偉     人     伝

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名 君 / 保 科 正 之 公 の 略 歴

 保科正之公の生涯は、3つの時代に分けられる。

 ◇ 父子と名乗れぬ不遇な時代
   将軍/秀忠の4男として生れながら、恐妻家の父ゆえに身元が明かされず、信松尼見性院に庇護されながら転々と居を移し、最後には小藩の養子となる。
 しかし、この時代の苦労が、後に開花する才能を育むことになる。
 ◇ 幕閣として開花する時代
   実直な人柄に、家光は惚れ、重用するようになる。
 弟であると知った家光の信頼は、さらに確定的なものとなり、終生続く。
 正之公は期待に答え、影となり幕府を支える。
 次兄の忠長にも大変気に入られ、祖父/徳川家康の遺品などを贈られる。
 ◇ 後見人として幕政を担う時代
   幼い将軍/家綱(甥)の輔弼役(実質的な副将軍)を全うし、幕府の武断政治から文治政治へ転換を成し遂げる。家綱時代の3善政 (三大美事) といわれる
  「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制度の廃止」
は、すべて正之公の提言である。

父 子 と 名 乗 れ ぬ 不 遇 な 時 代

慶長16(1611)年

 母/於静 (志津、浄光院) は、再び懐妊した。
 兄/神尾嘉右衛門政秀宅に下がり、嫉妬深い於江與を恐れ、再び堕胎しようとした。
 しかし、弟の神尾才兵衛政景が大反対した。
  「正しく天下将軍様の御子を再度まで水と成し奉り候儀天罰恐ろし義
 皆が賛同し、一族に累が及んでも、出産させる事に決した。
 その日の夜、姉婿/竹村助兵衛次俊 (神田白銀丁=本銀丁) に身を寄せた。 [地図]
 報告を受けた秀忠と大乳母殿は、老中/土井大炊頭利勝や井上主計頭らを通じ、武田信玄の次女/見性院に於静の保護を依頼する。
 すぐさま見性院は、妹/信松尼を呼び寄せ、家臣/有泉五兵衛夫婦を世話役として派遣し、胎児が安定するまで養生の世話役をさせる。
 信松尼は、武田信玄の6女で、出家前は松姫の名であった。
 後に正之公は4女が生まれると、「松姫」と名付けている。

 天正12(1584)年、於静は北条氏直の家臣/神尾伊予栄加の4女として、小田原にて誕生する。
 天正18(1590)年、秀吉の小田原攻めで北条家が敗れ父が浪人となったため、一家は江戸に出て、於静は将軍/秀忠の大乳母殿 (井上氏) に従い大奥に入る。
 慶長14(1609)年晩秋、将軍/秀忠の寵愛を受け懐妊したが、秀忠の正室/於江與の異常なまでに嫉妬深いことを恐れ、兄/嘉右衛門政秀宅で最初の子を堕胎した。
 秀忠は於静を忘れられず、大乳母殿に懇願し、再び大奥に戻した。
 以前にも増して寵愛され、再度の懐妊となる。

<補足> 側室を持たなかった将軍は、「2代/秀忠」と「7代/家継」の2人だが、
    家継は8歳で夭折なので、実質的には秀忠1人だけである。

2月
氷川神社  於静が武蔵野国/氷川神社 (さいたま市大宮区) に、安産の願文を奉納。
 於静は、秀忠の正室/於江與の追及を逃れるため、次々に住む処を変えていた。

5月 7日 亥の刻 (22時頃)
 2代将軍/徳川秀忠の4男 (母/於静、庶子) として、竹村宅で誕生。

5月 8日
 竹村助兵衛は、男が誕生したため、南町奉行の米津勘兵衛に出生を届ける。
 勘兵衛は、老中/土井利勝に伝える。

5月 9日
 早朝、土井利勝は湯殿において秀忠に報告した。
 聞くや秀忠は、人目を憚らず、大いに喜んだという。
 自ら「幸松丸」と名づけ、葵の紋の着物を手渡し、穏便に養育するよう指示。

「男を擧ぐるに及びて次俊之を町奉行米津勘兵衛に告ぐ、勘兵衛老中土井大炊頭利勝に告ぐ、利勝之を大將軍に白す、大將軍手自ら葵章服を執りて之を賜ひ、名を命じて幸松丸と稱せしむ、是に於て端午に葵章旛を次俊宅に建つ、是より事の幸松丸に関わるものは、利勝、勘兵衛之を掌る、次俊は榮華の族なり」

