通称:富次郎。 広沢庄助の子。 戊辰の役では、江戸に残留し長賊らと交渉するも、話しを聞くどころか即残に投獄される。 元薩摩藩/大久保利通から政府要職へ幾度となく招聘されるが、裏切った薩奸の言葉など信じられないとし、「野にあって国家に尽くす」と固辞、洋式牧場の発展に生涯を尽くす。 明治24(1891)年2月5日、東京にて死去。 享年62歳。 墓碑名は、「廣澤家祖先之墳墓」。 本墓は、三沢市高野沢の元/広沢牧場の地にある。 |
澤田鉄左衛門
. 熊蔵の父。
慶応4(1868)年8月23日、糠塚裏で戦死。
76歳。 「心釼院忠誠一翁居士」。
墓誌には、「澤田鉄右衛門 七十九才」。
澤田治助 熊蔵の兄。
青龍足軽隊/嚮導。
戊辰(1868)年9月20日、鶴ヶ城内で戦死。
51歳。 「釼照院義英賢光居士」。
軍事方世話役。
戊辰(1868)年9月18日、鶴ヶ城内で戦死。
通説の「8月16日」は間違い。
「教誓淨證信士」。
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戊辰殉難 木村一族之墓 .≪木村兵庫≫青龍寄合一番隊/中隊頭。 慶応4(1868)年6月24日、棚倉/郷戸の戦いで負傷。 8月23日、治療中の自宅にて家族8人と自刃。 39歳。
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傍らに一族と共に殉じた女中の「忠婢清女之墓.」があり想いが深まる。
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名:成義。
上田隊。
慶応4(1868)年1月5日、鳥羽で戦死。
17歳。
京都黒谷に慰霊碑がある。
明治36(1903)年7月に建立。.
松平容大公の筆による。
鈴木為輔大賄役。 青龍寄合一番隊。川村三介とともに、捕虜の土佐藩の人足/作吾を案内人として、降伏の使者を務めた。 [略歴] |
▲(会津若松市蚕養町8-1 Tel. 0242-22-4032)
・法華寺については、こちら。
惣五郎常利の子、良助の父。
宝蔵院流槍術師範。
和歌にも長じており、和学所師範でもあった。
慶応4(1868)年8月23日、桂林寺町で戦死。 67歳。
戦後に長男や門人たちが遺体を捜すも見つからず、菩提寺に遺詠を埋め、旧邸内の庭石を運び遥拝石にした。
門人/星暁邨は、終生、8月23日の供養を怠らなかったという。
「晧月院覺譽涼齋居士」。
墓は大窪山墓地、顕彰碑が諏方神社にある。
自宅近くの桂林寺町口郭門で、敵兵1人を十文字槍で仕留めるも、銃弾を浴び戦死した。
槍先には、一首の歌が結び付けられていたという。
弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花
後の教科書「修身」に常方の歌が載り、全国的に知られることとなる。
君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里
慶応4(1868)年4月23日、下野/壬生で負傷。
同月27日に日光で死去。 (宇都宮の戦いで負傷したとも)。
墓碑は「四月廿三日」とある。 36歳。
会津藩士であるが、大鳥圭介軍 (伝習第二大隊) の参謀であった。
別称は、森三之丞。
「厚源院釋清耀居士」。
日光市の観音寺にも墓がある。
一族の墓域は手入れがされておらず、雑草に覆われている。
先祖墓「勇八」「源右衛門」などあるが、唯一の子孫「柿澤任墓.」には、勇記の孫である母の実家/柿澤家に世継がなかったため名乗った、とある
慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
34歳。
大橋源蔵
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常行の3男。
慶応4(1868)年8月23日、天寧寺町口で戦死。
20歳。
大橋愛助
常行の5男。 鈴木佐内の家来。
慶応4(1868)年8月23日、天寧寺町口で負傷し、9月8日に死去。
(ただし、戒名に「義」がない)
18歳。
河井善順
天保7(1836)年〜明治26(1893)年8月20日
名:順。 別称:智海。
真龍寺の8世/善教の子として誕生。
子のない長兄の養子となり、真龍寺の10世/住職となる。
19歳で越後での遊学を経て、京都/西本願寺の学寮に入る。
会津藩が京都守護職に就くと、藩士たちと交流するようになる。
禁門の変が勃発した年、修業をしていた京都/西本願寺に、敗走し逃げ込んできた朝敵/
長賊を、仏道の身として会津藩に懇願し匿った。
後に西本願寺の大講義の職に就く。
戊辰の役では、開城の際にとの会談を取り持ち、山川健次郎や小川傳八郎(亮)を人質として預けることなど降伏条件の仲介をした。
その後は、北海道を含む布教活動など、宗派の発展に尽力。
▲(会津若松市行仁町12-53 Tel. 0242-22-4526)
・真龍寺については、こちら。
大塚周英 姓:安東。 御医師。 出陣の際に大塚を名乗る。 慶応4(1868)年6月2日、越後で戦死と伝わるが、 墓石には、7月24日に越後水原とある。 40歳。 「進学院勇譽貫日居士」 大塚墓地内にあったが、整理された模様。 昭和50(1975)年、新たに建立された墓に合祀か? |
山室鉄三郎
.
