慶応4(1868)年1月3日、戊辰の役、ぼっ発。
全会津の人口 | 240,000人 |
◇ 武士(家族含む) | 23,000人 |
◇ 村方・町方衆 | 155,000人 |
◇ その他 | 8,000人 |
◇ 南山御蔵入 | 54,000人 |
若松城下 | 39,000人 |
◇ 武士(家族含む) | 23,000人 |
◇ 若松町方衆 | 16,000人 |
江戸詰め | 1,600人 |
家臣数 | 4,500人 |
<知行取 : 670人> |
家老 |
田中土佐玄清 | 神保内蔵助利孝 | 萱野権兵衛長修 | 梶原平馬景武 |
上田学太輔兼教 | 内藤介右衛門信節 | 諏訪伊助頼信 | 一瀬要人隆知 | |
原田対馬種龍 | 山川大蔵重栄 | 佐川官兵衛直清 | 海老名郡治季昌 | |
西郷頼母近悳 |
↓ |
文久3(1863)年、会津藩の軍制を交流のあったフランス式に制定。
慶応4(1868)年3月10日、従来の長沼流を廃止し大改革を断行。
年齢別に編成し、農町兵を募集。
正規兵の部隊名は、中国の故事「方角の守護神」としての空想上の神獣とした。
◇ 朱雀隊 「南の守護神」であり、「夏、前、赤、火」も意味する。
◇ 青龍隊 「東の守護神」であり、「春、左、青、木」も意味する。
◇ 白虎隊 「西の守護神」であり、「秋、右、白、金」も意味する。
◇ 玄武隊 「北の守護神」であり、「冬、後、黒、水」も意味する。
さらに、身分の高い順に、士中隊、寄合隊、足軽隊に分ける。
士官/文官 | 200人 |
朱雀隊 | 1,200人 |
青龍隊 | 900人 |
白虎隊 | 300人 |
玄武隊 | 400人 |
小 計 | 2,800人 |
砲兵隊 | 300人 |
築城兵 | 200人 |
小 計 | 500人 |
正規兵計 | 3,500人 |
旧幕兵 | 1,500人 |
農民兵 | 4,500人 |
町民兵 | 2,000人 |
小 計 | 8,000人 |
総 計 | 11,500人 |
|
18歳から35歳までの藩士の男子で構成。
正規軍の主力部隊。
防衛体制は取らず攻撃を優先していたため、白兵戦では無類の強さを誇った。
佐川官兵衛が率いた四番隊は、最も恐れられた。
開城後も、悪逆非道を繰り広げていた長賊らは信じられないと、しばらく戦闘を続けている。
なお、西南戦争では真の官軍として奮戦し、戦死した。
総督:黒河内式部
朱雀士中一番隊 | 約100名 | 隊長:小森一貫斎 |
朱雀士中二番隊 | 約100名 | 隊長:田中蔵人、長谷川勝太郎 |
朱雀士中三番隊 | 約100名 | 隊長:上田八郎右衛門、原田主馬 |
朱雀士中四番隊 | 約100名 | 隊長:佐川官兵衛、町野源之助 |
朱雀寄合一番隊 | 約100名 | 隊長:井深守之進、一柳四郎左衛門 |
朱雀寄合二番隊 | 約100名 | 隊長:西郷刑部 |
朱雀寄合三番隊 | 約100名 | 隊長:城取新九郎、鈴木市郎右衛門 |
朱雀寄合四番隊 | 約100名 | 隊長:山田清介、蘆澤生太郎 ・ |
朱雀足軽一番隊 | 約100名 | 隊長:日向茂太郎 |
朱雀足軽二番隊 | 約100名 | 隊長:桜井弥一右衛門、間瀬岩五郎 |
朱雀足軽三番隊 | 約100名 | 隊長:原田主馬 |
朱雀足軽四番隊 | 約100名 | 隊長:横山伝蔵 |
( 総 勢 ) | 約1,200名 |
36歳から49歳までの藩士の男子で構成。
本来は国境の防衛隊であるが、朱雀隊に次ぐ正規軍の中核として各地で奮戦。
総督:黒河内式部
青龍士中一番隊 | 約100名 | 隊長:鈴木作右衛門、有賀惣左衛門 |
