秀吉の傘下に入っていた蘆名氏を許可なく攻め、領地を奪った伊達政宗公に対して、黒川城 (鶴ヶ城) 城下の興徳寺にて奥州仕置が行われる。
政宗公を米沢城に転封とし、会津には蒲生氏郷公が入ることとなる。
最上氏などへの裁定も行われ、秀吉の日本統一が、会津の地にて達成された。
太閤検地令は、宿泊に使っていた興徳寺にて発せられた。
・統治 8年間 = 天正18(1590)年〜慶長3(1598)年
・石高 赴任時は、42万石
翌年に加増され、92万石
会津 + 蒲原、仙道、長井、苅田、塩谷
(徳川家康・毛利輝元に次ぎ、全国第3位の大名)
☆ 在任 天正18(1590)年〜文禄4(1595)年
略歴については、こちら。
日野城主/蒲生賢秀の嫡子として生れる。
織田信長は、人質として到着した氏郷公を見て、一目で才能を見抜いたという。
即座に、娘/冬姫を与える約束をしている。
信長の死後は、羽柴秀吉に仕えた。
それまでの名「賦秀」の「秀」が、秀吉と同じ字で、かつ下にあることを遠慮して、天正13(1585)年に「氏郷」へと改名している。
その後の軍功や、松坂の築城および城下町造りの手腕が認められ、天正18(1590)年に会津藩42万石 (翌年に92万石) を与えられた。
新たな城下町の改造に着手、
城代十四衆を配し、多くの功績を残した。
名を「黒川」から「若松」に改めた。
出生地の日野城に、蒲生氏の氏神である馬見岡綿向神社がある。
その参道にあった「若松の杜」からとったと言われている。
(※ 小さな松の木が群生していた景勝から既に呼ばれていたとの説も)
天守閣を七層に改修し、幼名/鶴千代と家紋/雌雄の立鶴から「鶴ヶ城」と名付けた。
紋は、後に蒲生家の祖/藤原秀郷の左三つ巴にかえている。
天守閣の瓦を焼くのに連れて来た焼物師から本郷焼が生れる。
旧領の日野や松阪から、多くの商人や職人を連れてきた。
定期的に開く市の開設や、楽市楽座 (十楽) を導入するなど城下町作りにも注力した。
会津塗などの特産品へとつながり、会津藩発展の礎を築いている。
利休七哲の筆頭と言われるまでの茶人でもある。 「蒲生、織田、豊臣、徳川、前田」だけに許された「天目茶碗」を焼く窯を、大塚山に築いている。
千利休が切腹した後、女婿(養子)/少庵を会津の地で預かっている。
少庵の子孫により、表千家、裏千家、武者小路千家へとつながる。
前の藩主/伊達政宗公は、16歳の刺客を送り込んだが、関所で捕えられた。
それを知った氏郷公は、「忠義、天晴れ」として、打ち首を許し解き放した逸話も残っている。
・弘治2(1556)年
〜文禄4(1595)年2月7日(京都伏見の蒲生屋敷にて死去、享年40歳)
・別称 幼名/鶴千代、初名 (元服名)/賦秀 (教秀
通称/忠三郎、飛騨守、琉球守、渾名/麒麟児
・父 蒲生賢秀
・母 於きり (後藤播磨守の娘)
・正室 冬姫 (相応院、織田信長の次女)
・子 籍姫 (前田利政へ嫁ぐ)、氏俊 (長男、廃嫡)、秀行公 (嫡子)
・養女 三の丸殿 (韶陽院、織田信長の6女、豊臣秀吉の側室)、
源秀院 (於武、南部利直の正室)
・兄弟 兄/氏信、兄/氏春、弟/重郷、
妹 (家臣/布施忠兵衛に嫁ぐも、再び家臣/関一政へ嫁ぐ)、
妹 (須賀川城主/田丸直昌へ嫁ぐ)、妹 (小倉作左衛門行春へ嫁ぐ)、
三条殿 (於とら、豊臣秀吉の側室)
・墓地 京都市/大徳寺黄梅院(非公開)、
興徳寺(遺髪、分骨)、日野市/信楽院(遺髪塔)
・戒名 昌林院殿高岩宗忠大居士
