876)年の士族反乱未遂事件で、14名中、中根米七を除き13名は捕えられ、永岡久茂は獄死し、会津藩士3名だけに死刑判決となる。
明治10(1877)年2月7日、会津藩士3名が斬首。
明治11(1878)年、中根米七も会津にて自刃した。
藩士/井口隼人の次男。
戊辰の役では、白虎隊幼少組として奮戦。
永岡久茂の書生をしていた。 享年24歳。
辞世の句
「待て暫し 我も後より続かまし 同じ黄泉路を 辿る身なれば」
兄/信太郎は、長命寺の戦いで戦死。 墓は善龍寺。
父/隼人は、高田/来迎寺で幽閉 (謹慎) 中に病死。
本名は、高津仲三郎。 藩士/高津平蔵の3男。
宝蔵院流槍術の達人。
会津藩邸を訪れた元将軍/慶喜に対して、鳥羽伏見の戦いでの敵前逃亡を面罵したことで広く知られる。
遊撃隊として越後口で奮戦し、開城まで城外で戦い抜く。
戦後は、居残り組として戦死者の遺骸埋葬に尽力する。
埋葬地に建てた墓標を撤去させるなど、圧政の限りを尽くした極悪人の民生局監察兼断獄/久保村文四郎を束松峠で暗殺した。
その後に中原成業を名乗り、思案橋事件に参加。 享年50歳。
辞世の句 「ことあらば また魁ん国の為 わか魂を こゝに残して」
通称は、幸之進。 藩士/竹村助兵衛の長男。
山川大蔵 (後の浩) 指揮下の狙撃隊/隊長として奮戦、長命寺の戦いには参加せず、籠城戦に徹し防禦を固めた。
斗南藩に移住したが県官と対立し上京、祖母の墓が斗南の地にある。
思案橋事件には直接参加しておらず、処刑後に冤罪と判明。
享年33歳。
辞世の句
「白露と 消ゆる命はおしまねど なを思はるゝ 国の行末」
≪永岡久茂の墓≫
明治10(1877)年1月12日、鍛冶橋獄で最期をとげた。
称福寺 (台東区浅草今戸町) に葬られ、区画整理により源慶寺に改葬されたが、関東大震災や空襲のため墓石は行方不明とのこと。
大窪山墓地にも墓碑はある。
▲(新宿区富久町9-23)
妻/ミツ (美津) が建立した供養墓。 本墓は武家屋敷内。
高城は、佐々木只三郎の号。
鳥羽伏見の戦いで負傷し、江戸へ帰還の途中で死去。
高嶽は、只三郎の実弟/源四郎の号。
彰義隊として上野の戦い後、に邸宅を襲われ虐殺される。
賢浄院殿義岳亮雄居士 佐ゝ木高城
朽は津るかば弥能うえ尓草生へは
我がおふき美の駒尓は満せ夜
蓮池院殿清光日實居士 佐ゝ木高嶽
〜〜〜 高城妻美津誌
なお、只三郎の妻/ミツ (美津) は紀州藩出身。
戊辰後は、故郷に戻り再婚。
▲(台東区谷中3-10-22 Tel. 03-3821-0626)
諱は重信、字は實甫、号は寒緑。
松本一之丞の3男、儒官。
天保9(1838)年閏4月4日、江戸湾防備の調査で御蔵島沖を航行中、悪天候のため遭難した。 享年50歳。
石段途中の左側から富士塚へ入山、7合目にある。
明治2(1869)年に造られた模擬富士山が、第一京浜国道の建設のため大正11(1922)年に数10メートル移された際、同時に碑も移された。
▲(品川区北品川3-7-15 Tel. 03-3474-5575)
鳥羽・伏見、会津、函館などの旧幕臣/戦死者の供養塔。
商人/三河屋幸三郎が、別荘に建立したものを当寺に移築。
墓碑側面に近藤勇など97名と「神木隊二十八名」がある。
刻まれている名前の一覧は、こちら。
≪諏訪常吉≫
会津藩士。 仙台で組織し函館で奮戦した会津遊撃隊の隊長。
明治2年4月29日、蝦夷共和国/矢不来で負傷し、後に病院で死去。
墓は、函館/実行寺にある。
慶応4(1868)年5月15日の上野戦争/戦死者266体を寛永寺の境内 (現/上野公園) にて荼毘に付し、当寺に埋葬した。
その縁で、後に寛永寺黒門が移設されている。
生々しい無数の弾痕が、激戦を物語っている。
▲(荒川区南千住1-59-11 Tel. 03-3891-1368)
将軍/徳川慶喜の助命嘆願を目的に結成されたのだが、慶応4(1868)年5
月15日に上野/寛永寺で対峙した。
ここでも戦死者は埋葬が禁止され放置された。
後に、円通寺へ埋葬。
明治7(1874)年になって、ようやく墓碑が建立できてが、銘は「戦死之墓」と刻むことしか許されなかった。
碑文(712KB)
奮戦之図(140KB)
大戦争図(376KB)
正面に設置された「彰義隊戦死之墓」の小さな墓碑は、明治2(1869)年に寛永寺の子院/寒松院と護国院の住職が、戦死者を弔うため密かに地中に埋葬した墓碑である。
後に掘り出され、設置された。
▲(台東区上野公園)
寛永寺の根本中堂の境内にある。
碑文(567KB)
▲(台東区上野桜木1-14-11)
寛永寺の本坊にあった表門。
慶應4(1868)年5月15日、上野戦争が勃発し表門以外は全焼した。
が撃った小銃や大砲の弾痕が、数多く残っている。
関東大震災の後に、現在の地に移された。
▲(台東区上野公園14-5)
慶応4(1868)年5月15日、上野戦争の時に彰義隊を匿ったとして、が銃弾を浴びせかけた。
今でも、山門には弾痕が残っている。
▲(荒川区西日暮里3-2-6)
長賊らは、彰義隊の戦死者の埋葬はおろか、触れることさえ禁止した。
市村座主/高木秀吉は、擂鉢山の戦死者132体を秘かに荼毘に付し、8個の大水瓶に収め、乳虎隊 (後の龍虎隊→彰義隊) の時から交流のあった松平西福寺に埋葬した。
長賊らの破壊を免れるため、墓碑銘「南無阿弥陀仏」、台座に「供養塔」と表記せざるを得なかった。
大正6(1917)年の五十回忌法要を迎えるまで秘匿され続けた。
昭和4(1929)年、区画整理のため改葬された際、伝承通り遺骨の入った大水瓶が確認された。
天正2(1574)年、保科正之公の祖父/徳川家康が、静岡/大樹寺の了伝和尚を招いて、駿河国府中 (静岡市) に創建。
慶長13(1608)年、江戸駿河台へ移転し、大名待遇を受ける。
寛永15(1638)年、現在地に移る、
