初代/ 松本善甫 |
生年不詳〜元禄8(1695)年4月6日 名:興正 (おきまさ)。 号:善甫。 「圓桂院殿善甫法眼源興正」 会津天満宮の祠官であったが、刃傷事件を起こしたため会津から出奔。 名を変え上方に逃れたが、まもなく江戸に移りお玉が池に住み付き 料理人として生計を立て、今の早寿司/握り鮨を考案したとされる。 一念発起し、医学を目指し医学書を読み漁り独学で習得、開業するや評判が評判を呼び大繁盛する。 元禄5(1692)年、幕府に招聘される。 元禄6(1693)年、奥医師に就任し、のちに幕府法眼となる。 |
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2代/善甫 |
寛文4(1664)年〜延享2(1745)年8月30日 名:尚興 (なおおき)。 「諦了院殿善甫法眼源尚興」 元禄13(1700)年、奥医師に就任。 |
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3代/善甫 |
貞享元(1684)年〜明和2(1765)年10月22日 名:興信 (おきのぶ)。 「修心院殿善甫法眼源興信」 享和20(1735)年、西丸奥医師に就任。 |
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4代/善甫 |
享保15(1730)年〜天明4(1784)年8月18日 名:興長 (おきなが)。 「観月院殿善甫法眼源興長」 明和2(1765)年、奥医師に就任。 |
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5代/善甫 |
宝暦12(1762)年〜寛政7(1795)年8月4日 名:興世 (おきよ)。 「松寿院殿善甫法眼源興世」 天明4(1784)年、奥医師に就任。 天明6(1786)年、改易され、絶家となる。 後の弘化3(1847)年に再興。 |
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6代/良甫 |
生年不詳〜文政9(1826)年8月30日 名:善賢 (よしかた)。 「覚性院殿良甫源善賢居士」 町医者を営む。 |
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7代/良甫 |
文化3(1806)年〜明治10(1877)年2月6日 (72歳) 名:載。 字:成伯。 通称:寅三郎、良順。 号:護斎。 鶴ヶ城下にて誕生。 天明6(1786)年に父/良甫が幕府奥医師を改易され赤貧の中、高野長英や足立長雋に蘭学や医学を学び、長崎へ遊学し蘭医/ボンベに蘭方を学ぶ。 天保10(1839)年、幕府に出仕。 弘化3(1846)年8月3日、松本家を再興。 嘉永2(1849)年12月16日、寄合医師に就任。 同年、友人の佐倉藩藩医/佐藤泰然の次男/良順を養子にする。 安政5(1858)年、大槻俊斎らと「お玉が池種痘所」の設立に尽力。 同年10月16日、奥詰医師製薬所掛に就任。 文久3(1863)年、11月9日、奥医師に就任。 文久4(1864)年2月18日、法眼となる。 明治に入り、陸軍軍医総監に就任。 |
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8代/良順 |
天保3(1832)年6月16日〜明治40(1907)年3月12日 (75歳) 幼名:佐藤順之助。 明治4(1871)年に「順 佐倉藩藩医の父/佐藤泰然の倅として江戸麻布 (東京都港区) にて誕生。 嘉永2(1849)年、松本良甫の養子となる。 安政4(1857)年閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴くや、オランダ軍の軍医/ポンペに医学や蘭学を学ぶ。 文久2(1862)年閏8月8日、奥詰医師に就任し、医学所頭取助を兼務する。 文久3(1863)年12月26日、江戸へ戻り奥医師となり、医学所 (東京大学医学部) の頭取に就任、医学所をポンペ式の授業に改める。 元治元(1864)年5月9日、法眼となる。 同年6月1日に奥医師を解かれ寄合医師となるが同年8月15日に奥医師再任。 将軍の侍医として将軍/徳川家茂の治療したことでも知られ、第二次長州征伐で大坂に出陣の家茂に随行し、会津藩配下の新選組/隊士の診療を行い、局長/近藤勇・土方歳三たちと親交を深めている。 慶応4(1868)年の戊辰の役では、幕府陸軍の軍医・奥羽列藩同盟軍の軍医となり、鶴ヶ城内に野戦病院を開設し戦傷病者の治療にあたり、会津藩医たちに多大な影響を与える。 開城後は、仙台にて降伏。 明治2(1869)年、赦免されや東京/早稲田に西洋式病院/蘭疇院を設立。 明治4(1871)年、何度となく請われ、招聘を受諾し、兵部省に出仕する。 明治6(1873)年、大日本帝国陸軍の初代/軍医総監に就任する。 明治23(1890)年9月29日、貴族院議員に勅選される。 明治40(1907)年3月12日、海水浴を開設し別荘地として開発・整備した大磯の地にある自邸にて心臓病で死去。 征露丸 (日本医薬品製造社) の顔写真モデルとしても有名で、森鴎外は遠縁にあたる。 |