天 海 大 僧 正 の 略 歴
天海大僧正の生涯は、大きく3つの時代に分けられる。
◇ 雲水の学問僧の時代
名刹/龍興寺で天台宗の教義に触れ、仏門に生涯を奉げることを決意する。
粉河寺、比叡山、観学院(園城寺)、興福寺、足利学校、善昌寺、蓮馨寺、
さらに甲斐や越後など宗派を超えて仏法を修め続けた。
◇ 表舞台で活躍する時代
家康との知遇・帰依を得て、飛躍が始まる。
幕閣として江戸幕府の基礎を造り、江戸の都市計画などに参与する。
戦国時代に荒廃した寺院を再興し、再び戦乱の世に戻さない策に尽力する。
◇ 仏法による国家安寧に邁進する時代
徳川秀忠・家光の帰依を受け、東照宮の建立を手段として、武闘派の時代から
残りの生涯をかけ、保科正之公とともに文治政治への移行を推進する。
宗家/蘆名氏の滅亡などを体験し、国家安寧こそが民の幸せとの行動だった。
表 舞 台 で 活 躍 す る 時 代
天正18(1590)年/庚寅 55歳
武蔵国仙波/無量寿寺北院 (後の喜多院) に住み、豪海僧正に師事し、「随風」から「天海」と改名する。
かつては天台宗の関東総本山として580寺を従えていたが、北院も中院も荒れ果て、南院は墓地があるだけだった。
天海が得度した龍興寺と同じく慈覚大師 (円仁) が開基した寺でもある。 |
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前年の天正17年に、家康の帰依を受けるとの記録(慈眼大師全集、福島県史)があり、2月〜7月の間に参謀として小田原征伐の家康/陣幕に入ったとの説も。
10月
1日、江戸入りした徳川家康に、多くの僧とともに謁見する。
家康および重臣たちは、根拠地/三河国から左遷ともいえる湿地だらけの江戸移封で落ち込んでいた。
天海は、かんらかんらと豪快に笑いながら戒めた。
「お宝の領地を手に入れて何を悩まれておられる
水に溢れた広大な平野を乾かしなされよ
干ばつの恐れがない類を見ない豊かな石高を手に入れたのですぞ」
家康および重臣たちに、えも言われぬ生気が蘇ったという。
この月、蘆名盛重(義広から改名)は、豊臣秀吉から江戸崎の領地4万5千石を拝領。 |
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11月〜
江戸崎城主/蘆名盛重は、無事に逃げおおせた感謝からか、江戸崎不動院を修復して、第8世として天海を招聘する。
天海は承諾し、無量寿寺北院と兼務する。 |
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文禄2(1593)年/癸巳 58歳
夏
常陸国が、大干ばつに見舞われた。
天海が雨乞いをすると恵みの雨が降り、生きとし生けるものが蘇ったと伝わる。
慶長元(1596)年/丙申 61歳
2月10日
師の無量寿寺北院 (後の喜多院) /豪海僧正が死去し、天海が法統を継ぎ (第27世住職に就任)、荒廃した寺院の再興に着手する。
慶長4(1599)年とも。
江戸崎不動院は継続し兼務となる。
慶長4(1599)年/己亥 64歳
無量寿寺北院の寺号を、喜多院と改める。
天海に対する徳川家康の尊崇は厚く、以降は参謀として手腕を発揮し、さらに朝廷との仲を取り持つ。
後に家康は、
「天海僧正は人中の仏なり 恨むらくは 相識ることの遅かりつるを」
と天海を称賛している。
慶長5(1600)年/庚子 65歳
9月15日
関ヶ原の陣幕に、軍師の一人として参加していたと云う。
「関ヶ原合戦図屏風 (関ヶ原町歴史民俗資料館)」に鎧兜姿の「南光坊」こと天海が描かれている。
