弘治2(1556)年、蒲生賢秀の嫡男/氏郷が誕生。
鶴千代と名付けられる。
織田信長、豊臣秀吉に仕え、頭角を現す。
天正12(1584)年、伊勢松坂12万3千石で転封。
天正18(1590)年、会津藩42万石 (後に92万石) の藩主となり、会津藩の基礎を築く。
略歴については、こちら。
文亀〜大永年間 (1501〜1523)年、砦として気付かれたのが起源とされる。
天文2(1533)年、氏郷の祖父/蒲生定秀が本格的に築城。
天正10(1582)年、本能寺の変で逃れてきた織田信長の妻子一族を迎え入れた。
関ヶ原合戦後の慶長8(1603)年に廃城。
日野川ダム建設による水没などにより遺構は、本丸跡石垣が少し残っているだけ。
▲(日野町西大路)
思ひきや 人のゆくへそ 定めなき
わがふるさとを よそに見んとは
▲(日野町大字上野田759)
墓地の一番奥にある。
文禄4(1595)年2月7日、伏見の蒲生屋敷にて急死。
享年40歳。
墓所 ◇ 京都/大徳寺黄梅院 (非公開)
◇ 会津/興徳寺
略歴については、こちら。
信楽院は、蒲生家の菩提寺。
▲(日野町大字村井1500 Tel. 0748-52-0170)
蒲生氏郷が父/賢秀の菩提寺として開基。
賢秀の遺骸は日野城内に庵が設けられ埋葬された。
天正18(1590)年、氏郷の会津入府により恵倫寺に改葬されたが、墓石はそのまま残された。
元和6(1620)年、新たに仁正寺藩が立藩し日野城が藩庁となったため、残されていた墓石は法雲寺に移された。
▲(日野町西大路1373)
戦国武将/蒲生賢秀の4男で、氏郷の弟。
勇猛な武将だったため兄/氏郷に恐れられ、家臣/岡野平治兵衛と石原源八により下迫城で誅されたとされる。
法泉寺の清寿院に葬られた (伝)。
「浄土宗 慈福山 清寿庵
開基 雲南清住法尼
創立 天正年間
開山 彰誉上人」
▲(日野町迫1570)
慶長12(1607)年から比叡山/南光坊に移り住み、織田信長の焼き討ちで壊滅した比叡山復興に尽力。
正保2(1645)年、天海廟 (慈眼堂) が建立された。
堂内には、国の重要文化財である「木造慈眼大師坐像」か祀られている。
日光/慈眼堂、東京/毛髪塔、埼玉/喜多院、会津/両親の墓などがある。
天海大僧正については、こちら。
堂の左側に歴代天台座主の墓がある。
さらに1段高い所に、天海大僧正が鵜川四十八体石仏 (高島市) のうち13体を移した阿弥陀如来石仏 (座像) がある。
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元和元(1615)年、天海大僧正が後陽成天皇から京都/法勝寺を賜り、現在地に移築し開基した。
延暦寺の本坊(総里坊)。
滋賀院門跡とも称する。
天台宗。 本尊は薬師如来。
摺上原の戦いで敗れた蘆名義広を護り常陸国 (義広公の実家) へ送り届けた際、天海大僧正が着用した甲冑を所蔵しているとのこと。
慈眼大師 天海大僧正
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延暦寺という1棟の建造物があるわけではなく、500ヘクタールほどの山内に点在する約150の堂塔の総称。 東塔 (東側) 、西塔 (西側) 、横川 (北側) の3つ (三塔) に区分されている。 各々に本堂を持つが、総本堂の根本中堂は東塔にある。 再興に尽力した天海大僧正は、ここで18歳の時に実全 (神蔵寺) に師事し円頓菩薩の大戒を受け、その後の雲水の時代にも訪れている。 |
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元和9(1623)年、天海大僧正が創建。
寛永11(1634)年、現在の社殿に改築された。
日光東照宮再建の雛形として改築されたと云う。
「関西の日光」とも。
明治政府が施行した大罪/廃仏毀釈という仏教弾圧により、比叡山延暦寺から日吉大社へ移管された。
内部参拝 (有料) は、土・日・祝のみ。
急な石段を上り切った先にある。
▲(大津市坂本4-2-12
Tel. 0775-78-0009)
弘治元(1555)年、随風 (天海大僧正) が勧学院/尊実権僧正に師事し、倶舎の性相や華厳・楞厳の諸法大乗を学んだ。
正和元(1312)年、学問所として創立。
慶長5(1600)年、再建され現在に至る。
原則非公開。
園城寺は、一般的に三井寺と呼ばれている。
弘文元(672)年、大友氏の氏寺として草創。
天台寺門宗の総本山、長等山。
本尊は弥勒菩薩。
▲入場有料 (大津市園城寺町246 Tel. 077-522-2238)
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慶長5(1600)年、秀吉の三回忌に遺徳を偲んで建立。
明治31(1898)年、秀吉の三百回忌に拝殿が再建。
◇ 10月には「豊公まつり (武者行列)」
◇ 毎年1月には「十日戎」、
が行われる。
▲(長浜市南呉服町6-37)
阿弥陀寺から分骨された織田信長の「遺歯」が埋葬されているとのこと。
天正8(1580)年、信長が安土城下に創建し、能登/西光寺の僧/貞安が開山。
後に、豊臣秀次が近江八幡城を築城した際に豊臣秀吉の命により現在地に移転した。
▲(近江八幡市中村町726 Tel. 0748-32-3721)
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鶴ヶ城と同じく日本100名城 (51番) の1つ。 天正4(1576)年、織田信長が築城。 初めて本格的な天守 (天主) が設置された城。 天正10(1582)年、明智光秀による本能寺の変の後に、原因不明の出火で全焼、廃城となる。 昭和25(1950)年、国の特別史跡に指定。 |
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (50番) の1つ。
金亀城(こんきじょう)とも。
元和8(1622)年、井伊直継が築城。
明治7(1874)年、廃城令の破却を免れ天守が現存する。
昭和26(1951)年、国の史跡に指定。
昭和27(1952)年、国宝に指定 (天守など)。
昭和31(1956)年、国の特別史跡に指定。
▲有料 (彦根市金亀町1-1 Tel. 0749-22-2742)
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鶴ヶ城と同じく日本100名城 (49番) の1つ。
永正13(1516)年、浅井亮政が築城と伝えられる。
大永3〜4(1523〜1524)年とも。
浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として知られる。
ゆえに浅井三姉妹所縁の地でもある。
天正3(1575)年、廃城。
昭和12(1937)年、国の史跡に指定。
山麓に「小谷城戦国歴史資料館」がある。
▲(長浜市小谷郡上町139)
絵図(260KB)