慶長18年(1613)年  〈3歳〉

 幸松丸は竹村助兵衛宅で育てられていたが、異常なまでに嫉妬深い正室/於江與が探索しているとの噂を聞くにおよび、於静は大乳母殿に訴えた。

3月 1日
 老中/土井利勝と本多正信が、再び信松尼の姉/見性院に幸松丸の養育を依頼する。

3月 2日
 見性院は、家臣/野崎太左衛門と有泉重治を迎えに行かせ、幸松丸と母/於静が田安殿/比丘尼屋敷に移り住む。  [配置]
 見性院から守り刀として贈られた三条宗近作の短刀は、その後、保科家の家宝になった。 付き添い頭/野崎太左衛門と有泉重治は、この日から幸松丸に仕える。

「大將軍将軍濳に利勝及び本多佐渡守正信に命じ、武田氏に託す、武田氏心を盡して保護し、三條宗近作の刀を贈る、武田氏嘗て大奥に出入りし、夫人淺井氏の厚顧を愛く、幸松丸を託せらるゝに及びて復た大奥に入らず」  <武田氏とは見性院のこと>

 間もなく、於江與の知るところとなる。
 使者をもって責める於江與に対して、見性院は、
  「預かっているのではない、養子に頂いたのだ」
   (我甲松丸を以て子と為す、假令夫人の譴責を受くるとも之を放つ能はず)

と、はねつけた。
 見性院は、「甲斐」と「松平」をかけて「幸松」を「甲松」と書き改め「武田甲松君」と呼んでいたと伝えられ、心の中では武田家再興を本気で考えていたといわれる。
 いずれにせよ見性院の許で、幸松丸は健やかに成長した。

信松尼(松姫)の墓

元和2(1616)年  〈5歳〉

4月16日
 幸松丸の庇護者の1人/信松尼 (見性院の妹) が死去。 56歳。

4月17日
 祖父の徳川家康が駿府城にて死去。 75歳。

元和3(1617)年  〈7歳〉

 当時の倫理「男女七歳にして席を同じうせず (礼記)」や、高齢の身をかんがみ幸松丸の将来を案じた見性院は、老中/土井利勝と相談し、親しかった保科正光 (元/武田氏の家臣) の養子にすることが、秀忠の内諾を得て決定された。

「武田氏以爲く、男兒を育するは婦人の能く爲す所に非ずと、及ち之を大將軍に告げ、保科肥後守正光に託すなり」

11月 8日
 母/於静と野崎太左衛門、有泉金弥、万沢権九郎 (いずれも見性院の臣)、神尾六左衛門友清 (於静の兄/嘉右衛門政秀の3男)、女3人、僕婢各々2人を従え比丘尼屋敷を出立する幸松丸を見送る。
高遠城  その日、見性院の目から涙が枯れることはなかったという。
 わずか7歳の有泉金弥 (新左衛門勝長) は小姓として幸松丸に後も仕え続け、後に会津藩/有泉家の祖となる。

11月14日
 幸松丸一行が、信州/高遠城に入る。
 
 前日の13日、高遠藩領に入り、御堂垣外宿場に投宿した。
 宿場の女中の噂話に耳を傾けていると、養父/正光には左源太という養子がいると知ってしまう。
 幸松は「すでに左源太という子がいるから行かぬ」と駄々をこね始めた。
 母/於静の繰り返される説得で、嫌々ながらも高遠城入りを承諾する。
 
《補足》  正光には、腹違いの弟/正貞と、甥の左源太の2人が養子になっていた。
 幸松が養子になったことで、正貞は廃嫡された。
 もう一人の左源太は、嫡子ではなかったが、養父/正光よりも先の寛永4(1627)年1月3日に死去。
 後に幸松が徳川一門なるや、廃嫡となっていた正貞に保科氏正統を継承させるべく、保科家累代の品々を譲り、大名として上総飯野藩/保科家を立藩させた。
 その後、上総飯野藩と会津藩は、幕末まで特別な関係が続く。
 
 義父/正光は、将軍の子といううことで気遣いをしたようで、見晴らしの良い南郭に新しく御殿を造り迎えており、しばし母/於静と穏やかな日々を過ごす。

元和4(1618)年  〈8歳〉

(この年)
 ◇ 幸松丸の養育費として筑摩郡洗馬郷5千石が加増され、高遠藩は3万石となる。
 ◇ 後に正之公の正室となる菊姫が、内藤政長の娘として誕生。
   (1619年とも)

