会  津  の  著  名  人

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《 あ 》 幕 末 よ り 前

 会津壮麻呂  あいづたけまろ、生年不詳〜延暦8(789)年5月
 正式:阿倍会津臣壮麻呂 (あべ あいづおみ おさのまろ)。
 古代会津での有力豪族の1人。
 神護景雲3(769)年、阿倍会津臣の姓を賜る。
 延暦8(789)年、征東大将軍/紀古佐美に従軍し蝦夷首長/阿弖流為との戦いで戦死。 紀古佐美軍は兵1万にもかかわらず、蝦夷軍1千5百に翻弄され、戦死25人・矢で負傷245人・河で溺死1千36人と大敗。
 赤井 因幡  あかい いなば、生没年年不詳
 幼名:五郎左衛門。 名:正道
 蘆名盛舜公の家臣。
 大永3(1523)年、猪苗代湖畔の中村に青山館を築き、居住。
 東西52間、南北50軒。
 村名を赤井と改称し、現在も地名として残っている。
 郎等とともに居住していた城下町の場所は、赤井丁(日新町)と呼ばれていた。
 明石 貞興  あかし さだおき、慶長14(1609)年〜寛文9(1669)年
 通称:作左衛門 (通し名)。
 保科正之公の兵器方勤。 種子島/稲富流砲術と今井景流居合術の祖、鉄砲の鋳造もしたという。
 寛永14(1637)年、正之公が山形藩主の時に、江尻治左衛門吉次と共に召し抱えられる。
 会津移封に従い、その後も研究と改良を重ねて、会津藩稲富流砲術の始祖とされる。

《明石重貞》
 明石貞興の嫡男。 通称:作左衛門。 <兵器方役>
 稲富流砲術の改良を加え、種子ヶ島琉に改称する。
 藩命により泉州堺 (大阪) へ赴き、十匁弾銃 100挺を鋳造。
 その後も数回、横田清真などと堺へ出向き、銃の鋳造技術を磨く。
 明石家は代々、痘瘡の調剤も行い、幼児に施していた。
 明暦 2(1656)年には、正純に調剤している。
 元禄14(1701)年3月21日、死去 (元禄11年とも)。「壁峰慈鉄居士」
 墓は大龍寺だが、近年、無縁墓地へ整理されたとのこと。 [暮石]
 嫡子がないため明石家は絶家となる。

 蘆名氏については、こちら

 穴沢氏  あなざわし、  <土豪、蘆名氏の家臣団>
 文明18(1486)年、蘆名盛高公が山賊に対応するため仙道穴沢郷/穴沢越中俊家を、出羽国との国境付近/檜木谷地に配した。 俊家は一族郎党を率いて地名を「檜原」と改めて移住、難なく山賊を制圧し山賊対策から米沢/伊達氏の防備へと役目は変わるもの、黄金を産出する檜原村の領主を代々務める。
 当時の檜原村は、磐梯山噴火により桧原湖の底。
 永禄7(1564)年、俊家の孫の当主/穴沢俊恒 (加賀守信徳) は、侵攻してきた伊達軍1.500余人を、480余人で待ち構え、大打撃を与えて撃退。
 再攻撃に備えるため戸山城を築く。
 永禄8(1565)年、伊達軍約800人が戸山城を奇襲し、双方に大きな被害を出すが、何とか撃退する。
 戸山城に弱点が判明したため、新たに岩山城を築く。
 永禄9(1566)年、伊達軍1,000余人の奇襲を受けるが、撃退する。
 しばらく、平穏な年月が過ぎる。
 天正12(1584)年、蘆名盛隆公の急死により、伊達家との間が悪化。
穴沢氏の墓  同年、従弟/穴沢四郎兵衛の裏切りにより、家督を継いだばかりの伊達政宗公に檜原を占領され、当主/穴沢俊光 (信堅とも) は戦死 (自刃) し、一族の大半が戦死、生き残った者は惨殺される。 墓は渇水時に湖底から移設。
穴沢氏の墓 穴沢氏の墓

 北条氏の小田原城へ赴いていた嫡男/穴沢俊次と、不在だった6男/穴沢善七郎重だけが生き残り、穴沢氏の血筋は絶えずに済んだ。
 俊次は、残った穴沢一族とともに柏木城に入る。
 天正13(1585)年、侵攻してきた伊達軍を撃退。
 天正17(1589)年、柏木城を避けて侵攻した伊達軍により蘆名氏滅亡。
 その後、俊次は蒲生氏郷公に仕え、俊次の嫡男/新八郎光茂は保科正之公に仕えて檜原村の口留番所 (関所) の役人として幕末まで続く。
 安部井 帽山  あべい ぼうざん、安永7(1778)年〜弘化2(1845)年1月26日 (68歳)
 名:褧。 通称:弁之助。 字:章卿。 号:芝浦。
 安田厚伯範光の長男。
 藩の儒者/安部井澹園の養子となる。 安部井政治の養祖父。
 父/範光の医業は、弟/小池孚光が継ぐ。
 若くして寝食を忘れ学問に没頭し、祭にも出ず戸を閉め独り読書を続け、睡眠も数時間しかとらず寝所に入るのは月に数日だったという。
 享和 3(1803)年、司業 (儒者/古学) 添役雇勤に就く。
 文化元(1804)年、家禄を継ぎ、司業に就任。
 文化 8(1811)年、藩命により江戸に上京し、幕府の儒学者/林述斎や、昌平黌の儒学者/古賀精里らに師事し、朱子学を学ぶ。
 文化11(1814)年、帰郷し日新館の学規改革に取り組みながら、松平容敬公の侍講に就く。
双徳碑 安部井帽山(naka-上)  「日新館童子訓」「新編会津風土記」の編集に携わり、当時、藩随一の学者と称される。
 藩命による「四書訓蒙輯疏/29巻」などの他にも著書が多い。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。 「帽山先生之墓 弘化二年正月廿六日没 安部井瓣之助
 双徳碑は飯盛山 (高津平蔵との碑)。
 鮎川せん  あゆかわ せん、    〜承応元(1652)年12月21日
 「千」とも。  藩士/鮎川市左衛門の許嫁 (妻との説も)。
 承応元(1652)年1月25日の早朝、本二ノ丁の鈴木杢之助宅前の側溝で、藩士/安武太郎右衛門という若者の死体が発見された。
 顔の皮を剥ぎ、何度も刺され、あげくは肛門から刀を差し貫くという猟奇事件であり、早急なる事件解明を迫られた藩は、鮎川市左衛門たち5人の容疑者を捕縛する。
 美青年/町野権三郎をめぐる衆道で宮本四郎左衛門が殺害したのであったのに、知ってか知らずかは不明だが、日ごろの所業の悪さを理由に鮎川に切腹を命じてしまう。
 鮎川家がお家断絶となってしまったため、せんの親族は叔父の養女にして婿を迎え跡継ぎに、と決めてしまう。
 姑となるはずだった鮎川の母が、息子の切腹で病に伏せたため、介護をしたいとの訴えも聞き入れられず、市左衛門の忌日を持って、
 「忠臣は二国に仕えず、貞女は二夫にまみえず
の遺言と、辞世の句を残して自害した。 享年17歳。
 「手枕の 透間の風も いとふ夜に
   (さぞ)やそとはの 寒くやあらなん