青龍士中二番隊 | 約100名 | 隊長:有泉寿彦 |
青龍士中三番隊 | 約100名 | 隊長:木本慎吾 |
青龍寄合一番隊 | 約100名 | 隊長:木村兵庫 |
青龍寄合二番隊 | 約100名 | 隊長:原 平太夫 |
青龍足軽一番隊 | 約100名 | 隊長:杉田兵庫 |
青龍足軽二番隊 | 約100名 | 隊長:諏方武之助 |
青龍足軽三番隊 | 約100名 | 隊長:蜷川友次郎、野村悌之助 |
青龍足軽四番隊 | 約100名 | 隊長:有賀左司馬 |
( 総 勢 ) | 約900名 |
16歳から17歳までの藩士の男子で構成。
当初は15歳からだったが、15歳は戦闘不向きとの理由で、16歳からとなった。
元々は警備隊で、士中隊は藩主の親衛隊、寄合隊は予備隊である。
悲劇を生んだ部隊は、士中二番隊である。
総督:黒河内式部
白虎士中一番隊 | 49名 | 隊長:春日和泉 |
白虎士中二番隊 | 42名 | 隊長:日向内記 |
白虎寄合一番隊 | 106名 | 隊長:原 早太 → 望月辰太郎 |
白虎寄合二番隊 | 67名 | 隊長:太田小兵衛 |
白虎足軽一番隊 | 79名 | 隊長:日向弥志□ |
白虎足軽二番隊 | 隊長:唐木助之進 | |
( 総 勢 ) | 343名 |
50歳以上の藩士で構成。
予備隊としての部隊。
強清水の戦い、一ノ堰の戦い、城下の戦いなど、城周辺で奮戦。
総督:黒河内式部
玄武士中一番隊 | 約100名 | 隊長:伊与田図書 |
玄武寄合一番隊 | 約100名 | |
玄武足軽一番隊 | 約100名 | |
玄武足軽二番隊 | 約100名 | |
( 総 勢 ) | 約400名 |
鳥羽伏見の戦いの時の大砲隊 (林隊と白井隊) 残兵を統合し改称、砲兵というより歩兵。
各地で転戦し、長命寺の戦いにも参加。
隊長:山川大蔵 → 日向内記 → 小原宇右衛門
砲兵一番分隊 | 約100〜50名 | 隊長:小原宇右衛門 |
砲兵二番分隊 | 約100〜50名 | 隊長:高橋源太輔 |
砲兵三番分隊 | 約100名〜 | 隊長:大沼浄之助 |
( 総 勢 ) | 約300〜100名 |
慶応4(1868)年創設。
陣地を構築する土工部隊。
元々は旧幕軍が徴募した江戸の鳶・石工・左官・土方などの組織。
長賊らには存在せず、戊辰の役後に工兵隊出身者は陸軍幹部に登用され重用された。
築城隊 | 約200名 | 隊長:安部井寿太郎 |
慶応元(1865)年4月に徴募にて編成。
白河の戦い、天寧寺の戦いで奮戦、その後は城外にて戦い続ける。
正規軍と同等に精強の軍隊。
戦後、隊長の野田進は教師となり、退職後は伊佐須美神社の禰宜となる。
会義隊 | 約70名 | 隊長:野田 進 |
慶応4(1868)年6月、山川大蔵に直属として、選び抜かれた狙撃名手で編成された精鋭部隊。
兵数は少ないが、籠城戦では度々 城外に出撃し、敵の指揮官を射殺するなど大活躍。
長命寺の戦いには参加せず、籠城戦に徹し防禦を固めた。
後に、隊長の竹村俊秀は思案橋事件の冤罪に巻き込まれる。
狙撃隊 | 約25名 | 隊長:竹村俊秀 (通称/幸之進) |
地方の郷士で編成。
一番隊から八番隊で構成され、正規軍と同等に精強の軍隊。
城下の戦いで奮戦。
陣将:原田対馬
奇正隊 | 約150名 | 隊長:杉浦大右衛門 |
慶応4(1868)年4月に編成。
百姓から選りすぐった屈強な農兵隊。
特に、中隊頭/杉浦丈右衛門 (後に戦死) 率いる杉浦隊は強かったという。
大内峠の戦い、青木関山の戦いを経て、長命寺の戦いにも参加。
