天文14(1545)年、武田信玄と正室/三条夫人の次女として誕生。
甲斐国武田家臣/穴山梅雪(信君)へ、正室として嫁ぐ。
天正10(1582)年2月、夫/梅雪が家康の誘いを受け傘下に入る。
同年5月末、梅雪は家康と安土城を訪ね信長と謁見し、京都や堺を視察中、本能寺の変が勃発し急ぎ帰国の途中、6月2日に野盗に襲われ死去。
11歳の嫡男/勝千代が継ぐも、16歳で元服し信治に改名した直後に天然痘で急死し穴山家が断絶したため、仏門に入り見性院と名乗る。
その後、家康の5男/万千代を養子にし、武田七郎信吉と名乗らせ常陸水戸15万石の城主として穴山家を再興するが、慶長8(1604)年9月に21歳で急死し、再び断絶してしまう。
慶長18(1613)年3月1日、将軍/秀忠の4男/幸松 (後の保科正之) の養育を依頼される。
元和3(1617)年11月8日、保科正光の養子となり信州/高遠城へ出立する幸松を見送る。
その日、見性院の目から涙が枯れることはなかったという。
元和8(1622)年5月9日 死去、采地/清泰寺に埋葬。
79歳。「見性院殿高峯妙顕大姉」。
[位牌]
徳川家康から大牧村 (東浦和)に領地300石 (大間木村に500石とも) と、江戸城内/田安門に住居/比丘尼屋敷を与えられていた。
後に元服した正之が霊廟を建立し、終生 菩提を弔う。
承応3(1654)年に阿弥陀堂(霊廟)を建立。
本尊/阿弥陀如来像は、見性院の面影を写したという。
寛文11(1671)年、50回忌の際、御茶湯料として清泰寺に田地を寄進。
元禄9(1696)年、会津藩から膳具一式が寄進され、松平姓と三つ葉葵が見性院に許される。
享保6(1721)年に100回忌、明和8(1771)年に150回忌が会津藩によって営まれる。
文化5(1808)年8月、墓誌が建立。
文政4(1821)年の200回忌に松平容衆が霊廟を再建。
後に倒壊し、門扉だけが現在の墓前に残る。
安政4(1857)年、墓標の欅も暴風雨で倒壊。
安政5(1858)年、松平容保が墓碑を建立。
現在でも、会津松平家関係者の参拝は続いているとのこと。
同じく正之の養育を手伝った妹/信松尼の墓所は、八王子の信松院にある。
▲清泰寺 (さいたま市緑区東浦和5-18-9 Tel. 048-873-1520)
保科正之を身籠った於静は、信松尼(松姫) に連れられて無事出産の祈願文を納めた。
[祈願文]
[2]
大牧村に匿ってもらっている信松 (禅) 尼への感謝の文も入っている。
氷川神社は徳川家康に庇護され、幕府より社地300石が寄進されていた。「大宮」の地名は門前町である「大いなる宮」に由来する。
「うやまつて申きぐあんの事 南無ひかわ大めうじん 当国のちんじゆとして あとをこのくにゝたれたまひ しゆじやうをあまねくたすけたまふ ここにそれがし いやしきみとして 大しゆの御をもいものとなり おたねをやどして当四五月のころりんげつたり しかれども 御たいしつとの 御心ふかく えいちうにおることをえず 今しんしょうぜんにのいたわりによつて 身をこのほとりにしのぶ それがしまつたくいやしき身にて ありがたき御てうあいをかぶる 神ばつとして かかるおたねをみごもりながら 住所にさまよふ 神めいまことあらば それがしたいないの御たね御なんしにして あん産守ごしたまい ふたりとも生をまつとうし 御うんひらくことをえ 大ぐわんじやうじゅなさしめたはゞ しんぐわんのことかならずたがへまじく候なり
関東地方に約250社ある氷川神社の総本社で、富士山と筑波山を結ぶ線と、浅間山と冬至の“日の出”を結ぶ線の交差点に位置する。
▲(さいたま市大宮区高鼻町1-407
Tel. 048-641-0137)
(桜井門に向って5基目) .
