天海大僧正の生涯は、大きく3つの時代に分けられる。
◇ 雲水の学問僧の時代
名刹/龍興寺で天台宗の教義に触れ、仏門に生涯を奉げることを決意する。
粉河寺、比叡山、観学院(園城寺)、興福寺、足利学校、善昌寺、蓮馨寺、
さらに甲斐や越後など宗派を超えて仏法を修め続けた。
◇ 表舞台で活躍する時代
家康との知遇・帰依を得て、飛躍が始まる。
幕閣として江戸幕府の基礎を造り、江戸の都市計画などに参与する。
戦国時代に荒廃した寺院を再興し、再び戦乱の世に戻さない策に尽力する。
◇ 仏法による国家安寧に邁進する時代
徳川秀忠・家光の帰依を受け、東照宮の建立を手段として、武闘派の時代から
残りの生涯をかけ、保科正之公とともに文治政治への移行を推進する。
宗家/蘆名氏の滅亡などを体験し、国家安寧こそが民の幸せとの行動だった。
高田町 (会津美里町) にて、父/船木兵部少輔景光と母/蘆名盛常の末娘との長男として誕生 (1月1日に誕生の伝承もあるが)。
幼名/兵太郎、またの名を亀王丸と名付けられた。
舩木、舟木とも 。
剃髪後は、隋風、無心などと称する。
法名:天海。 号:無障金剛。 院号:智楽院。
諡号:慈眼大師。 尊称:南光坊。
出自が「東叡山開山慈眼大師縁起」に記載されている。
「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ 〜
蘆名修理太夫平盛高の一族 〜」
天海の誕生を記念して両親が建立したと伝わる「護法石」が、近くの公民館敷地にある。
[逸話]
両親の墓も、龍興寺に現存している。
ある日、霊夢を見た。
お告げの通りに村境にあった字浮目 (浮身) の水田を探すと、土仏の観音像が出現してきた。
日夜、一心に念持していたと云う。
仏教の他にも儒学、史学(歴史)、易(占い)などの諸学問を修得するため、故郷/会津を出て各地へ修業の旅に出る。
12月
下野国宇都宮/粉河寺の皇舜権僧正に師事して、天台宗を学ぶ。
当時の粉河寺は、関東の天台宗の源として隆盛を誇り、全国から徳を慕って来た門下生にあふれており、ここで全国的な人脈を得る。
1年を過ぎるころ、皇舜権僧正が驚くほどに成長し、「名器」と言わしめるほどになっていた。
明治に入り粉河寺は、龍興寺と同じく慈覚大師 (円仁) が開基した宝蔵寺に合併され廃寺になった。
2月
粉河寺を出て、雲水の僧となる。
1月
近江国/比叡山延暦寺の実全 (神蔵寺) に師事する。
最澄が開山した比叡山は、天海が出家した龍興寺を開基した円仁や、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を輩出していてる。
心身を挙げて修学に励んだ。
実全も大器と見抜き、「摩訶止観」「金剛○」「十不二門」の諸書を授けた。
実全が突然「三千三諦とは何か」と問うと、即座に、
「一念無性、空性万有、仮空融絶、これを三諦という。三諦三千、当念本具、本具を了達すれば、彼此宛然たり」
と答え、実全が手を打って感歎したと云う。
檀那流の印可を得て円頓菩薩の大戒を受けたので、比叡山を下山。
大津の三井寺 (別称=園城寺) の勧学院/尊実権僧正に師事し、倶舎の性相や華厳・楞厳の諸法大乗を学んだ。
秋
南都の林和成重に、日本書紀を学ぶ。
成重の祖先は中国人だったので、漢史の書物についても知ることができた。
大和国奈良/興福寺に仮住まいし、空実僧都から法相宗・三論を学ぶ。
ここで「心所心王、以識為主」を悟ったという。
5月
実母が重病との知らせを受け、会津に戻る。
7月23日
天海の膝に抱かれながら、実母が死去した。
涅槃経を口誦しつつ、最後の孝行を尽くそうと人手を掛けず、自らが葬儀の全てを行ったという。