正奇隊 | 約80名 | 隊長:相馬直登 |
慶応4(1868)年7月、新錬隊長/土屋鉄之助の進言により、士分 (独礼) に登庸しての編成。
8月3日、千人近い町人・農民たちの応募から選ばれ、一般徴募兵としても勇敢な部隊。
敢死隊と游軍隊・奇勝隊を合わせて100人ほどで、十六橋の破壊の任務を受けるも、堅固なため間に合わなかった。
8月23日の冬坂・赤井の戦いで隊長/小原も戦死、同月25日の小田山の戦いで壊滅。
敢死隊 | 約250名 | 隊長:小原信之助(新之助) → 川崎尚之助 |
慶応2(1866)年、新選組とは別に京都の治安維持と藩主護衛のため、藩士の次男・3男以下から、剣・槍・弓・馬術の内2つ以上の免許を持つ藩士の精鋭部隊「京都常詰先備甲士勤 (別選組、25名、甲士 = 士分)」として編成。 その後、60余名に増強される。
同時に支援部隊として京都日新館の書生 (生徒) 30名による「書(諸)生隊」も組織された。
鳥羽伏見の戦いでは、隊長/佐川官兵衛率いる170名が、徳川軍の最前線で斬込隊として大活躍し、攻め入ろうとする敵兵を撃退している。
まもなくフランス式の軍制改革に伴い解散したが、鶴ヶ城下で戦いが始まると再編される。
伝統の精鋭刀槍部隊として活躍するも、開城までに ほぼ壊滅。
別撰組 | 約40名 | 隊長:春日佐久良 |
僧侶出身者を中心とした一般徴募の民兵部隊。
猪苗代の戦い、赤井・笹山の戦いで奮戦。
奇勝隊と游軍隊・敢死隊を合わせて100人ほどで、十六橋の破壊の任務を受けるも、堅固なため間に合わなかった。
8月23日の城下の戦いで隊長/上田新八郎が戦死、25日の長命寺の戦いにも参加、市街戦では先頭に立った奮戦するも、開城までに半数以上が戦死。
奇勝隊 | 約250名 | 隊長:上田新八郎 → 坂内八三郎 |
慶応4(1868)年3月、正規軍の補完部隊として編成。
田島に布陣、領の南方、西方と大活躍。
城下の戦いでも、佐川官兵衛の支隊として奮戦。
進撃隊は、母成破れるの報で、城内にいた20〜35歳の兵を召集し、隊長/小室金吾左衛門で結成された部隊。
游軍隊と敢死隊・奇勝隊を合わせて100人ほどで、十六橋の破壊の任務を受けるも、堅固なため間に合わなかった。
長命寺の戦いで、隊長以下ほとんどの幹部が戦死、佐川官兵衛の部隊と合流した。
遊軍隊(進撃隊) | 約150名 | 隊長:小室金吾左衛門、武井柯亭 |
慶応4年6月、諸隊となる。
9月1日、大内峠/六石山の戦いで奮戦。
義勇隊 | 約80名 | 隊長:秋月新十郎 |
会津戦争の末期に徴募編成。
東部の領境で、民兵の遊撃兵として小グループで奮戦。
仙台藩の降伏と共に投降する者、名称を変え戦い続ける者、庄内へ向かう者など分散する。
神青龍隊 | 約140名 | 隊長:五十嵐喜平太 |
慶応4(1868)年、神青龍隊分隊の改称。
東部の藩境で、ゲリラ戦として奮戦。
7人は仙台にて降伏したが、一連隊として戦い続ける。
敬身隊 | 約35名 | 隊長:二瓶左内 |
新青龍隊分隊の改称。
東部藩境において、ゲリラ戦として奮戦。
仙台藩の降伏で3名が投降するも、他は個々人として開城まで奮戦を続けたと聞く。
赤心隊 | 約40名 | 隊長:仁科勇八 |
慶応4(1868)年5月に編成。
戸の口原の戦いでも奮戦するが、主に東部の藩境でゲリラ戦を展開。
仙台藩の降伏と共に、39名が投降、逃亡者も続出し消滅。
誠志隊 | 約180名 | 隊長:坂 平三郎 |
慶応4(1868)年2月、領内の山伏と修験者で組織された民兵隊。
朱雀士中四番隊に付属し、越後口の領境を守備。
修験隊 | 約80名 | 隊長:町野源之助 |