 伝え聞いた保科正之公は、藩の重臣が居並ぶ中「婦人の鑑」として称賛した。
 近年まで貞女の鑑とされ香華が絶えることなどなかったが、今では訪れる人も少ないとのこと。
 墓は、宗英寺。  [資料]
 荒井 真庵
[肖像]
 あらい しんあん、生年不詳〜宝永6(1709)年4月7日
 〜元禄10(1697)年3月10日死去とも。
 <養伯と共に会津/藤樹学の祖>
<大河原養伯と併記> .

 墓は、宗英寺 (無縁墓に整理)。
  [整理前]
 「桃岳慈縁信士」
 荒川 梅二  あらかわ うめじ、生年不詳〜慶応3(1867)年
 正式:荒川類右衛門勝国、孤芳庵、幸園、柱石とも。
 荒川類右衛門勝茂の実父。 家老/北原采女の家臣。
 若松俳壇の第一人者で、大町二之町に住み、多くの門弟を育てた。
 息子/勝茂が編纂の「梅二発句集」は、戊辰の役で焼失。
 墓も宝昌寺だったが戦火で廃寺となり正法寺に合祀とのこと。
 有賀 満辰  ありが みちたつ、生年不詳〜宝永4(1707)年2月9日
 通称:小一郎。  <神道家>
 有賀満家の4男。
 江戸遊学を命じられ、後に上洛し山崎闇斎に師事し門下となる。
 寛文5(1665)年、保科正之公に迎えられた闇斎を護衛して、無事に会津に戻る。
有賀満辰の墓  闇斎からの信頼は厚く、編集中の「洪範全書」の手助け者として正之公に願い出て許諾を受け、満辰に手伝わせて完成させた。
 寛文12(1672)年、正之公の葬送に携わる。
 元禄元(1688)年、大目付に就任。
 元禄15(1702)年、長井定宗の藩札発行を断行の責で切腹した事件に連座して家禄没収。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 「有賀小弌郎満辰之墓
 後に、第五子/淺岡玄通は藩の儒医に就く。
 ※ 別の資料には、「有賀満武」とある。
   も存在している (満武神霊)。 ??
 安藤 有益  あんどう ゆうえき、寛永元(1624)年〜宝永5(1708)年6月25日(85歳)
 通称:市兵衛。 出羽国/最上出身の算学者、和算家。
 山形藩へ入封の保科正之公から茶坊主として召し抱えられる。
 慶安3(1650)年、算学の才を認められ勘定役に抜擢される。
 寛文6(1666)年、師/島田貞継と共に磐梯山飯豊山を測量。
 滝沢峠や冬坂峠の測量のほか、猪苗代湖の水利治水や、田畑の測量事業などでも活躍している。
 寛文2(1662)年、注釈書「竪亥録仮名抄」を著す。
 寛文3(1663)年、宣明暦の研究書「長慶宣明暦算法」を著す (延宝4年とも)。
 貞享4(1687)年、長暦「本朝統暦」を編纂。
 元禄元(1688)年、猪苗代開拓を巡る政争に巻き込まれ郡奉行の責として耶麻郡極入村 (西会津町奥川大字飯根) 幽閉されが、魔方陣の研究に没頭し、 元禄9(1696)年には世界初の魔方陣解説書「奇偶方数」を著し、藩に復帰する。
 元禄10(1697)年、普請奉行に就く。
 墓は、高さを計測した磐梯山・飯豊山や城下が望める大龍寺の高台に葬られた。
 「雄岳全機居士 .」、85歳。
 その他の著書「東国物語」など。