芝増上寺/清揚院殿霊廟(将軍/家光の3男)に、正容が奉献した石灯籠。 本堂脇は読めるが、参道の1基は判読できず。 増上寺の徳川家霊廟北側を取得した西武鉄道は、1千基の灯籠を所沢に運び野積。 その後に球場を建設するため希望者に配布され、散失してしまった。 立入禁止内に、青銅灯籠 (唐金灯籠) が、約50基ある。 正容も、「銅籠1基」を奉納している。 寛永9(1632)年に将軍/家光が父/秀忠の増上寺/台徳院霊廟を建立する際、当時の高遠藩主/保科正之が普請を受け持った。 勅額門 、御成門も移築されている。 別称:狭山不動尊。 昭和50(1975)年、プリンスホテル開発のため、増上寺などの文化財を集め、天台宗別格本山として建立。 ▲(所沢市大字上山口2214 Tel. 04-2928-0020) |
天長7(830)年、円仁が星野山無量寿寺として建立。 本尊は阿弥陀如来。
慶長元(1596)年、会津出身の天海大僧正が第27世住職に就任し荒廃した寺院の再興に着手、慶長4(1599)年に寺号を喜多院と改める。
徳川家康の天海に対する尊崇は厚く、川越藩主となった老中/酒井忠利に再興の支援を命じている。
元和3(1617)年、家康の遺骸を久能山から日光山へ改葬する途中、ここで4日間の法要が執り行なわれた。
寛永15(1638)年、川越大火が発生し、山門と経蔵以外の伽藍を全て焼失する。
家光も天海への崇敬はすごく、すぐさま再建に取りかかった。
この時に江戸城/紅葉山御殿の一部を移築したため、江戸城の唯一の遺構として「家光誕生の間」「春日局化粧の間」が現存している。
現在では、「川越大師」として親しまれている。
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本堂の左手に築かれた頂にある。 寛永20(1643)年10月2日、天海大僧正 (慈眼大師) が寛永寺の支院/本覚院において入寂し、遺言通り徳川家康の眠る日光山/輪王寺に埋葬された。 正保2(1645)、徳川家光の命により御堂/慈眼堂が造営され、天海の木造坐像が安置された。 死去する2ヶ月前の天海を写したと伝えられている。 山門右脇に、 天海大僧正の銅像も建立されている。 慈眼堂裏手の歴代住職の墓所中央に「南天慈眼大師」と刻まれた大きな墓碑がある。 墓碑の後ろに「延文の板碑」と「暦応の古碑」の2つの板碑もある。 その他にも慈眼堂は、比叡山など各地に建立され、上野に天海僧正毛髪塔 、会津に両親の墓がある。 |
寛永10(1633)年、中院のあった場所に建立された。 三大東照宮の1つ (日光東照宮と久能山東照宮)。 徳川家康が神として祀られている東照宮は、全国に130ほど建立されている。 ▲(川越市小仙波町1-20-1 Tel. 049-222-0859) |
寛永14(1637)年、江戸城/二の丸に徳川家光が東照宮を創建し、天海大僧正が正遷宮の導師を執り行った。 明暦2(1956)年、川越城内にあった三芳野神社の外宮として移築。 明治5(1872)年、八坂神社として現在地に移築。 規模は大幅に縮小されたが、歴史的価値は高い。 |
川越氷川神社は、6世紀半ば頃に大宮の 氷川神社から分祀されたと伝えられている。 ▲(川越市宮下町2-11-3 Tel. 049-224-0589) |
寛永元(1624)年、保科正之の兄/徳川家光の命により、川越藩主/酒井忠勝が再興に着手し現存する社殿を造営。
寛永2(1625)年、天海大僧正が導師として、再興の遷宮式を行った。
その後は、江戸幕府の直営社として庇護された。
大宮の氷川神社を勧請したとの説もある。
当社の参道が、童唄「とおりゃんせ」の発祥地といわれている。
川越城内にあったため、一般の人の参詣が難しい様子を唄ったと云う。
川越城の本丸御殿の近くにある。
▲(川越市郭町2-25-11)
天文18(1549)年、城主/大道寺政繁の母/蓮馨が創建し、甥の感誉存貞が開山。
浄土宗、孤峰山。 本尊は阿弥陀如来。
元亀元(1570)年、雲水時代の随風 (天海大僧正) が立寄り、一途な住職/存応と語り論じている。
後に存応は増上寺の第12代目法主となり、天海の寛永寺とともに各々6人の徳川将軍の菩提寺となった。
呑龍堂の前にある「おびんずる様 (十六羅漢の1人)」に触れると病気が治るとされる。
小江戸川越七福神巡りの1つ (福禄寿)。
▲(川越市連雀町7-1 Tel. 049-222-0043)