慶応4(1868)年5月、藩の有志で結成。
長命寺の戦いでは死を恐れぬ奮戦だったが、隊長/舟橋捨蔵を含む幹部のほとんどが戦死したため、生き残った兵士の合意で同日に隊を解散。
順風隊 | 約150名 | 隊長:舟橋捨蔵 |
徴募の遊撃隊で、一番隊から八番隊で編成される。
特に、城下の戦いで大活躍。
新隊 | 約200名 | 隊長:坂 平三郎 |
慶応4(1868)年5月、彰義隊の支援隊として会津藩士の有志で編成。
その後、会津へ戻り、領境や城下の戦いで奮戦。
開城後、一部の隊士は蝦夷地に転進。
信意隊 | 約80名 | 隊長:武川兵部 |
慶応4(1868)年6月、一般徴募の民兵部隊として編成。
9月4日、阿賀野川北側山地の長窪大谷間で奮戦。
その後も、開城まで戦い続ける。
新撃隊 | 約70名 | 隊長:天野由次郎 |
慶応4(1868)年閏4月、地方下人の子弟で編成。
国境の防衛隊だったが遊撃部隊となり、日光口の三斗小屋・中峠で奮戦、兵力の3分の1を失う。
城下の戦いでも敵の補給路を断つなど奮戦し、開城まで戦い続ける。
新練隊 | 約380名 | 隊長:土屋鉄之助 |
慶応4(1868)年8月25日、城に入った13〜15歳 (白虎隊より年少者) の少年有志で編成。
城内の守備を行ない、開城まで奮戦。
後に第6代大阪市長を務めた池上四郎の兄/三郎も加入し、籠城戦を戦いぬいた。
中軍護衛隊 | 約50名 | 隊長:西郷寧太郎 <隊士> |
慶応4(1868)年6月、寄合組の有志で編成。
8月5日、阿賀野川左岸の戦いなど北越戦で奮戦。
別楯隊 | 約70〜120名 | 隊長:関 清之進(清之助) |
慶応4(1868)年1月、藩士と農兵50名で編成された農兵隊。
4月12日から、幕軍/大鳥圭介の後軍として行動する。
日光、田島、檜枝岐などに転戦し、開城まで奮戦。
開城にて解散するも、隊士の多くは他の地で戦い続ける。
別伝習隊 | 約70〜80名 | 隊長:工藤衛守 |
慶応4(1868)年7月に編成。
9月1日、義勇隊と共に大内峠の戦いに参加し、大内峠/六石山で奮戦。
一ノ堰の戦いでは、奮戦するも多くの死傷者を出す。
報国隊 | 約60名 | 隊長:不明 |
慶応4(1868)年2月、横山主税の指揮下の部隊として編成。
各地で奮戦するも開城にて、諏訪常吉ら70人は会津を離脱。
仙台にて会津遊撃隊を結成し、蝦夷に向かう。
松前の戦いでは城を攻め落とす戦果をあげ、函館でも奮戦。
遊撃隊/会津遊撃隊 | 約180名 | 隊長:遠山伊右衛門 / 隊長:諏訪常吉 |
慶応4(1868)年2月、藩内の力士を徴募して編成。
白河城、石筵口、赤谷口の戦いなど各地で奮戦。
激しい雷雨の中での角石原の戦いは、壮絶な白兵戦が繰り広げられ、組頭/赤埴平八など死傷者が続出した。
力士隊 | 約150名 | 隊長:田中源之進 |
慶応4(1868)年4月、和銃武装した猟師を中心に今市で編成。
茶臼山の戦い、今市の戦いなど、地の利を得て奮戦。
7月28日の戦いでは、宝珠山を占領している。
その後も、赤谷口の戦いなど各地の山岳戦で奮戦。
猟師隊 | 約120名 | 隊長:松田英之助 |
14歳から15歳で編成。
士中、寄合一中隊で構成。
城下で戦うも、多くが戦死。
年少隊 (幼少隊) | 約100名 | 隊長:井上丘隅 → 安部井登 |
南会津 (南山地区) で編成された農兵隊。
蘆名時代に会津四家の1つであり伊南地方を支配していた河原田氏や、伊南地方を支配していた山ノ内氏、山ノ内氏の一族/沼沢氏が、容保の許しを得て編成。