安部井武氏 安部井浩 荒井十左衛門      

《 あ 》 江  戸  幕  末

 会津小鉄  あいづこてつ、 本名:上坂仙吉 (こうさか せんきち)。
 天保4(1833)年5月20日〜明治18(1885)年3月19日 (53歳)
 元/水戸藩士とされる浪人と、大阪/島之内の太物商の娘との私生児として、大坂で誕生。
 天保6(1835)年頃、父が水戸に帰ってしまったため、母は仙吉を連れて水戸へ向かうが、途中で病に倒れ死去 (行方不明とも)。
 弘化2(1845)年頃、福知山に預けられ、剣術を覚える。
 嘉永2(1849)年頃、人を殺め無罪となるも、堅気の生活を諦める。
 嘉永6(1853)年頃、縄張り争いで大騒動を起こし、江戸へ出奔する。
 嘉永9(1856)年頃、江戸の会津藩中間部屋に採用、しばらく仕える。
 短躯であったため会津部屋の小鉄と呼ばれていたが、後に上坂仙吉と改める。
 その後、京都に戻り、下京区三ノ宮通リに居住する。
 京の顔役/大垣屋清八に見込まれや頭角を現し、二条新地大文字町に一家を構える。
 文久2(1863)年、会津藩が京都守護職として上洛するや、知遇を得ている会津藩中間部屋頭の元締に若くして就く。
 元治元(1864)年、池田屋事件や禁門の変での活躍で、たびたび討幕派から狙われるようになる。
 慶応元(1865)年9月、木屋町/お茶屋で会津藩士と談合中に襲われる。
 慶応3(1867)年、討幕派の浪人を殺し捕まるが、会津藩が助命する。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いが勃発するや、子分500余人を動員し軍夫とした戦いに臨むも、総大将/徳川慶喜の敵前逃亡により大坂への退却を余儀なくされる。
 その後は京に残留し、東軍戦死者の埋葬禁止令の中、死を決して子分200人ほどを動員し、無残に放置された会津藩・桑名藩の遺体を探索・収容・荼毘に付して埋葬した。
 籠城戦の最中、が包囲している鶴ヶ城下に潜入し、鳥羽伏見の戦いでの戦死者遺品を届けている。
 さらに、会津墓地を破壊しようとするから西雲院/住職と共に死守、命を助けられた恩を終生忘れず清掃や維持管理をし続けた。
 毎日、子分3人に掃除をさせ、自らも月に1、2度は出向き菩提を弔うことを死ぬまで欠かさず、京都に住した。
 明治5(1872)年、妻 (1851年?〜1919年) を迎え1子を儲ける。
 明治16(1883)年、賭博で逮捕され、禁錮10月の刑で入獄。
 明治17(1884)年、 出獄するや、洛北北白河の自宅に祝いのため7千余人が集まった。
 明治18(1885)年、下京区の病院で死去。
 「一乗院春誉静窓金剛居士」
 顔も含め全身に刀傷があり、右手は小指と薬指が傷で屈み、左手の指を3本失って食指と拇指のみであった。
 本葬には、1万3千余人が集まった。
 墓は、金戒光明寺

