郭外と郭内には、石垣および土塁で仕切られ、外濠がめぐらされていた。
郭内が武家屋敷、外側が町屋敷と定められ、16ヶ所の門が設置されていた。
郭内の内側は、さらに内濠を有している。
唯一、現存する石垣。
向かい側の対の石垣は、明治4(1871)年に取り壊された。
大手門として最重要郭門であり、高石垣で厳かであった。
郭門跡については、こちら。
▲(会津若松市栄町4)
慶応4(1868)年8月23日、雨が降り続く中、滝沢峠方面から砲音がする。
やがて、滝沢本陣を引き払った藩主/容保が到着した時には、すでに戦いが始まっていた。
城下町には、在宅していた老人たちだけで、主力兵は藩境警備に就いており不在だった。
近くに住む年寄りたちが、手槍を携えて続々と集まってくる。
銃を持つ者は極めて少なく、武器は刀槍だけであった。
城門前に畳を積み胸壁とするも、銃弾は難なく貫き、防禦の役には立たなかった。
老人たちは、躊躇することなく、敵に向かって突進する。
白兵戦に驚愕し狙撃体制をとった西軍の銃弾を浴び、死傷者が続出するも、ひるむ者はおらず仲間の屍を乗り越え、次々に突入していった。
戊辰の役でも、凄惨で悲壮な最大の激戦地の一つで、数多くのお年寄りが戦死した。
一時は奪われるも奪回し、9月23日に開城するまで守り通している。
鰻のえびや、吉田菓子舗の辺りだが、遺構は何もない。
戊辰の役の時は、締め切って開門することはなかった。
郭門から北へ向かう馬場町は問屋が軒を連ね、裏通りには塗職人などの職人が住んでいて、商業の町であった。
黒川城/蘆名氏の時代の大永5(1525)年に発生した大火記録にも、すでに馬場町と呼ばれていた。
▲(会津若松市馬場町)
ホテル ニューパレスの前に、石柱がある。
郭門から北へ向かう大町は、油屋や荒物屋、茶屋などが軒を連ね、商業の中心地であった。
▲(会津若松市中町)
圧倒的な兵力で西軍は攻めてきた。
青龍隊の約100人で果敢に戦いを挑み西軍を退けたが、川原町口や融通寺町口へ大半の兵を援軍に出さざるを得なくなった。
少ない兵で善戦するも死傷者が相次ぎ、撤退することとなる。
当時を物語る遺構は、何もない。
▲(会津若松市本町 石田眼科の南側辺り)
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割で大町へ移転する前に、融通寺があったことから。
戊辰の役で灰塵に帰したため、再び栄えるようにと「栄町」になったが、昭和40(1965)年、一部を残し「本町」となる。
一時、蘆名氏の居館があったことに由来する。
当時を物語る遺構は何もない。子供のころ(昭和30年代)は、衣料品店が多く、"呉服町"とも呼ばれていた。
▲(会津若松市本町 食堂/三角屋の前辺り)
≪諏訪社の戦い≫
慶応4(1868)年9月14日午前8時、西軍が圧倒的な兵力で動く。
小田山を占領していた敵/砲兵隊の砲撃を合図に、各方面から攻撃を始めた。
前日の雨天のため、鶴ヶ城総攻撃は1日延期されていた。
諏方社には堅固な胸壁が築かれており、前面には外堀がある。
防御は万全で、敵は為すすべがなかった。
しかし、大町口からの敵兵によって、背後を突かれることになった。
この機に乗じた敵兵を、桂林寺町口からの侵入を許すに至る。
諏方社に布陣していた小山田伝四郎隊は、果敢に防戦する。
やがて、融通寺町口も突破される。
指揮官/田中源之進は、城内への撤退を命じた。
退去命令を受けた猛将/佐川官兵衛は、負傷者だけを帰城させ、この郭門に残った。
ここに土塁を築き本営とし、最後まで戦った。
群上藩凌霜隊は、この郭門より入城している。
▲(会津若松市川原町 くすの木薬局の西側辺り)
当時の遺構は残っておらず、面影さえない。
子供の頃から角地にあったガソリンスタンドも、平成22(2010)年になくなった。
市営/米代団地6棟の南側辺りで、今はない諏方通りの南端にあった。
蒲生氏郷公の時代に、お花畑があったことから。
戊辰の役では、新練隊/土屋鉄之助が開城するまで護り切っている。
当時の遺構は残っておらず、面影さえない。
▲(会津若松市米代)