・霊名 レオン (レオ飛騨守)
・辞世の句
「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」
[城内図]
[町割図]
[町割郭内]
[寺社]
[起請文]
[騎馬]
☆ 在任 文禄4(1595)年〜慶長3(1598)年
蒲生氏郷公の嫡子として生まれる。
次男であるが、兄の氏俊はすでに廃嫡されていた。
文禄4(1595)年2月7日、父/氏郷公が急死したため、家督を継ぐ。
13歳の鶴千代として家督を継ぎ、元服して秀朝、後に秀行と改名。
まもなく、重臣たちが対立する御家騒動(蒲生騒動)が勃発。
その責により、慶長3(1598)年、宇都宮藩12万石へと減移封された。
急な相続と若過ぎるため家中を統率できなかったとされるが、秀吉と石田三成らが、会津藩の大領を狙って工作したのが真相と言われている。
正室に徳川家康の3女を迎えており、両人とも表立っては動けなかったための裏工作だった。
この遺恨のため、関ヶ原の戦いでは迷わず東軍に付くこととなり、後に会津藩主に返り咲く。
・天正11(1583)年〜慶長17(1612)年5月14日
・別称 鶴千代 (幼名)、藤三郎、秀隆
・父 蒲生氏郷公
・母 冬姫 (織田信長の次女、相応院)
・正室 振姫 (徳川家康の3女)
・子 忠郷
、忠知 (上山藩 → 伊予松山藩24万石)、
依姫 (崇法院、熊本藩主/加藤忠広へ嫁ぐ)
・墓地 允殿館(弘真院)
供養塔は安国寺 (熊本県熊本市横手)
・戒名 弘真院殿前拾遺覚山静雲大禅定門
弘真院殿覚山浄雲大居士
関ヶ原の戦いで東軍に参加し、上杉景勝公の軍を牽制した功績により、会津藩に復帰した。
・統治 26年間 = 慶長6(1601)年〜寛永4(1627)年
・石高 60万石
会津 + 蒲原、安達、安積、岩瀬、白河、田村、石川
秀行公
☆ 在任 慶長6(1601)年〜慶長17(1612)年
会津藩に復帰した秀行公は、家康の娘/振姫を貰い受けていたこともあって、江戸幕府が開かれた後も、徳川氏の一員として重用された。
会津領に復帰すると、塩宿・宿駅を整備し、荷物駄送・常宿駅などを設けるなど藩政に着手し、信頼する人物を各地に配する。
◇ 須賀川 蒲生源左衛門を須賀川城主。
◇ 安積・安達 稲田数馬之介・外池信濃守
◇ 二本松 梅原弥左衛門・門屋助左衛門
など。
悲運にも、会津地震に遭い、その対処の最中、急死する。
享年30歳であった。
略歴は、前述を参照。
☆ 在任 慶長17(1612)年〜寛永4(1627)年
秀行公の嫡男として生れる。
慶長17(1612)年に父/秀行公が急死したため、わずか10歳で家督を継ぐ。
母/振姫の訴えによる岡重政処刑事件や、秀行公の時の重臣たちが対立した御家騒動も引きずっており、藩の要であった母が父/コ川家康の命により和歌山城主/浅野長晟へ再嫁してしまい、藩中の混乱は増すばかりだった。
元和3(1617)年に母が死去したため、幕府からの締め付けも始まった。
その最中、疱瘡で急死、享年26歳であった。
嗣子が無かったため、蒲生家の会津藩統治は終わった。
母が家康の娘であったため、お家の断絶は免れ、弟の蒲生忠知が伊予松山藩主として存続を許された。
・慶長7(1602)年〜寛永4(1627)年1月4日
・別称 亀千代 (幼名)
・父 蒲生秀行公
・母 振姫 (徳川家康の3女)
・正室 藤堂和泉守高虎の娘
・子 なし
・墓地 高巌寺
・戒名 見樹院殿得誉元光大居士
[肖像]