 昭和に入り、浪曲師の初代/京山幸枝若の「浪曲/会津の小鉄」が大ヒットし、広く世間に知られるようになる。
 青木 往晴  あおき もとはる、弘化3(1846)年〜明治43(1910)年
 幼名:初治、通称:隼之輔。
 戊辰の役では、青龍寄合二番隊として越後方面で奮戦。
 戦後は猪苗代で謹慎の後、若松県の役人となる。
 戦地を視察に来た外国人を案内した際、昼食時にビールを振る舞われたという。 ※ 玉屋汁とは石鹸水のこと。
 「その水たるや 薄茶色にして器に移せばたちまち泡を生ずること あたかも玉屋汁のごとし  〜〜〜  苦みに酸味を和し 茶にあらず酒にあらず また口中に適さざるに似て 佳味なきにあらず
 明治3(1870)年、斗南藩/五戸に移住し、権少属に就任。
 斗南藩の消滅後も残留し、青森県庁に仕官。
 青森県警部兼副典獄などを務める
 その後、神奈川県警部、鎌倉や足柄郡長などを歴任。
 赤岡 大助  あかおか だいすけ、文政7(1824)年〜明治11(1878)年9月28日(55歳)
 名:忠良。 字:子誠。 号:三余堂、三友。
 玉木氏の次男。 後に赤岡姓を称する。
 江戸常詰の目付職。
 武芸に秀で、松平容敬公の養女/煕姫(照姫)の薙刀指南役を務める。
 江戸の文人としても著名で「当時現在公益諸家人名録<歌書>/文久元(1861)年」「文久文雅人名録/文久3(1863)年」に記載されている。
 大坂の御蔵奉行として赴任する前に、幼き頃から手習や剣術を教えていた中野竹子を懇願して養女にし、後に甥の許婚とするが戊辰の役の勃発で離縁 (甥との結婚を嫌ったとも) し、竹子は実家に復縁した。
 禁門の変で父を失った平田小蝶も養女とするが、まもなく離縁。
 武芸だけでなく和歌と書にも優れ、江戸では著名な文人と評され「当時現在公益諸家人名録/文久元年刊行」「文久文雅人名録/文久三年刊行」にも名が記載されている。
 戊辰の役の前に禄を離れ、坂下 (会津坂下町) に移り住み、寄宿していた玉木家の隣りで道場を開き、子弟30人ほどを教える。
 戊辰の役後に青森を経て函館に移住し、初の牛鍋屋を営んだという。
 明治11(1878)年、函館にて死去。「迎雲院聖誉音衆来居士」
 墓は北斗市/清川寺とのこと。
 赤城 信一  あかぎ しんいち、天保12(1841)年〜明治29(1898)年
 父は猪苗代/阿部昌信、後に赤城泰和の養子となる。 <漢方町医>
 藩砲兵隊付き医師として鳥羽伏見の戦いに従軍、籠城戦では西洋医学所頭取/松本良順の下で負傷者の治療に努める。
 箱館戦争にも従軍し、函館病院分院 (高龍寺) で負傷兵の治療に当たるが、明治2(1869)年5月11日に捕えられる。
 開拓使からの招聘され北海道に残り、明治6(1873)年に室蘭病院 (市立室蘭総合病院) の初代院長に就任し明治19(1886)年まで院長を務め、その後は伊達・札幌で開業する。
 医事講談会 (北海道医師会) の副会頭を務めるかたわら同会雑誌の編集者も兼ね、北海道における近代医療の普及に尽力した。
 縣 左門  あがた さもん、弘化元(1844)年〜明治34(1901)年2月13日 (58歳)
 藩士/縣岩之進の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役では、青龍隊/半隊頭として御霊櫃口へ布陣。
 後に、白河方面へ転戦し奮戦するも、負傷したため帰郷。
 開城後は、塩川での拘束を経て、高田/長命寺で幽閉(謹慎)。
 その後、斗南藩/五戸七ヶ崎へ移住。
 明治 6(1873)年、すでに藩が消滅のため、三本木原野に移住して開墾に従事するも、屯田兵に応募し琴似村に入植、伍長代務に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発するや積年の恨みを晴らすべく出征し、人吉攻撃戦で大戦功をあげ准陸軍曹長に昇進。
 琴似村に戻り、屯田兵として開墾の尽力。
 明治18(1885)年、屯田兵中尉に昇進。
 明治21(1888)年、屯田兵第一大隊第三中隊の2代/中隊長に就く。
 明治24(1891)年、屯田兵大尉に昇進。
 明治27(1894)年、日清戦争に出征。
 帰国後は琴似で隠居し、謡曲や囲碁を楽しむ余生を送る。
 赤塚 武盛  あかつか たけもり、嘉永4(1851)年〜明治12(1879)年4月7日(28歳)
 藩士/赤塚治定の子。
 戊辰の役では、朱雀隊として各地で奮戦。
 開城後は、高田での幽閉(謹慎)を経て、父に従い斗南藩へ移住。
 明治 5(1872)年、藩が消滅したため、上京。
 明治 8(1875)年、品川警視庁第二方面第五分署/権少警部に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に警視隊として出征。
赤塚武盛の墓   (第二号警視隊四番小隊什長/警部補)
 積年の恨みを晴らすべく戦功をあげ、別働第三旅団第五大隊第八小隊長に昇進し、さらに戦功をあげ「警視隊三人衆」と称賛される。
 明治12(1879)年、非番中に凶悪犯に出くわし斬り付けられ重傷を負うも追跡中、駆けつけた巡査ら10数人に誤認され警棒で強打されて殉職。
 葬式には、非業の死を悼む同僚巡査1千名超えと、当時としては異例の人数が列席した。
 墓は谷中霊園 (脇に「赤塚権少警部碑」)。
 赤埴 平八  あかばね へいはち、
 天保6(1835)年〜慶応4(1868)年8月14日 (34歳)
 藩士の子として日新館の北通りの自宅にて誕生。
 戊辰の役では力士隊/組頭として国境東部の警備に就く。
 第1次白河城奪回戦から第6次まで参戦。
 遊撃隊の組頭/遠山伊右衛門が戦死すると遊撃隊/小隊頭も兼務。
 その後、越後口戦線へ転じ、赤谷の激戦で戦死。
 白兵戦で刀は、のこぎりのようになっていたという。
 墓は大龍寺。 「源徳院殿戦直勇義居士」
 新発田市上赤谷に會藩戦死碑がある。
 赤羽 四郎  あかばね しろう、安政2(1855)年2月〜明治43(1910)年1月28日
 父は御旗奉行/赤羽庄三郎。 特命全権大使。
赤羽四郎の墓  戊辰の役の時は16歳未満のため隊士でなかったが、籠城戦に入り しばらくしてから白虎士中隊に編入され、晴れて白虎隊士となる。
 兄/赤羽恒次郎は、鳥羽伏見の戦いで戦死。
 開城後、猪苗代で謹慎(幽閉)中に学友ら5人で脱走し、主君/容保と藩主/喜徳公への寛大な措置を嘆願している。
 明治5(1872)年、アメリカのエール大学に留学し、外務権少録書記生としてドイツへ、ロシア、アメリカへ転勤。
 明治25(1892)年にはドイツ公使館一等書記官、オランダを経て、明治33(1900)年からスペイン公使となる。
 墓は善龍寺。 55歳。
 秋月 胤永
(悌次郎)
[肖像]
 あきづき かずひさ、文政7(1824)年7月2日〜明治33(1900)年1月5日
 幕末まで:悌次郎。 号:韋軒。 字:子錫。
 藩士/丸山四郎右衛門胤道の次男として下米代二之丁西 (秋月梯次郎生誕之地) で誕生、秋月姓を継ぐ。
 日新館で成績優秀により19歳で江戸留学、23歳からは昌平坂学問所(昌平黌)で学び、27歳で書生寮助役、30歳で舎長となる。
 安政3(1856)年、33歳で昌平黌を卒業すると藩命により九州などの西国諸藩を遊歴、途中で長岡藩/河井継之助と行動をともにしている。
 帰国後、「観光集/七巻」「列藩名君賢臣事実」を著し藩主に献上。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用方・諸藩周旋方 (外交官) に抜擢され、会薩同盟の切っ掛けをつくる。
 慶応元(1865)年に蝦夷地代官となるが、翌年には京に召喚される。
 軍事奉行添役として越後方面に出陣したが裏方に徹する。
 開城を取り仕切り、戦争責任を問われ終身禁固刑となる。
 明治5(1972)年1月6日、幽囚が解かれ招聘され左院少議、文部省御用掛、東京大学予備門の教諭、第一高等中学の教諭などを歴任する。
 明治21(1888)年、妻/美枝子が死去。
 明治23(1890)年、67歳で招聘され熊本第五高等学校の教授となる。
 同僚であったラフカディオ・ハーン (小泉八雲)は、秋月を
 「神のような人、神が姿を表すとしたら秋月先生のような姿だろう」 「聖なる老人」 と崇敬していたことは良く知られている。
 昌平学問所では「日本一の学生(がくしょう)」と呼ばれ、後に「幕末で日本一の秀才」とも称されている。
 晩年は東京に戻り、享年77歳で死去、墓は青山霊園にある。
 市内にも、墓碑/善龍寺や詩碑などがある。
 [史料]
 秋月 登之助  あきづき のぼりのすけ、
 天保13(1842)年〜明治18(1885)年1月6日? (44歳)
 本名:江上太郎種明。
 南山御蔵入奉行/江上又八種順の長男として誕生。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、先備甲士として身辺警護に就く。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いを経て、江戸総引き揚げの際に残留し藩の許可を得て脱藩、秋月登之助と改名して旧幕府軍の第七連隊/歩兵差図役並に就任。
 その後、推されて大鳥圭介の伝習第一大隊/隊長に就任。
秋月登之助の墓  参謀役/土方歳三を従えて関東各地を転戦、宇都宮の戦いなどで活躍するも今市の攻防で土方歳三と共に負傷し、鶴ヶ城下にて療養。
 治癒後に母成峠の守備に就く。
 母成峠が破られ が鶴ヶ城下に侵入すると、馬上から檄を飛ばし敵兵に突入。
 「君恩に報ずるのはこの時である 婦人は内へ 男は外へ出て戦うべし/間瀬みつ伝」
 その後は消息不明 (投獄されたと伝わる)。
 墓は、興徳寺に合祀。
 秋山 左衛門  あきやま さえもん、
 文化9(1812)年〜慶応4(1868)年9月22日 (57歳)
 幼くして厳格方正の性格で学問を好み、藩命により江戸の昌平坂学問所(昌平黌)に遊学し、寝食を忘れて学問に勤しみ、特に「春秋左氏伝」に精通する。
 学問を修め帰国し藩校/北学館/教授に就任、後に医学師範に就く。
 戊辰の役では籠城戦で奮戦するが、降伏の噂が出ると
 「春秋左氏伝では城下の盟を恥とする なぜ降伏を論ずるのか
と悲憤激怒し信じなかった。
 降伏の命が下るや一言も発せず、夜半に銃で胸を撃ち自害した。
 墓は、阿弥陀寺に合祀とのこと。
 同日には、悲憤慷慨した遠山豊三郎 (56歳)、庄田久右衛門 (64歳) の老臣3人が自刃した。
 秋山 清八
[肖像]
 あきやま せいはち、
 嘉永元(1848)年10月〜大正4(1915)年8月6日 (68歳)
 蔵奉行/秋山彦左衛門の長男として材木町 (三番丁、河原町新丁とも) にて誕生。
 幼き頃より才気は秀でており、日新館に入り(10歳)、文武を学ぶ。
 松平容保の京都守護職就任により、17歳で別撰組に選ばれ上洛。
 鳥羽伏見の戦いで奮戦 (右手を負傷) 後に北越戦線へ転戦し、赤谷口の戦いで左足に重傷を負う。 従軍のフランス人軍医に「夷狄 (野蛮人) の世話は受けぬ」と治療を拒否した逸話がある。
 斗南藩に移住するが、辛酸をなめる。
 明治6(1873)年に若松に戻り、マッチ製造会社を興す。
 明治17(1884)年、福島県会議員に初当選。11年間の議員在籍中、岩越鉄道 (磐越西線) の若松乗り入れや 会津中学校設立などに尽力。
 最も尽力したのは学校の設立であった。
秋山彦左衛門の墓  幾度となく開校しては廃校にされる仕打ちを受けるが、教育が重要との信念は変わらず、私財を投げ打って念願の「私立会津中学校 (県立会津高等学校)」を明治23(1890)年に設立させている。
 明治32(1899)年、若松市制施行に際し乞われて初代市長に就任。
 市政の確立に尽くし、東京への清酒の販路拡大にも奔走した。
 大正3(1914)年、乞われて市長(6代)に再任するが、翌年に任期半ばで清貧の中、病に倒れる。
 墓は、大法寺。   [史料]
 浅羽 忠之助  あさば ちゅうのすけ、
 天保2(1831)年〜明治30(1897)年11月9日 (67歳)
 名:茂徳。  藩士/浅羽寛兵衛茂実の長男。
 松平容保の小姓頭に就く。
 文久2(1862)年、容保の京都守護職就任に近侍し上洛。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いが勃発したため、容保の命により1月4日に加藤内記と共に戦場へ赴き、陣将/田中土佐以下の将士を慰労。
 帰城し戦況を報告した後、ひそかに容保が敵前逃亡の徳川慶喜から命じられ東帰に同行したことを知る。
 孝明天皇から賜った御宸翰すら忘れるほどの急な同行であった。
 直前に慶喜が江戸への同行を命じたのは9名であった。
  ・老中   酒井忠惇   ・老中   板倉勝静
  ・外国奉行 平山敬忠   ・大目付  戸川忠愛
  ・若年寄  浅野氏祐   ・目付   榎本道章
  ・会津藩主 松平容保   ・桑名藩主 松平定敬
  ・医師   戸塚文海
 すぐさま御宸翰を携えて、容保を止めようとする神保修理と共に陸路であとを追うが、途中では追い付かず江戸に至ってしまう。
 容保の戦線離脱の責を負い、神保修理は切腹、忠之助は閉門となる。
 戦火が東国に迫ると、閉門が解かれて軍事奉行添役に任ぜられ従軍するとともに、奥羽列藩同盟の諸藩へ使者となって大活躍。
 開城後の幽閉 (謹慎) を経て、その後は容保が日光東照宮の宮司となると東照宮に出仕するなど行動を共にした。
 著書「浅羽忠之助筆記」
 足立 仁十郎
[肖像]
 あだち にじゅうろう、享和元(1801)年〜明治14(1881)年 (81歳)
 監物、智義、泉とも。
 大坂の薬種問屋/田辺屋作兵衛 (田辺製薬) での奉公が縁で、後に長崎で会津人参専門の貿易商/田辺屋を設立し清国への輸出窓口となる。
 万延元(1860)年、人参売捌方用足として藩士に召し抱えられ、足立監物と名乗る。
 2年に1度は会津を訪れ、舶来文化を伝えた。
 会津唐人凧につながる原型を持ち込んだ説がある。 南蛮菓子の製造法から生れた「かすてあん(会津葵)」なども今なお販売されている。
 元治元(1864)年、御聞番勤 (長崎在住の御側衆) に就く。
 慶応3(1867)年、山本覚馬の指示によりゲーベル銃/1,300挺と弾丸および製造用一式を発注。
 慶応4(1868)年、屋敷や家財一切を長賊/井上聞多らに略奪される。
 明治3(1870)年、足立泉と名乗り、斗南藩を訪れる。
 同年、阿弥陀寺長命寺で催された殉難者の三回忌に、碑石料として金1百両を寄進。
 明治14(1881)年、故郷の与布土で死去。 「天徳院如應千聲居士」
 墓は、玉林寺・長崎市/崇福寺。
 安孫子 倫彦  あびこ ともひこ、安政4(1857)年11月24日〜昭和17(1942)年2月5日
 藩士/岡本丈助の子として鳥居町にて誕生。
 慶応3(1867)年、安孫子家を継ぐ。
 戊辰の役では、父母と幼き兄弟が自宅で自刃し、兄/岡本芳彦が白河で戦死している。
 開城後は、斗南藩に移住。
 明治8(1875)年、叔父/岩崎貞五郎たちと屯田兵に応募し琴似へ移住
 農業試験場の誘致に尽力するなど琴似地区の発展に貢献。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発するや、戊辰の役の恨みを晴らすべく応召し奮戦するも、人吉付近で頭部に弾傷を負い、琴似に帰還。
 日清、日露戦争に応召し、陸軍中尉に就く。
 その後の人生を琴似地区の発展に尽くす。
 墓は、手稲平和霊園。 86歳。

