鶴ヶ城と同じく日本100名城 (24番) の1つ。
永正16(1519)年、甲斐国守護/武田氏の本拠地に築かれた館で、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とも。
60年余りにわたって、信虎・信玄・勝頼の3代が居住。
天海大僧正が武田信玄の帰依を受け、長らく逗留。
跡地は、武田神社 (祭神:武田信玄)。
国の史跡に指定。
武田信玄は、領主/蘆名盛氏と同盟を結び、天海大僧正に帰依し、次女/見性院は藩主/保科正之の養育母、5女/菊姫が藩主/上杉景勝の正室、6女/信松尼が保科正之の母/於静を庇護するなど数多くのご縁がある。[関連項目と併記]
▲(甲府市古府中町2611 Tel. 055-252-2609)
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (25番) の1つ。
舞鶴城、甲斐府中城、一条小山城、赤甲城とも。
天正11(1583)年、豊臣秀吉の命により築城。
天正13(1585)年、コ川家康の命とも。
徳川幕府が開かれると、直轄地の城下は大いに栄える。
明治6(1873)年、廃城。
▲(甲府市丸の内1-5-4)
将軍/秀忠の4男/幸松丸 (保科正之) の生母/於静。
寛永12(1635)年9月17日、死去。 52歳。
「淨光院殿法紹日惠大姉」。
高遠/長遠寺 (後に浄光寺となる) に埋葬されたが、正之の転封により高遠から山形/浄光寺、会津/浄光寺へと改葬される。
慶安3(1650)年9月17日、生前に日蓮宗を信仰していたことから、総本山/身延山久遠寺に改葬、正之自ら遺骨を納めた。
「淨光院法紹日惠靈 寛永第十二年乙亥 九月十七日
孝子會津 從四位上左近衞權少將 源朝臣正之奉祀
顕妣神尾氏以天正甲申 生于相州小田原城下 卒于信州高遠□五十有二歳」。
日蓮上人の御墓に隣接 (直弟子の直檀廟の左側) した篤信廟にある。 篤信の誉れ高く身延山への丹精が偲ばれる方々の墓所とされている。
上人が9年間も住んでいた御草庵跡の上の壇。
徳川家康の側室/養珠院、水戸徳川光圀の母/久昌院、丹後宮津京極高国の母/寿光院とともに眠っている。
▲身延山久遠寺御廟所 (身延町身延3628)
大永元(1521)年11月3日〜元亀4(1573)年4月12日 (53歳)
幼名:太郎、勝千代。 通称:太郎。 名:晴信、機山。 出家後:信玄。
父/武田信虎、母/大井の方。
「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎・甲斐の龍と恐れられた最強の戦国大名。
上杉謙信と国境を接していなかったら、天下を統一したであろうといわれる。
「法性院機山信玄」
極秘に火葬し、死を3年間も秘して埋葬されていた地とされる武田家臣/土屋昌続の邸内。
後に「法性院信玄大居士 四月十二日葬」と刻まれた石棺が発見されたため、武田家の旧臣たちが墓碑を建立。
墓石「法性院大僧正機山信玄之墓」。
▲(甲府市岩窪町246)
武田信玄の父/信虎が信州で死去したため遺骸を搬送し、この地に埋葬された。 後に武田3代の霊廟が建立。
法堂、庫裡などは戦火で焼失したが、武田3代の霊廟、総門、宝蔵は免れ、霊廟に3代の肖像が安置されている。
霊廟の裏に信玄、信虎、勝頼と3代当主の墓が並んでいる。
▲(甲府市古府中町5015
Tel. 055-253-2518)
入口すら非公開。
天正4(1576)年4月16日、遺言通り3年後に勝頼が、この寺で葬儀を催している。
▲(甲州市塩山小屋敷2280)
寺記では穴山信君の墓と伝わるが、穴山義武・満春との説が有力とも。
墓は飯岡墓地・霊泉寺、慰霊墓は大乗寺などにある。
▲(韮崎市穴山町1509
Tel. 0551-25-5485)
山門から直線80メートルほど。
昔は境内の内だったと思われる。
正式名称:加賀美山法善護国寺。
通称:遠光大明神も。
▲(南アルプス市加賀美3509 Tel. 055-282-1693)
▲(甲府市伊勢2-2-3
Tel. 055-235-1783)
嫡男/秋山太郎光朝夫婦の墓に挟まれて中央に鎮座。
秋山太郎光朝が「光朝寺」と称し開基、後に光昌寺に改称。
傍らに、家族 (秋山家子孫) か、家臣のものと思われる墓塔が集められている。
▲(山梨県南アルプス市秋山567)
近くに、嫡男/光朝の館跡 (城廓) がある。