しばらく喪に服す。
14歳で遊学に出立した際、母に預けていた土仏/浮身観音を模した木造の観音像製作を仏師/浄林に依頼。
観音堂を建立し、木製観音像の胎内の中に土仏を納めた。
現在、龍興寺境内に移され、会津三十三観音番外札所の浮身観音として、今なお親しまれている。
喪が明け、下野国/足利学校に遊学し、儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学などを学ぶ。 当時、学ぶ者/3千人といわれ、関東での最高学府であった。
2年ほどで抜きん出た頭角を現し、約4年で諸子百家をほぼ究めた。 ここで生涯の友/亮ェと出会っている。
時折、近くにある鑁阿寺で真言密教も学んだ。
2月
諸子百家を ほぼ究めたので、親友/亮ェとともに足利学校を退いた。
上野国新川/善昌寺に兼学の禅客/道器がいると聞き、親友/亮ェとともに遊学する。
大仏頂経の講演に接し涙を流して感動したと云う。
朝に首楞厳経、夕に易経を聞き、寝食を忘れるほど学問を吸収する。
老いのため前年に隠していた先住の尊盛上人から懇願され、善昌寺の住職 (塔頭の1寺、長楽寺の末寺とも) となる。
初めての寺持ちであり、出家して20年の歳月が流れていた。
「慈眼大師の住したまう寺なり、
関東にて寺を持ちたまうは当寺なり」(新編上野国誌)
四明ヶ岳 (比叡山の山々、天台宗の聖地) への想いに抗しがたく、修業に出る事を決意し雲水の僧となる。
当時は周囲が戦乱の地になっており、しばらく入山する手段・経路を見出せず、時が至るのを待つしかなかった。
この年、武蔵国川越/蓮馨寺に立ち寄り、一途な住職/存応源誉と広学な随風 (天海) とが、お互い語り論じている。
明智光秀の口添えで甲斐国/武田信玄からの招聘を受け、亮ェとともに甲府に長らく逗留する。 織田信長が9月14日に比叡山を焼き打ちしたため、移住を決める。
皆が尻込みする講師になるクジを当て天台論議を開くと、その博学に信玄を含め聴衆を圧し心を取り込み、精義が終わるまで誰も日が没したことに気付かなかったという。
随風 (天海) の名声は知らぬ者はいなくなり、信玄も帰依する。 比叡山から逃れて甲斐にいた正覚院豪盛法印の評価も高く、慧心流の印信を授けられた。
名声は、故郷/会津まで知れ渡った。
領主/蘆名盛氏公は、父母やの冥福を弔い宗族の守護のため故郷に戻ることを、近臣を派遣して切に願い出た。
盛氏は、随風 (天海) の外祖父/修理大夫盛高の次男/遠江守盛舜の息子であり、親族で再従弟にあたる。
2月
招聘を受けることを決意、信玄に帰国することを伝えた。
黒川城(鶴ヶ城)の稲荷堂の別当 (僧侶と神職を兼務) となり、約10数年間にわたり会津にて教義を広めた。
<参考>
7月、織田信長が15代将軍義昭を京都から追放し室町幕府が滅亡する。
天寧寺の善恕仁庵から、禅の教え (中国の仏教書碧巌録) を学ぶ。
<参考>
6月21日、本能寺の変。
6月10日
6月5日の摺上原の戦いで蘆名軍が敗れたため、甲冑に身を包み蘆名義広公を護るため黒川/稲荷堂から出て、常陸国 (義広公の実家) へ向かう。
一族である蘆名氏が滅ぼされてから、会津の地に戻ることはなかった。
途中で落人狩りに出会うも、
「汝ラ累代ノ重恩ヲ忘レ 虎狼ノ心ヲ挟ミ 孤弱ノ主ヲ売リテ 膝ヲ仇敵に屈ス 是非傾倒 天 焉ンゾ容サンヤ 我ハ仏師ナリ 帝釈諸天 常ニ我ヲ加護セリ 今ヤ義ニヨリテ身命ヲ棄テ 汝ラノ無道不忠ヲ天ニ訴エン」
と大喝するや、腰を抜かして号泣する者のほかは、散り散りに逃げ去った。
この時に身に着けていた甲冑2領は、大阪城天守閣と慈賀院に所蔵されている。
後に、伊達政宗は面会を懇願する書状を何度も送っている。