 次男/孝次は、農事試験場場長、北海道農業会会長、衆議院議員、琴似町長などを歴任、日本基督教会琴似教会の創設者。
 安部井
  壽(寿)太郎
 あべい じゅたろう (ひさたろう)、
 天保12(1841)年〜大正10(1921)年8月25日
 名:武雄。  <与力支配・歌人・医者>
 和歌を野矢常方に学び、藩校/日新館の和学取締方に就く。
 松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、勤務の傍ら歌人/香川景樹から歌道を学ぶ。
 風雲急を告げると藩命により、幕臣/西周の沼津兵学校でフランス語を学び、フランス式練兵や築城法を修得する。
 江戸総引き揚げの際に残留し、武器の調達や情勢動向の探索に尽力。
 任務を果たし終えると、幕軍/伝習隊に加わり総野の戦いから参戦。
 まもなく帰藩すると、築城隊/指図役として北越各地を転戦するが、 鶴ヶ城下に侵入したため帰国。
 城下にて奮戦するも、熊倉の戦いで負傷。
 開城後は、幽閉 (謹慎) を経て、斗南藩に移住。
 後に会津に帰って医学を会得し、杉田村で医師業を開く。
 墓は石雲寺とのこと。
 安部井 政治  あべい まさはる、弘化2(1845)年〜明治2(1869)年4月29日 (25歳)
 藩士/香坂源吾の次男、後に安部井仲八の養子になる。
 昌平坂学問所で学び、日新館の教授を務め、漢詩を能くした。
 藩校/京都日新館が開校すると赴任する。
 江戸に戻ると、洋式築城学の研究に没頭する。
 慶応4(1868)年、会津藩の江戸総引揚げにも残留し、医師に変装して敵情を探ってから帰城する。
 奥羽列藩同盟の遊説を努めるが、仙台に到着すると の侵攻により帰城が困難と知り、榎本武揚軍に合流して箱館へ渡り遊撃隊/差図役として奮戦。
 明治2(1869)年4月28日、会津藩への榎本武揚の中傷失言に激怒。
 翌29日の不来の戦いで、艦砲射撃の援護を受け有利な火器を有し圧倒的な兵力の を抗しきれず退却となったが、
 「刀 折れ、弾 尽き、よろず為すべき無しと雖も、
  一歩たりとも退かぬ我が死様を榎本に告げよ