徳川家康の側室/於竹の墓がある。
JR板橋駅の東口 (滝野川口) の目の前にある。
細長い角柱で、状高さ3.6メートルもある。
明治9(1876)年、元隊士/永倉新八の呼びかけで建立された。
側面に殉難者の隊士名が刻まれている。
◇ 右側面
戦死者など39名
◇ 左側面
病死や変死など71名
≪近藤勇≫ 慶応4(1868)年4月25日、板橋刑場で斬首。 享年35歳。
「貫天院殿純忠誠義大居士」 天寧寺、龍源寺、法蔵寺に墓がある。
「貫天院殿純義
≪土方歳三≫ 明治(1869)年5月11日、五稜郭で戦死。 享年35歳。
「歳進院殿誠山義豊大居士」 「有統院殿鉄心日現居士」
石田寺、天寧寺、称名寺、円通寺、
碧血碑に墓がある。
向かって左側。
明治2(1869)年、建立。
百三十三周忌の平成13(2001)年4月25日に建立。
自然石の墓標。
境外墓地と寿徳寺山門脇の2か所に、同じ石版がある。
山門脇には、「新撰組隊長近藤勇菩提寺」の石柱も。
▲境外墓地 (北区滝野川7-1)
寿徳寺 (北区滝野川4-22-1 Tel. 03-3909-7766)
幼名は宗次郎、諱は春政 → 房良。
白河藩士/沖田勝次郎の長男として江戸屋敷で誕生。
新選組一番隊組長、撃剣師範。
文久3(1863)年、浪士組結成に加わり上洛。
京都の治安回復に尽力し、禁門の変では朝敵の撃退に活躍。
慶応4(1868)年5月30日、肺結核のため千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅で死去。 享年25歳説と27歳説がある。
辞世の句 「動かねば 闇にへだつや 花と水」。
「賢光院仁誉明道居士」。
墓碑は判読不可、沖田家累代之墓にも記載されている。
墓は非公開なのだが、年1回6月の沖田総司忌に一般公開され、墓参りの女性たちで溢れる。
沖田総司忌は 新撰組友の会が実施しているとのこと。
墓域に入る門の扁額が「涅槃城」とは、粋である。
▲(港区元麻布3-1-37)
常吉、弥一左衛とも。 桑名藩士/小河内殷秋の長男。
慶應4(1868)年1月の鳥羽伏見の後、5月の上野戦争に藩士を率いて参戦、9月に新選組へ入隊し、箱館戦争を戦う。
明治2(1869)年11月13日、桑名藩抗戦の責をとらされて切腹。
享年44歳。
「智勇院殿清誉忠誠義劔居士」。
三重/十念寺にも墓がある。
▲(江東区白河1-3-32 Tel. 03-3641-1523)
本名:稗田利八。 上総山辺郡田間村の商人/稗田佐五七の3男。
慶應3(1867)年6月頃に新選組へ入隊、鳥羽伏見で負傷し江戸に帰還。
同年3月の甲州戦争で再び負傷、会津に向かい6月に福良に逗留。
母成峠の戦いの後は、斎藤一たちと共に会津に残留し如来堂で戦死とされたが、久米部たちと脱出に成功する。
開城後は水戸/結城党と共に行動するが、10月に銚子で降伏。
回顧録「新選組聞書(稗田利八翁思出話)」を口述。
昭和13(1938)年1月16日、死去。 90歳。
新選組隊士として最後の生き残りであった。
門柱石には、「新選組池田七三郎事稗田利八之墓」とある。
「義選院法喜日利信士」。
▲(港区麻布台2-3-18 Tel. 03-3583-0678)
開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。
負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。
老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に詰め込まれ、担当した西軍の医者/英人ウルリスですら惨状をなげいている。
その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。
護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、
に、2,870余名が分散して収容・監禁された。
◇ 飯田元火消屋敷
330名
◇ 小川講武所 700名
◇ 一橋御門内御搗屋 250名
◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷 700名
◇ 神田橋御門外騎兵屋敷 250名
◇ 護国寺 314名
◇ 芝増上寺 (徳水院) 350名
◇ 麻布真田屋敷 若干名
その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。
手縄付きの護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。
御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、運よく治癒すると東京に移送された。
歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。
山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。
一人/米四合と銭150〜200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。
米も普通の米ではなく、総て南京米だった。
犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。
各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。
やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。
斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。