元和5(1619)年  〈9歳〉

2月
 江戸に上京し、見性院を訪れる。

元和6(1620)年  〈10歳〉

3月
 高遠に帰る。

4月
 見性院から、武田信玄の遺品である紫銅鮒形の水滴 (水入) を贈られる。

(この年)
 ◇ 保科正光養子/左源太を義絶し、幸松丸を養継嗣子にとの遺言をしたためる。
 ◇ 後に正之公の継室となる於萬が、京都上加茂の神主/藤木弘之の娘として誕生。

元和8(1622)年  〈12歳〉

見性院の墓

5月 9日
 見性院が比丘尼屋敷にて死去。
 幸松丸を手放して、5年後のことであった。
 梅雪の家臣/有泉勝重の子/重治によって葬儀が営まれ、采地にある清泰寺に埋葬された。     .
 79歳 (77歳とも)。
 「見性院殿高峯妙顕大姉」。
 幸松丸は大変悲しみ、阿弥陀堂を墓側に造る。

元和9(1623)年  〈13歳〉

(この年)
 ◇ 幕府碁詰所勤めの安井算知から囲碁を学ぶ。
 ◇ 天龍川で水練を学ぶ。

寛永2(1625)年  〈15歳〉

12月
 江戸へ上京。

寛永3(1626)年  〈16歳〉

9月
 秀忠の正室/於江與が死去。 54歳。

10月
 高遠に帰る。

寛永4(1627)年  〈17歳〉

 後に正之公の側室となる於塩 (牛田氏) が、誕生。
 (1623年とも)

寛永5(1628)年  〈18歳〉

12月
 江戸に上京。

寛永6(1629)年  〈19歳〉

6月24日
 養父/正光に従って、江戸で将軍/秀忠に初めてお目見えした。
 しかし、父子の名乗りは、なかった。
 7月27日に兄/家光が将軍に就任し父/秀忠は江戸城西の丸に隠居したため、最初で最後の親子の対面であった。 隠居を決めた時期であり、将軍在任中に会っておこうという父の想いからであったとされる。

9月
 養父/正光に従って駿府に赴き、兄/忠長 (秀忠の3男) と対面する。
 忠長は大いに喜び、守家の刀、鷹、馬、白銀五百枚と、家康の遺品/葵章服を贈る。

寛永8(1631)年  〈21歳〉

初夏
 秀忠が病に臥したため、養父/正光とともに江戸へ移る。

10月 7日
 養父/保科正光が滞在中の江戸で死去。 71歳。
 大いに悲しみ、高遠に戻り、高遠/建福寺に墓を建立。

11月 8日
 元服して、「幸松丸」改め「正之」となる。

11月12日
 高遠藩3万石を相続する。

11月18日 (27日とも)
 家督相続が許された御礼に、将軍/家光に拝謁する。
 3万石ほどの小藩で、お供の5人もの家老が同席するという異例の拝謁であった。

11月28日
 正五位下、肥後守兼左近衛中将に叙任する。
 以後、肥後守と呼ばれる。
 秀忠は祝いとして爲清の刀を贈るが、父子であることを表明しなかった。

12月
 目黒で鷹狩りをした家光は共の者とはぐれてしまい、御供だと身分を隠して、通りすがりの成就院で休息した。
 将軍とは知らない住職/舜興和尚が、世間話の中で、
 「保科肥後守殿は将軍の御弟君なのに、わずかな領地で貧しく暮らしており、
  おいたわしい。 我ら賤しき者でも兄弟は仲良く助け合うのに

  (聞く肥州は実に大将軍の弟なりと 然るに其禄甚だ少なし
   何ぞ貴人の友愛の情に薄きこと此の如きや「藩翰譜/新井白石」
)
と嘆くのを聞いて、保科正之公が異母弟であることを初めて知った。《伝》


お静地蔵  通りすがりに入った成就院は、偶然なのか、仏の導きなのか、正之公の母/於静が檀徒として、観音・地蔵・阿弥陀如来の石仏像を寄進した寺であった。
 地蔵などの石仏像は現存しており、「お静地蔵」として縁結び・子宝・子育て・出世・開運の御利益があるとされ、人々の信仰を集めてきた。
 家光が弟と確認できたのは、寛永9(1632)年の父/秀忠が死去した際に伝えられたからとも云われる。

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