と言い残し、必死の防戦を貫き通し、壮絶な戦死を遂げた。
 伝え聞いた榎本は、「ああ、余、一たび失言をなして我が俊良を失へり」と痛惜した。
 生涯に渡って、
 「私が安部井政治を殺したようなものである、今に至っても自分の
  不徳が恥ずかしく、追憶するに死が惜しまれてならない

 「戦死者中で最も惜しむべきは、会津の安部井政治である、
  彼の才幹、学識は他に類が無く得がたいものだった、
  存命なら明治政府で重要な地位を占めただろうに

と繰り返し何度も語っていたという。
 なお、養父/安部井仲八も戸ノ口原戦死している
 阿部 又吉  あべ またきち、
 弘化4(1847)年7月6日〜大正9(1920)年6月24日 (74歳)
 耶麻郡/長瀬村 (猪苗代町) で誕生。
 戊辰の役では、母成峠守備の農兵隊長として活躍。
 明治 3(1870)年、新町肝煎。
 明治 6(1873)年、長瀬村の区長に就任。
 明治26(1893)年、長瀬村の村長に就任。
 明治40(1907)年、吾妻村 (後に猪苗代町と合併) の村長に就任。
 沼尻鉱山の硫黄輸送をする耶麻軌道 (沼尻軽便鉄道/磐梯急行電鉄) の設立や、中ノ沢温泉の開発にも尽くした。
 8男/村井八郎は、福島県知事・会津若松市長に就いている。
 荒川 勝茂  あらかわ かつしげ、
 天保3(1832)年8月〜明治33(1903)年2月5日 (75歳)
 名:荒川類右衛門勝茂。 通称:類右衛門。
 父は、俳人/荒川梅二
 家老/北原釆女の家臣 (家臣団の筆頭) として若松にて誕生。
 元治元(1864)年、釆女に従い上洛。
 2度行き来し、慶応3(1867)年に帰国。
 戊辰の役では、進撃隊席御供番として南会津まで転戦し、開城まで各地で奮戦を続けている。
 伊佐須美神社の境内において、凌辱された女たちが裸体のまま数珠つなぎされて、に虐殺されているのを目撃している。
 明治2(1869)年、高田藩/高安寺に幽閉(謹慎)
 「行く年を 惜しむこころも なかりけり
     まだ来ぬ春を 待つ身なりせば