昔の大町通り (現/国道118号) の南端にあり、郭外の南町に通じていた。 昔を偲ばせる十八蔵橋跡も、最近の道路拡張で片側しか残っていない。
近くに日新館や、山本覚馬・八重子の屋敷があった。
▲(会津若松市城南町〜米代)
高石垣で厳かであった。
熊野口郭門の西側で、現/会津日石GSの南側辺り。
蒲生氏郷公の時代に、讃岐という人の屋敷があったことから。
通常は、閉じられていたという。
▲(会津若松市城南町)
天神橋の北端、豊岡墓地の南西辺り。
天神橋口とも呼ばれ、高石垣で厳かであった。
熊野神社などの神社仏閣があり、富岡神社に築かれた砲台から小田山の敵/大砲へ応戦し、一時は破壊・沈黙させた。
戊辰の役での激戦「天神橋の戦い」の地。
▲(会津若松市城南町)
≪天神橋の戦い≫
慶応4(1868)年8月23日、主力部隊不在の城下に怒涛の如く押し寄せたは、藩境の守備をしていた主力部隊が帰城する前に、何としても落としたかった。
味方と思わせ裏で寝返っていた卑劣極まりない裏切り/三春藩は、熊野口と呼ぶ南側が防御面で城の弱点と進言する。 は、対岸の静松寺墓地内に大砲を据え終ると、密かに湯川を渡り、熊野口の南門から三の丸への侵入を図った。
が偵察していることを察知していたものの、兵士の余力はなかった。
急きょ、役人、文官、学者、使役人など38名をもって、守備隊を結成した。
が南門に近づいた時、門を開き、たまたま滞在していた水戸藩脱藩者も加わり80余人が槍を携えて一気に突入した。
突然の白兵戦に驚愕し混乱したは、次々に槍の餌食となった。
しかし、文官などの速成部隊の悲しさ、逃げ惑うを深追いした。
対岸からの狙撃兵の一斉射撃を受け、渡川中では隠れる場所もなく、多くが戦死した。
湯川は敵味方の屍で、真っ赤に染まったという。
その後、執拗な攻撃に対しても鶴ヶ城の守りは堅固で、開城をするまでの1ヶ月もの間、籠城戦が続くことになる。
市営陸上競技場の南側、文化福祉センターの北東の土手辺り。
小高木村の名からで、蘆名直盛公が築城した当初は、小高木城、小田垣城、黒川城などと呼ばれていた。
郭外には、100〜150石取りの武士の屋敷があった。
▲(会津若松市追手町)
風雅堂正面玄関の南側辺り。
名称は、青木小田村の宝積寺に通じていたことから。
通常は閉じられていた (不明門) ため、「不開門」と呼ばれていた。
▲(会津若松市城東町)
わずかに現存している土塁の遺構の南側辺り。
土塁の遺構は、国指定史跡。
郭門については、こちら。
▲(会津若松市花春町)
慶応4(1868)年8月22日、御霊櫃峠に布陣していた第一砲兵隊頭/小原宇右衛門は、石筵口の敗報を受け安達郡/只野村に布陣の三番分隊も呼び集め猪苗代へ向かう。
峠を下ると猪苗代は兵火に包まれており、十六橋も突破され敵軍が戸ノ口原に至るとの報により鶴ヶ城へ引き揚げることを決断する。
大野原には敵兵がいたため本道を避けて山道を進むが、昨夜の台風により道はぬかるみ、大砲などの重機運搬に難儀する。
院内村に至ると、すでに城下は戦場と化し、天寧寺口郭門も敵兵に占拠されていた。
主君を助けるべく全軍に命じ、死を賭して郭門に突撃する。
左右の郭門の土堀から雨のごとく降り注ぐ敵兵の弾丸をものともせず、屍を乗り越え郭門を突破し郭内に入るが、簗瀬邸・三宅邸・田中邸に隠れて乱射される敵弾を受け、隊長/小原宇右衛門が神保原橋上で斃れ、助けようとして弟/魁も斃れるなど士卒の死傷が相継ぐ中、隊士/大塚録四郎 (18歳) は宇右衛門を介錯し首を携えて、三ノ丸埋門から城門に入る。
国境防備の中で最も早い帰城兵ではあったが、隊長や嚮導/多賀谷勝次郎たち 20名とも、27名とも、30余名とも、の戦死者を出した。
県立病院の北西側辺り。
大手が甲賀町口になって以降は、閉じられていた (不明門)。
▲(会津若松市徒之町)
県立会津工業高等学校の正門前辺り。
町名は、3の付く日に市が立ったことから。
▲(会津若松市徒之町)
穴澤病院の西側、元/梅屋敷(現/駐車場)の辺り。
町名は、6の付く日に市が立ったことから。
家老/田中土佐、家老/神保内蔵助は、近くの藩医/土屋一庵邸で、郭門を奪われた責で自刃している。
▲(会津若松市宮町)