卯之助の子。 別撰組/佐川隊。
慶応4(1868)年1月5日。鳥羽で戦死。 28歳。
「明治元年正月四日 喚譽得忠居士」
山室鉄蔵
卯之助の倅。 右筆上席。 青龍士中三番隊/木本隊。
慶応4(1868)年9月、飯寺で負傷し、10月27日に死去。 36歳。
「明治元年十月廿七日 勇譽義消居士」
相田和吉
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橘四郎の伜。
朱雀寄合二番田中隊。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺裏で戦死。
18歳。
宗川茂弘 名は勇之進。 藩の儒学者。 後に「余市開拓の父」と称される。 戊辰の役では老齢ながら容保の側近く仕え、非はにあり、「会津藩には何ら咎はない」 と励まし続けたという。 墓には記載なし。 経歴については、こちら。 |
並んでいる3基の中央の墓石。
慶応4(1868)年8月26日。天神橋で戦死。
所属部隊や享年など詳細不詳。
墓には、「義達院清身居士」と刻まれている。
▲(会津若松市馬場本町2-6 Tel. 0242-22-6802)
中野平内忠順
. 文化7(1810)年〜明治11(1878)年9月13日 名:忠順。 号:磐水。 江戸常詰勘定役 (納戸役)。 書法/持明院流の師範。 中野竹子・ 優子の父。 江戸常詰だったため会津には家がなく、米代二之丁の遠縁/田母神兵庫の書院を借りて住む。 中野こう子 (孝子) . 足利藩士/生沼喜内の娘。 中野平内に嫁ぎ、竹子・優子など3子をもうける 娘など総勢20名ほどで婦女隊を結成 (指図役)。 [逸話] |
・町野おきと | 47歳 | (主水の母) |
・町野おやよ | 24歳 | (同/妻) |
・町野おなお | 7歳 | (同/娘) |
・町野源太郎 | 3歳 | (同/伜) |
・町野ふさ子 | 31歳 | (同/姉) |
慶応4(1868)年閏4月24日、越後/三国峠で戦死した。
享年17歳。
長槍をふるって単身敵陣に突入し奮戦するも、銃弾を浴び壮烈な戦死であった。実質的な自刃であった。
白虎隊初の戦死者であり、郡奉行/町野源之助 (後の主水) の実弟。
墓は、群馬県の旧/新治村 (みなかみ町)。
碑は、小出島陣屋跡。
藩主の京都守護職に随行したが、桑名藩士と口論となり2人を斬った。
その咎で入牢させられていたが、蛤御門の変が起きたとの報を聞き、牢を破って参戦し勇名を挙げるなど、豪快な人物であった。
越後小出島の奉行任命時に、随行していた弟の久吉を失っている。
戦後は、戦死者の埋葬の交渉に奔走した。
大正12年6月9日没。 享年85歳。
倅/武馬の墓が隣にある。
英淳とも。 医師。
朱雀士中四番隊/町野隊付。
慶応4(1868)年9月5日、小田村で自刃。
51歳。
月割。
慶応4(1868)年8月15日、赤谷で戦死。
43歳。
「慈光院常譽忠勇居士」。
▲(会津若松市大町2-7-45 Tel. 0242-22-4320)
・融通寺については、こちら。
野出蕉雨
. 本名/善次、通称/平八。 京都では小森砲兵隊に所属、戊辰の役では白河口や三の丸で奮戦。 戦後は近代を代表する日本画家となり、会津能楽にも貢献。 陶祖廟にも画がある。 昭和17(1942)年没、享年96歳。 |
慎吾、清俊とも。 権三郎の伜。
機械方。
慶応4(1868)年7月27日、越後/水原で戦死。
20歳。
「忠良院勇讃道悟光居士」
独礼。 進撃隊/小室隊。 .
慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死
37歳。
「勇諦院争戦道照居士」
白虎足軽隊/古川深松は、慶応4(1868)年8月23日に城下へ乱入したを迎撃するも被弾し、入城は叶わぬとして当寺で自刃したのだが、埋葬場所・墓石は不詳。
▲(会津若松市相生町2-18 Tel. 0242-22-3245)
・自在院については、こちら。
[ 続 き ]
[閑話]
[遺命]
[長賊らの悪行の数々]