 明治3(1870)年、斗南藩(田名部)へ移住し、藩の復興に尽力。
 移住した三本木での生活は、想像を絶する悲惨さであり、廃藩を契機に、家族は会津へ戻ることを望んだ。
 明治6(1873)年4月22日、出稼ぎとの名目で長女/サタを残して会津へ出立した。 母/カヨと3男/乙三郎の墓を残して、後ろ髪を引かれる思いであった。
 明治7(1874)年に長女/サタも戻り、ようやく家族6人が揃ったものの、身一つの帰郷であるから、食べるのがやっとの暮らしであった。
 同年8月、家族の希望の星である長男/修太朗が衰弱死する。
 翌明治8(1875)年5月、妻/ミヨが心労と疲労により衰弱死し、次いで長女/サタが母/ミヨの死から食事も受け付けなくなり母を追った。
荒川家之墓  「あの過酷な下北への流刑が無ければ母も、3男も、妻も、長男も死なずに済んだはずだった。
 長賊が憎い、極悪人/木戸孝允が憎い、と恨み、生涯、呪い続けた。

 教育者としては、多大な功績を残している。
 そして、京都守護職から斗南流刑までを記した貴重な資料「明治日誌/4巻 (会津若松図書館に写しが蔵書)」を著す。
 墓は正法寺

《殉難者》 相原貞次 青山勇之進 赤井久忠 赤城佐代之助
赤塚惣吾 赤羽音吉 赤羽衛門or源六 阿久津安之助
赤埴定蔵・酉四郎 秋山義三郎 秋山牧太郎・鉄次郎
秋山和左衛門 秋山牧太郎・鉄次郎 秋山和三郎
浅井信次郎 蘆澤直保 安達藤三郎 渥味保太郎
穴沢吉之助 安部重次郎 阿部豊之助 阿部[某]
安部井仲八 安部井留四郎 荒木半蔵・留吉 有賀織之助
有賀九左衛門 有賀権左衛門満幸 有賀武次郎 安藤物集馬
安藤元四郎
相沢勇吉 赤羽伊織 赤羽八百吉 有賀千代子

《 あ 》 幕 末 よ り 後

 赤城 平六  あかぎ へいろく、天保7(1836)年〜明治27(1894)年 (58歳)
 耶麻郡新合村の裕福な肝煎の子として誕生。
 明治11(1878)年10月、喜多方に愛身社が結成されると加入し、自由民権運動に参加する。
 明治15(1882)年、会津部自由党結成の際、推されて総理に就任。
 徐々に極悪人/県令三島通庸への非難を強め、自宅に設けた闘争本部が会津自由党の「兵站部」と呼ばれるようになる。
 喜多方事件 (弾正ヶ原事件) を好機ととらえた官憲から扇動者として捕えられ (実際は出頭)、国事犯として東京に送還される。
 2ヶ月後に釈放されたが、執拗な官憲の監視のもと、桧原鉱山の事業など残らず失敗、諺「もとの木阿弥」から「もとの平六」と揶揄されるほどの赤貧におちいり生涯を終えた
 赤羽 克己  あかばね かつみ、
 明治2(1869)年2月29日〜昭和16(1941)年7月5日 (72歳)
 藩士/赤羽治平友温の3男、後に藩士/赤羽友春の養子となる。
 父/治平は、会津藩勘定頭で、斗南藩では大属会計係。
 明治27(1894)年、東京高商 (一橋大学) を卒業し、堀越商会に入社しニューヨーク支店長に務めた後、三井物産に移り、国府津出張所長、三池支店長、本社業務課長などを歴任。
 大正10(1921)年、三井物産出身である南満州鉄道の総裁/早川千吉郎に招聘され満鉄に移り、オイルシェールの事業化の任に就く。
 大正14(1925)年、退任。
 北海道炭礦汽船、日本製鋼所、夕張鉄道、輪西製鉄、小野田セメント製造、昭和石炭、室蘭電灯などの役員を歴任。
 穴澤 利夫  あなざわ としお、
 出身 :喜多方市    出身校:中央大学
 出撃地:知覧      飛行機:一式戦闘機「隼」<中島>
 戦死日:昭和20(1945)年4月12日、特攻にて戦死、23歳
 出身期:特操1期 (陸軍戦闘機搭乗員)
 階級 :大尉      部隊 :第20振武隊
 穴澤大尉は,大学時代に将来を誓った婚約者/孫田智恵子さんか贈られたマフラーを首に巻いて出撃した。
 最後の手紙は、突撃した四日後に婚約者のもとに届いた。
〜 〜 〜 書き度い 書くことはうんとある
 然しそのどれもが 今までのあなたの厚情にお礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る あなたの御両親様 兄様 姉様 妹様 弟様 みんないい人でした 至らぬ自分にかけて下さった御親切、全く月並のお礼の言葉では済みきれぬけれど「ありがたふ御座いました」と 最後の純一なる心底から言って置きます
 今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどり度くない 問題は今後にあるのだから 常に正しい判断を あなたの頭脳は与へて 進ませて呉れることと信ずる 然し それとは別個に婚約をしてあった男性として 散って行く男子として 女性であるあなたに少し言って征き度い。
「あなたの幸を希ふ以外に何物もない」
「徒に過去の小義に拘る勿れ あなたは過去に生きるのではない」
「勇気を持って過去を忘れ、将来に新克面を見出すこと」
「あなたはも今後の一時一時の現実の中に生きるのだ 穴澤は現実の世界には、もう存在しない」
 〜 〜 〜
 今更何を言ふか と自分でも考へるが ちょっぴり慾を言って見たい  〜 〜 〜
 智恵子 会ひ度い 話し度い 無性に
 今後は明るく朗らかに 自分も負けずに 朗らかに笑って征く

