阿弥陀寺へ入り切れなかった藩士145名の墓がある。
東西1間半、南北3間、深さ4坪半の穴が3つ並べて掘られたが、すぐに一杯になったという。
さらに、墓碑の建立は許されなかった。
明治11(1878)年4月、墓碑の建立が出来きるも、10年ひと昔が過ぎたのに「殉難」の文字は許されず、「戦死墓」とだけの表記しかできなかった。
その姓名は、今なお分かっていない。
春の4月23日と、秋の9月23日の年2回、墓前祭が行われる。
それ以前にも、住職が無残な遺骸を見かね、密かに30数体を集め埋葬したとも伝えられている。 長賊らの知るところとなり、掘り起こして元の場所に放置するよう命じられたが、住職は頑として応じなかったという。
明治11(1878)年、旧会津藩士たちによって墓碑が建立された。
10余年過ぎても、墓碑名には「戦死者」の3文字以外 許されなかった。
埋葬地とは別に、壮烈な戦闘が展開された激戦地の1つでもある。
慶応4(1868)年8月29日、家老/佐川官兵衛率いる藩士は郭外に出て白兵戦に及んだ。
西軍が立て籠もる長命寺が、主戦場となった。
屍を乗り越え果敢に突入し一時は奪回したのも束の間、西軍の増兵により再び長命寺は奪われる。
「姓名」と「八月二十九日討死」と書いた紙を懐中に入れての出陣だった。
佐川官兵衛の父/幸右衛門も、息子の忠告を聞き入れず出陣、負傷し戦死した。
真っ赤な血に染まった下着には、墨文字で黒々と、
「慶応四年八月二十九日討死 佐川幸右衛門直道 生年六十三歳」
ど書かれていた。
出陣した約1千余名の内、1百名を超える者が散った。
戦死者については、こちら。
奪回できなかった佐川官兵衛は、城には戻らず城外にて戦い続けた。
結果として、城内への物資運搬ルートを、開城するまで確保し続けることになる。
慶応4(1868)年8月29日、"長命寺の戦い"があり、城下最大の激戦地の1つである。
当時の弾痕の残る塀は、昭和39(1964)年の新潟地震により崩壊が激しくなり、平成4(1992)年に修復された。 新しい壁にレプリカの弾痕を埋め込むなどして、忠実に再現しているとのこと。
白線の五條は最高の寺格を表すそうで、東北では3ヶ所しか許されていないとのこと。