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元和3(1617)年3月27日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光に遷座の際に1泊。 文明10(1478)年、成田顕泰が築城とされる。 上杉氏・北条氏との戦いや、石田三成の水攻めにも落城しなかったことで知られる。 家康の関東入部後に4男/松平忠吉の忍藩の藩庁となった。 家康の遺骸遷座の時代は、忠吉が尾張藩へ移封した後だったが天領になっていた。 |
奥平松平家の祖/松平忠明が寛永2(1625)年に大和国郡山城内への創建に始まる。
松平家の移封に伴い各地に遷座され、文政6(1823)年に忍藩へ移封で桑名藩から忍城内に遷座した。
慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いの時、大阪蔵屋敷内の東照宮を合祀。
明治7(1874)年、現在地に移る。
忍城とは国道125号を挟んで向かい側にある。
▲(行田市本丸12-5)
本丸御殿
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (19番) の1つ。
初雁城、霧隠城、河越城とも。
長禄元(1457)年、上杉持朝の命により、家臣/太田道真・道灌の父子が築城。
江戸の北の重要な守りとして、代々幕府の重臣が城主。
明治2〜3(1869〜1870)年、廃城。
▲(川越市郭町2-13-1)
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (18番) の1つ。
文明8(1476)年、長尾景春が築城。
天正18(1590)年、廃城。
昭和7(1932)年、国の史跡に指定。
遺構として、曲輪、土塁、石垣、空堀、水堀、馬出しなどの跡がある。
▲(寄居町鉢形2496-2)
畑時能は、藩士/畑能賢 (子/畑英太郎・畑俊六) の遠祖。
正安元(1299)年9月15日〜興国2/暦応4(1341)年
通称:六郎左衛門。
南北朝時代の南朝方武将/畑胤時の次男、母/久納養哲の娘。
新田義貞の四天王の1人。
伊知地の戦いで戦死し、従臣/児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵陣を突破し持ち帰ったという。
後に、光信も時能の傍らに葬られ、2つの祠が建ち並び、「畑児塚」と呼ぶそうだ。
墓域内に、畑英太郎が建立の「畑時能之墓 児玉光信墓」、英太郎と俊六が建立の「招魂慰霊法塔」。
境内には、畑俊六が植樹の記念樹もある。
▲(上里町大字金久保701
Tel. 0495-33-8255)
正室が佐原義連の妹。
生没年不詳。
通称:畠山庄司、秩父庄司。
平安時代後期の武将 (平家側・源氏側)・豪族で、畠山氏の祖。
父/秩父重弘。
墓は、円福寺と畠山重忠公史跡公園の2ヶ所。
五輪塔のようだが、風化で崩れかかっている。 近くに、平将門の弟/平将平の墓がある。 こちらも風化が激しく、原型をとどめていない。 ▲(皆野町大字皆野293 Tel 0494-62-0330) |
居館であった畠山館跡を整備した公園。
畠山重能の墓
「畠山庄司重能の墓 (昭和三十六・十一・三指定)
重忠公の父重能の墓は、重忠墓の東南、椎ノ木の下にある自然石と伝わる。
重忠公の祖先は秩父権守重綱以来秩父郡にあって、代々武蔵の総検行職を司どり、重能の代に秩父郡吉田町から、川本町畠山に居を移し、畠山庄司となり畠山姓を名乗った。 川本町教育委員会」
畠山重忠の墓
横浜市に終焉の地・首塚・六ツ塚など、鎌倉市に畠山重忠邸跡碑がある。
▲(深谷市畠山510-2)
川越藩主/松平直侯は、藩主/松平喜徳の兄。
天保10(1839)年1月9日〜文久元(1862)年12月10日 (23歳)
幼名:八郎麿。 初名:昭融。
父/徳川斉昭、母/直 (山野辺義質の娘)、養父/松平典則。
武蔵川越藩/6代藩主。
「建中院殿義恩黎懐大居士」
現在、地震による被害の修復工事のため立ち入り禁止。
▲(川越市小仙波町1-20-1 Tel. 049-222-0859)
保科正之の養母。 墓所は清泰寺にある。
老中/松平伊豆守野信綱の菩提寺であり、見性院が鉄山禅師と懇意であったことから、後に供養として宝篋印塔が建立された。
[閑話]
▲(新座市野火止3-1-1
Tel. 048-477-1242)