 最後にいただいた御手紙 私が手にしたのは四月十六日(智恵子)
 安部 和香子  あべ わかこ、昭和41(1966)年4月4日〜
 愛称:ワッコちゃん。
 会津若松市出身の自転車選手、日本女子ロードレース黎明期に活躍。
 中学生の時代はスピードスケートをしていて、2年生で全国中学校総体の3,000mで8位に入賞している。
 夏場の筋力トレーニングで、自転車競技と出会う。
 昭和57(1982)年、若松第一高等学校 (会津北嶺高等学校) に入学。
 昭和57(1982)年、タイでの第10回アジア自転車競技選手権大会に日本代表として参加、日本女子ロード代表初めての海外遠征であった。
 昭和58(1983)年チャレンジ・ロードレース大会女子20Kmで圧勝。
 同年、世界選手権自転車競技大会に出場し、28位に入る。
 昭和59(1984)年、高校3年生の時、ロサンゼルスオリンピックの個人ロードに出場し40位 (2:40:12)。
 同年、3年ぶりに全国高校スケート競技選手権でのスピードスケート大会に出場。
 同年、全日本アマチュア自転車競技選手権大会で優勝。
 若松第一高等学校を卒業し、自転車競技を続けると決心。 高校卒業後には大阪の建設会社への就職が内定していた。
 当時、女子ロードで好敵手がおらず、男子選手に混じって練習・鍛錬し、男子のレースで中位以上に先着 (38位) したこともある。
 昭和60(1985)年、全日本アマチュア自転車競技選手権大会で連覇。
 平成元(1989)年、全日本アマチュア自転車競技選手権大会で優勝。
 [参考] 会津のオリンピック出場選手
 天川
  深右衛門
 あまかわ ふかえもん、天保7(1836)年10月〜明治10(1877)年6月25日
 藩士、御勘定改役、御勘定所。
 戊辰の役での戦歴は不詳。
 斗南藩に移住するも、後に会津に帰る。
 上京し、警視局/警部補心得に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に別働第三旅団第五大隊/伍長として出征し、積年の恨みを晴らすべく奮戦するも鹿児島で戦死。
 墓は鹿児島/祇園洲官軍墓地にあったが、荒廃により官軍戦没者慰霊塔に合祀された。
 荒木 三郎  あらき さぶろう、安政2(1855)年8月14日〜明治15(1882)年7月4日
 名:重謹。
 保科正之公に召し抱えられ藩士となった戦国大名/荒木村重の子孫。
 父/荒木重義の3男として誕生。
 父/重義は戊辰の役の籠城で活躍するも、開城後に高田藩で謹慎(幽閉) され、その最中に病死してしまう
 明治3(1870)年、母と共に斗南藩へ移住し開墾に従事する。
 西南戦争が勃発するや、積年の恨みをはらすべく巡査募集に応じ上京して出征、別働隊として数々の功績を挙げる。
 巡査に復帰してからも、簿記、算数、撃剣など勉学に勤しむ。
 明治15(1882)年7月4日未明、愛宕の巡査屯所に勤務中、犯人を追い詰めた瞬間の虚をつかれ、犯人が隠し持っていた刃物で胸を刺された。
 駆け付けた巡査に、自分にかまわず犯人を取り押さえるよう命じ、ついに殉職してしまう。
 27歳。 奇しくも父と同じ行年であった。
 傷は、13創にも及んでいたという。
 褒め称えた警視総監/樺山資紀や警視庁職員/4千余人から義援金が贈られ、同僚・旧知/5百余人の浄財で青山に墓碑が建立された。
 有間 しのぶ  ありま しのぶ、昭和39(1964)年5月18日〜
 会津若松市にて誕生。
 代表作:モンキーパトロール、まちの愛憎くん、など
 昭和57(1982)年、週刊ヤングマガジン (講談社) 掲載の「本場ぢょしこうマニュアル」でデビュー、大人気となり約8年間も連載される。
 昭和62(1987)年、原作が東映映画「本場ぢょしこうマニュアル 初恋微熱編」になる。
 平成15(2003)年11月20日、2チャンネル騒動「ろじぱらパクり告発事件」が起こるが、同月24日の謝罪で鎮静。
 平成31(2019)年4月21日、「その女、ジルバ」で第23回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。
  東洋経済オンライン/ 著者ページは、こちら
 安西 秀幸  あんざい ひでゆき、昭和6(1985)年9月18日〜
 河沼郡河東町 (会津若松市河東町) にて誕生。
 県立会津高等学校の時に陸上を始める。
 駒澤大学文学部社会福祉学科に進学し、3年生で陸上競技部駅伝主将、4年生で陸上競技部主将となる。
 平成16(2004年 第9回天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 福島県代表 4区区間6位。
 平成18(2006)年、出雲駅伝 1区区間優勝。
         全日本大学駅伝 4区区間2位。
         府中多摩川ハーフマラソン優勝。
 平成19(2007)年、関東インカレ/2部 1万m2位。
 平成20(2008)年、第84回箱根駅伝5区区間2位 (駒澤大/総合優勝)。
         第49回東日本実業団対抗駅伝競走 1区区間2位。
 平成21(2009)年、第53回全日本実業団対抗駅伝競走 1区区間4位。
         第50回東日本実業団対抗駅伝競走 1区区間2位。
 平成22(2010)年、JALの廃部により、日清食品グループに移籍。
 平成24(2012)年、第56回全日本実業団対抗駅伝競走 7区区間5位。
 平成25(2013)年、第57回全日本実業団対抗駅伝競走 7区区間4位。
         鶴ヶ城ハーフマラソン 優勝 (コースレコード)。
安西秀幸の実家
 平成27(2015)年、家業を継ぐため、
         日清食品グループを退部し
         帰郷。

相田直彦(寅彦) 青津清喜 赤城泰舒 赤羽きよ 赤羽庄三郎
芥川梯岳 浅岡一 荒川巌 荒川三郎 荒木源次郎
荒木剛 荒木南枝 安東周蔵

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