となると、天海の明智光秀説はなくなる。
慶長6(1601)年/辛丑 66歳
関ヶ原で勝利し覇権を握り、江戸を中心とした街道整備 (五街道) に着手の徳川家康に対し、天海は善財童子の逸話を講話する。
感激した家康は、整備を開始する五街道の中で、最も重要な街道/東海道を日本橋を起点とした五十三次と決定する。
善財童子・善知識については、こちら。
慶長7(1602)年/壬寅 67歳
天海の宗家/蘆名盛重(義広から改名)は、関ヶ原の戦いで兄/佐竹義宣が西軍に与したため領地没収、仙北郡角館1万6千石に減移封となり、再び義勝と改名する。
慶長8(1603)年/癸卯 68歳
2月12日
江戸幕府が開府し、天海が家康に登用される。
民衆に人気のあった平将門の霊を守護神にし、五色不動尊を要所に配置し、東海道五十三次の整備など仏法による江戸の都市造りに着手する。
11月
復興を試みていた亮弁僧正らから懇願され、下野国久下田/新宗光寺に入る。
慶長9(1604)年/甲辰 69歳
新宗光寺の第20世の法統を継ぐ。
この年、家康が将軍を辞し、秀忠が第2代将軍となる。
10月
久下田/新宗光寺を全永寺と改め、宗光寺を旧地の長沼に移し、灌室を興し檀林を開き再興に着手する。 復興後は末門308ヶ寺を有するまでになり、関東二僧正寺の1つ、天台宗十檀林の1つとして大いに栄える。
慶長10(1605)年/乙巳 70歳
4月16日
保科正之公の実父/徳川秀忠が2代将軍に就任する。
慶長13(1608)年/戊申 73歳
信頼を得ていた徳川家康から依頼され、比叡山探題執行に就任し、天台密教法曼流を伝える。 探題執行とは、僧の資格を判定する最高の権威者のこと。
織田信長により焼失し、内輪もめの激しかった延暦寺の再興に着手する。
この年
しばしば家康から駿府城に招かれ、山王一実神道を講義している。
慶長14(1609)年/己酉 74歳
延暦寺東塔の南光坊を住居とする。
これ以降、南光坊天海と呼ばれる。
11月
宮中に赴き、後陽成天皇に天台宗仏法を講義をする。
12月9日
権僧正 (僧正に次ぐ地位) に任ぜられ、智楽院の号を賜る。
慶長15(1610)年/庚戌 75歳
徳川家康から駿府城に招かれ、初めて天台論議を説く。
すでに68歳になっていた家康だったが、深い感銘を受けた。
「もっと早く聞きたかった」といったと伝わる。
この年
天台宗の広学堅義の探題に選ばれる。
(経典を論議する際、論題を選び、問答後に可否を評定する役)
慶長16(1611)年/辛亥 76歳
3月
正僧正に任ぜられる。
後陽成天皇の勅命で、毘沙門堂の再興に着手する。
公海に引き継がれ、再興されると門跡寺院「毘沙門堂門跡」として天台宗五箇室門跡 (青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、曼殊院門跡) の1つとなる。
夏
徳川家康から駿府城に招かれ、天台血脈の相承を求められたが、
「まず諸宗の教義を究めるべし」
と諫めた。
すでに、家康政権の重要な相談役になっていた。
7月
徳川家康から喜多院 (無量寿寺) に移ることを命じられる。
慶長17(1612)年/壬子 77歳
4月
比叡山から喜多院 (無量寿寺) へ向かう途中、駿府城に立ち寄り、徳川家康より寺領4万8千坪、500石が寄進される。
その時の天海の進言により、再建を進めていた無量寿寺が関東の天台宗本山となる。
東の比叡山という意味で「東叡山」の山号に変更した。
正式な公布は、翌年に将軍/秀忠が行った。
11月
後陽成上皇から、星野山の勅額を賜る。
