伝蔵の伜。
別撰組/佐川隊。
慶応4(1868)年1月5日、淀で戦死。 21歳。
池上氏之墓の前にある墓石3基の外側。
墓碑には、「伏見戦死」とある。
「忠倫院義孝○○居士」
埋骨地は梧真寺、黒谷に慰霊碑がある。
誠志隊/半隊頭。
戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷。
その後、面川(出井中野村とも)で死去。 42歳。
「秋月院忠道盡喜居士」
新しい墓もあった。
≪井深数馬≫
軍事方添役。 46歳。
慶応4(1868)年8月23日、甲賀町口で戦死。
≪石山虎之助≫
白虎士中二番隊/日向隊。 16歳。
墓は、飯盛山にある。
慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃。
小山田家の墓域から10メートルほど上った左脇沿い。
英吉の叔父。
幌役。
戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で戦死。
墓碑には、「九月十日」とある。
44歳。
「全忠院雄嶽道英居士」
≪辰野平太≫ 源左衛門の弟。
萱野右兵衛隊。
慶応4(1868)年5月13日、越後/朝日山で戦死。 35歳。
≪辰野源之進≫ 源左衛門の従弟。
朱雀士中一番隊/小森隊。
5月1日、磐城/白河小丸山で戦死。 25歳。
※ 合祀とのことであるが戒名は1つ。 2人の名は読める。
朱雀寄合一番隊/武井隊。
戊辰(1868)年9月13日、三ノ丸で負傷、同20日に死去。
34歳。
孫助の祖父。
大賄役。
慶応3(1867)年8月28日、若松で戦死。
殉難者名鑑には、「8月23日」 とある。
81歳。
名:相知。 大三とも。
伝八の3男。
正奇隊/小隊頭。
慶応4(1868)年8月24日、小田で戦死。
墓碑には「八月二十三日戦死」とある。
33歳。
城安寺にあったが、廃寺により昭和2(1927)年に移る。
隼人の伜。 朱雀士中二番隊/田中隊。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
18歳。 「信忠院盡勝勇義居士」
〜〜
後為朱雀士中隊従軍出 下野明治元年戊辰八月
廿九日戦長命寺死之○ 十八○死者甚多其屍○
〜〜
善蔵とも。
三武弥の弟。
朱雀士中一番小森隊。
慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河熊倉口で戦死。
37歳。
「〜供養塚」とある。
戊辰(1868)年9月9日、戦死。
詳細不明。
平成11(1999)年10月1日、分家の子孫が建立。
本墓は、大安寺の慶雲庵跡にある。
新津の大安寺から、百悦の侠骨を分けてもらったとのこと。
「修功院殿百法勇悦居士」
没後130年の平成13(2001)年には、鎮魂法要も営まれた。
取り調べもせず処刑するなど住民たちを苦しめ、長賊に与し悪業非道の限りを尽くした民政局監察兼断獄の極悪人/久保村文四郎を束松で待ち伏せし天誅を下す。
関係者に類が及ばぬよう、旧会津藩領の飛地であった新潟/大安寺村/慶雲庵に逃れた。
明治3(1870)年6月22日、村松藩兵に包囲され、踏込んだ吉田倉之助を板戸越しに刺し貫き、ひるんだ隙に割腹して果てた。
享年44歳。
赤羽四郎
. 16歳未満のため隊士ではなかったが、籠城戦の時に 「白虎士中合同隊」 へ入隊する。 明治5(1872)年、アメリカのエール大学に留学し、外務権少録書記生としてドイツへ、ロシア、アメリカへ転勤。 明治25(1892)年にはドイツ公使館一等書記官、オランダを経て、明治33(1900)年からスペイン公使となる。 明治43(1910)年12月28日、死去。 55歳。 |
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高木盛之輔 戊辰の役の時は16歳で、藩主護衛隊として参加。 滝沢本陣と戸ノ口原との伝令を務める。 戦後は猪苗代を経て東京で謹慎。 明治10(1877)年、西南の役に従軍し、人吉城、鹿児島城を攻略。 「嗚呼足れり 深き恨みも はるゝよの 月影清し 苅萱の関」 その後は根室・甲府・山形等の地方裁判所検事正を歴任、余生を福島市で過ごし、大正8(1919)年2月19日に死去。 66歳。 |
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加賀山翼
. 文化8(1811)年、藩医/児島雲淋の次男として誕生。 後に加賀山太沖の養子に入り、江戸で伊東玄朴や織田研斎に師事し蘭学を学び、安政6(1959)年に江戸藩邸内へ医学寮蘭学科を創設し、初の洋学師範に就く。 戊辰の役では、日新館の軍事病院医師として負傷者の治療に当たる。 「農兵を率いて各地に転戦」 ともあるが、詳細不詳。 明治4(1871)年4月29日、死去。 61歳。 |
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