かつて伊達軍を撃退した末裔の旧主従関係から団結心は旺盛で、伝習隊士の大木鈴太郎と中川七之助の助力で軍事訓練を受け、正規の精鋭部隊に劣らない強さを発揮し、敵兵を撃退し続けた。
9月22日の鶴ヶ城/開城を知らず、同月25日まで戦い続けている。
[戦況]
山ノ内大学隊 | 251名 | 隊長:山ノ内大学 |
河原田精神隊 | 不明 (約2百名) | 隊長:河原田治部(信盛) |
沼沢出雲遊撃隊 | 不明 (約2百名) | 隊長:沼沢七郎 |
慶応4(1868)年4月に編成。
本隊は、白河口の戰い、強清水の戦いなどで奮戦。
金田率いる分遺隊 (約30名) は水戸の結城党と共に行動し、片貝の戦いなどで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
義集隊 | 約80名 | 隊長:辰野源左衛門、分遺隊長:金田百太郎 |
慶応4(1868)年2月、傭兵部隊として編成。
新撰組の久米部正親(猪野忠敬)、稗田利八(池田七三郎)、吉田俊太郎、梶谷隣之助などや、凌霜隊の野田弥助も加わっている。
3月から越後・三条に布陣、8月27日には只見川の陣ヶ峰にて奮戦。
水戸の結城党と共に行動し、片貝の戦いなどで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
新遊撃隊 | 約100名 | 隊長:佐藤織之進 |
慶応4(1868)年7月、内藤介右衛門下の八隊のうちの一隊として編成。
白河口の勢至堂を守備。
白河口の戰いにも参加、その後、各地に転戦する。
分遣の金田隊は、水戸の結城党と共に行動し、片貝村の戦いで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
勇義隊 | 約50〜80名 | 隊長:佐藤義之助 (佐瀬とも) |
白河口の戰い、只見の戦い、城下でも奮戦。
水戸の結城党と共に行動し、片貝の戦いなどで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
純義隊 | 約100名 | 隊長:小池周吾 |
慶応4(1868)年4月中旬に編成。
5月3日、水戸藩結城党と共に越後/片貝村の戦いで奮戦。
その後、金倉山 (山古志村) などの各地に転戦するも、8月には隊士の3割が戦死、4割が負傷したため隊としては消滅。
鎮将隊 | 約200名 | 隊長:萱野右兵衛 |
女隊 (おんなたい)、婦女薙刀隊、婦子隊、婦子薙刀隊とも。
正規の隊ではなく、有志の女性によって編成された一隊で、当時は女隊と呼んでいたようだが、後には「婦女隊」 と呼ばれることが多い。 「娘子軍、娘子隊」とは、あまりの勇敢・奮戦ぶりに見舞われ恐れ慄いたが名付けた隊名である。
涙橋辺りで敵と遭遇し薙刀で奮戦するも、中野竹子は銃弾に倒れ、妹が介錯している。
その後、鶴ヶ城に入り、籠城戦の支援をする。
婦女隊 | 約20名 | 隊長:一応、中野竹子としておく |
越後久田山、片貝村、加茂、谷沢などを転戦。
隊長/渡部英次郎は、柳土手の戦いで戦死。
結義隊 | 約130名 | 隊長:渡部英次郎 → 井上 |
慶応4(1868)年3月に編成。
城下の戦いで奮戦。
融通寺口の戦いでは、数度も長賊らを撃退している。
歩兵隊 | 約80名 | 隊長:辰野源左衛門 |
慶応2(1866)年、別撰組の支援部隊として京都日新館の書生 (生徒) 30名で組織。
翌年、昌平坂学問所(昌平黌) の遊学生と、江戸日新館/書生の「江戸大砲隊」と合流。
鳥羽伏見の戦いで奮戦、その後は各々が各隊に編入、一部は幕府軍に加わる。
負傷し江戸で死去した山本八重の弟/三郎は、この隊員。