慶長18(1613)年/癸丑 78歳
1月〜8月
徳川家康から駿府城に招かれ、しばらく逗留し、天台宗の論議をする。
10月
家康が喜多院を訪ね、論議を聴く。
家康から日光山別当に任命され、日光山第53世貫主となる。
11月
昌尊が退山し、座主として日光/光明院に入り再興する。
(宿坊は坐禅院)
12月
江戸城に赴き、家康に論議をする。
慶長19(1614)年/甲寅 79歳
正月
江戸城に赴き、論議する。
3月
駿府城に赴き、徳川家康の浅間社の能楽と法相真言の論議に随行する。
4月
上洛し、宮中にて論議する。
5月〜
駿府城に赴き、しばらく逗留し、しばしば論議する。
家康に、天台宗の奥義・秘伝を口授する。
家康は、天海 (喜多院) に「宋版一切経」を寄進する。
7月
家康に、大久保忠隣の嘆願書を呈する。
7月21日、大坂の役のきっかけとなる方広寺鐘銘事件の策を授けた。
7月26日、家康による豊臣家への難癖が始まる。
「世に傳ふる所は 此鐘銘は僧C韓がつくる所にして 其文に國家安康 四海施化 萬○?傳芳 君臣豐樂 又東迎素月 西送斜陽などいへる句あり 御諱を犯すのみならず 豐臣家の爲に 當家を咒咀するに似たりといふ事を 天海一人御閑室へ召れたりし時 密々告奉りしといふ 此事いぶかしけれども またなし共定めがたし いま後者の爲めにしるす
(徳川の正史/台徳院殿御実紀・巻廿七)」
10月
喜多院に戻る。
11月
上洛し、秘密の書籍を家康のために拝借する。
天皇や上皇に、家康との講和も依頼している。
大坂冬の陣で、徳川家康の陣幕に入る。
元和元(1615)年/乙卯 80歳
2月
上洛し、後陽成天皇に天台宗の奥義・秘伝を口授する。
御衣・燕尾帽・鳩杖を賜る。
京都/法勝寺を賜り、比叡山の門前町坂本に移築し滋賀院として開山。
5月
大坂夏の陣で、徳川家康の陣幕に入る。
6月〜
二条城に赴き、しばらく逗留し論議する。
閏6月25日には、家康に天台宗の奥義・秘伝を口授する。
6月21日、23日、宮中に赴き、論議する。
7月2日に、家康に山王一実神道を授ける。
8月
駿府城に立ち寄り、喜多院に戻る。
10月
江戸城にて論議をする。
元和2(1616)年/丙辰 81歳
2月 4日
徳川家康が鷹狩に出た先で倒れたとの知らせを受け、急きょ駿府城に赴き見舞う。
藤堂高虎と天海は、末永く魂鎮まる場所を作ってほしいと家康から依頼される。
後に藤堂家の屋敷のあった上野に東照宮を造営するきっかけとなる。
3月21日
天海の働きかけにより、家康が太政大臣に任ぜられる。
武士としては、平清盛、足利義満 (源義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目。
4月17日
徳川家康が死去。
死の間際、天海・本田正純・金地院崇伝の3人を枕元に呼び、死後の葬儀などの遺言を託す。
日光廟の基本的構想を立案し、造営を指揮・指導した。
まず駿府/久能山に葬り、一周忌後に江戸城の真北に位置する日光の東照社 (東照宮) に改葬するなど埋葬に関しては遺言通り行なった。
神号については、幕政にも参加していた臨済宗の崇伝・神道家の梵舜の推す「明神」と対立するが、「豊国大明神 (秀吉)」の豊臣家は滅亡して不吉であるから「権現にすべき」との天海の主張が通った。
これ以降、幕僚として幕政にも絶大な力を持つようになる。
次の将軍/秀忠、家光も天海に深い信頼をよせ帰依し、幕政にも重用され、陰陽道や風水に基づく江戸の本格的な街造りに着手する。
家光の尊敬の念は厚く、天海の墓の近くに埋葬 (大猷院) するよう遺命したほどである。