傑堂 能勝 |
けつどう のうしょう、 文和4/正平10(1355)年〜応永34(1427)年8月7日 (73歳) 俗名:正能、正勝。 武将/楠木正儀の嫡男として河内 (大阪府) にて誕生。 京都生まれとも。 応永元8(1394)年、越後国岩船郡 (新潟県村上市) に耕雲寺を開創。 応永28(1421)年、蘆名盛信公が天寧寺を創建し、傑堂能勝が開山。 4年間じ和尚を務め、弟子/南英謙宗に後を託し耕雲寺に戻る。 天寧寺などを行き帰り、多くの弟子を育てる。 応永34(1427)年、耕雲寺にて入寂。 |
見性院 |
けんしょういん、天文15(1546)年〜元和8(1622)年5月9日 (79歳) 武田信玄と母/三条夫人(正室)の 次女 として甲斐国にて誕生。 本名は、「千代」と「まつ」の2説があり定かでない。 永禄年間、武田家臣で親族衆筆頭/穴山信君 (梅雪) の正室になる。 信君は武田信玄の姉の子であり、信玄の次女を正室とした。 元亀3(1572)年、嫡男/勝千代を出産。 天正10(1582)年、夫/信君は武田攻めで織田信長・徳川家康方に付き、その功績により所領が安堵され、家康の与力となる。 同年に本能寺の変が勃発すると、夫/信君は家康と共に畿内から脱出するが、途中で一揆の襲撃を受け死去 (殺害、自刃の2説がある)。 天正15(1587)年、嫡男/穴山勝千代 (武田信治) が16歳で夭折し、穴山家は断絶してしまい、見性院と名乗り仏門に入る。 後に、家康の5男/万千代 (信君の養女で家康の側室/下山殿の子) を養子にし、水戸15万石の城主として穴山武田家を再興するが、21歳で急死し再び断絶してしまう。 武田遺領を得た家康は、遺臣を家臣にしており、見性院も江戸城/田安門内の比丘尼屋敷と、采地として武蔵国足立郡大牧村が与えられる。 慶長16(1611)年、将軍/秀忠の侍女が懐妊した噂を聞き、妹/信松尼を呼び寄せ、家臣/有泉五兵衛夫婦を世話役として派遣し、胎児が安定するまで養生の世話役をさせ、無事に幸松丸 (保科正之公) が誕生。 武田家の再興のため、それなりの養子を探していたと云われる。 慶長18(1613)年、老中/土井利勝と本多正信から養育を依頼される。 翌日、家臣/野崎太左衛門と有泉重治を迎えに行かせ、幸松丸と母/於静を比丘尼屋敷に引き取る。 間もなく、将軍/秀忠の正室/於江與は側室を認めないほど嫉妬深く、知るや嫉妬に狂い責めるが、臆することなく、はねつけた。 「預かっているのではない、養子に頂いたのだ (我幸松丸を以て子と為す 仮令夫人の譴責を受くるとも之を放つ能はず)」 元和2(1616)年、妹/信松尼が死去。 元和3(1617)年、当時の倫理「男女七歳にして席を同じうせず (礼記)」や、高齢の身をかんがみ幸松丸の将来を案じ、老中/土井利勝と相談 (男児を育するは婦人の能く為す所に非ず)、親しかった保科正光の養子にすることが、秀忠の内諾を得て決定された。 保科正光の養子となり信州/高遠城へ出立する幸松丸を見送った日、見性院の目から涙が枯れることはなかったという。 元和6(1620)年、訪ねてきた幸松丸に、武田信玄の遺品である紫銅鮒形の水滴 (水入) を贈る。 元和8(1622)年、田安の比丘尼屋敷で死去。 幸松を手放した5年後であった。 葬儀は。夫/信君の家臣であった有泉勝重の子/重治が執り行った。 「見性院殿高峯妙顕大姉」 墓は清泰寺。 宝篋印塔は平林寺。 承応3(1654)年、元服した保科正之公 (幸松丸) が霊廟/阿弥陀堂を建立し、終生 菩提を弔う。 本尊の阿弥陀如来像は、見性院の面影を写したと伝わる。 寛文11(1671)年、50回忌の際、御茶湯料として清泰寺に田地を寄進。 元禄9(1696)年、会津藩から膳具一式が寄進され、同年に松平姓と三つ葉葵が見性院に許される。 享保6(1721)年に100回忌、明和8(1771)年に150回忌が会津藩によって営まれ、文化5(1808)年8月に墓誌が建立。 文政4(1821)年の200回忌に松平容衆公が霊廟を再建。 後に倒壊し、門扉だけが現在の墓前に残る。 安政4(1857)年、墓標の欅も暴風雨で倒壊。 安政5(1858)年、松平容保が現在の墓を建立。 現在でも、会津松平家関係者の参拝は続いているとのこと。 |
源翁心昭については、こちら。 |
《殉難者》 | 下司伊兵衛 |