水戸藩の諸生隊とは無関係。
諸生隊 | 約80名 | 隊長:相馬孫市 |
本校の日新館の書生で組織された同じ名の隊。
すぐに 「第二遊撃隊」 に改称し、越後の飛び地を防衛する。
諸生隊 → 第二遊撃隊 |
約80名 | 隊長:井深宅右衛門 |
文久3(1863)年3月12日夜半、残留を望む近藤勇ら浪士組17名の会津藩預りが決まる。
同月15日、追加参加を併せ浪士組24名が正式に会津藩預りになり、壬生村に屯所があったことから「壬生浪士組」と改称。
「誠忠浪士組」の名称は、隊旗「誠」から後世に創作されたもの。
その後、体制作りが進められ、組士/200名を超える。
元治元(1864)年8月、会津藩から「新撰組」の名称が贈られる。
「新撰組」の名は、会津藩に存在した警備部隊の名前から取った。
「新選組」の名称も、近藤勇などが書簡で両方 使用している。
当サイトでは、出典 (含/伝承) により使い分けている。
慶応 3(1867)年6月、幕臣に取り立てられるまで会津藩の一員。
新撰組 | 200名超 |
この他にも、「精義隊」など領内の農民たちが、数多くの義勇隊を結成し道義を貫いた。
秋月登之助隊 | 衝鉾隊 | 幕臣/古屋佐久左衛門 | 約900名 | 母成峠の戦い後は蝦夷へ渡り、蝦夷共和国を創立する。 留まった部隊も鶴ヶ城の開城後は蝦夷へ渡り、蝦夷共和国として戦う。 《田島陣屋で再編成》 |
伝習 第一大隊 |
副長:土方歳三 | 約700名 | ||
七連隊 | 幕臣/大沢顕一郎 | 約350名 | ||
別伝習隊 ・御料兵 |
隊長/工藤衛守 (会津) | 約200名 | ||
(回天隊) | (幕臣/相馬左金吾) | (約100名) | ||
神風隊 | 桑名藩/町田老之丞 | 57名 | 開城後は蝦夷地に渡る | |
雷神隊 | 桑名藩/立見鑑三郎 | 75名 | 柏崎領地から鯨波の戦いを経て会津藩と共に北越戦争を戦う。 開城後は庄内藩と共に寒河江で戦う | |
致人隊 | 桑名藩/松浦秀八 | 65名 | ||
大砲隊 | 桑名藩/梶川弥左衛門 | 47名 | ||
大鳥圭介隊 | 伝習 第二大隊 |
参謀/柿沢勇記(会津) 浅田光蔵 |
約600名 | 母成峠の戦い後は蝦夷へ渡り、蝦夷共和国を創立する。 |
誠忠隊 | 幕臣/山中幸治 | 約400名 | ||
純義隊 | 幕臣/渡辺綱之助 | 約50名 | 幕府・仙台藩客兵。 宇都宮〜日光を経て会津にて奮戦。 《主な隊士》 | |
徼震隊 | 幕臣/和田久太郎 | 約60名 | ||
工兵隊 | 約300名 | |||
貫義隊 | 幕臣/松平兵庫頭 | 約100名 | ||
草風隊 | 幕臣/織田対馬守 村上求馬 天野花陰 |
約150名 | 《主な草風隊士、小柴小次郎》 | |
伝報隊 | 幕臣/甘利徳太郎 | 数十名 | 宗道村の村名主/手代15人が、会津援軍の参加を申出る。 《主な隊士》 | |
黒鍬隊 | 幕臣/小菅辰之助 | 約200名 | 江戸の鳶職・石工・左官・土工で編成 | |
靖共隊 | 幕臣/芳賀宜道 永倉新八 |
約100名 | 新撰組の永倉派で編成 | |
聚義隊 | 越後人/松宮雄次郎 | 約40名 | 西蒲原郡の侠客で編成 | |
凌霜隊 | 郡上八幡藩/朝比奈茂吉 | 約45名 | 幕軍配下 北関東を経て会津へ入る | |
その他の援軍として、 ◇ 江戸火消の一団を引き連れて籠城戦に加わった岩崎鎌蔵 (孫が俳人/篠田悌二郎) ◇ 門弟の飯野藩士28名 (3男/寅雄や野間銀次郎たち) を引き連れた森要蔵 など、個々人の参加も多数。 |