戊辰役東軍戦死者埋骨地 (東運寺)長圓寺碑の埋骨地6ヶ所の1つ。 本堂の裏手にある。 大きな切り株が目印。 東運寺は、長圓寺の隣り。 ▲(京都市伏見区淀新町618-1 Tel. 075-631-2272) |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 (大専寺)長圓寺碑の埋骨地6ヶ所の1つ。 本堂右側の無縁仏の傍らにある。 ▲(京都市伏見区淀下津町52 Tel. 075-631-2369) |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 (文相寺)長圓寺碑の埋骨地6ヶ所の1つ。 本堂右側の墓地入口の傍らにある。 ▲(京都市伏見区淀新町58 Tel. 075-631-2526) |
八幡番賀墓地戊辰役東軍戦死者埋骨地長圓寺碑の埋骨地6ヶ所の内の1つ。念仏寺が管轄。 念仏寺から1,4キロほど離れている。 大谷川に架かる西島橋の先。 ▲(八幡市番賀) |
戊辰史跡の碑 (念仏寺)寺の門の前にある。▲(八幡市八幡山路29-1 Tel. 075-981-0273) 「戊辰史蹟念佛寺 右八幡橋一丁 左前正福寺 昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之」 |
戊辰之役東軍戦死者之碑 (妙教寺)(向って右側) 明治四十年建 京都十七日会(左側) 戦死者埋骨地三所 一 在下鳥羽村悲願寺墓地 一 納所村愛宕茶屋堤防 一 八番楳木 (裏側) 子爵榎本武揚書 本堂には、「東軍戦死者の位牌」や、砲弾が貫通した柱と壁があるが、原則非公開。 鐘楼の前に淀古城址跡の石碑がある。 ▲(京都市伏見区納所北城堀49 Tel. 075-631-2584) |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 (千両松)妙教寺の碑にある埋骨地3ヶ所の内の1つ。京都競馬場の駐車場入口の傍らにある。 佐川官兵衛率いる別選組や新選組、京都所司代見廻組、桑名藩などが、長賊らと激戦を繰り広げた。 別選組の一隊40名中、17名が戦死。 埋葬の詳細は不詳。 |
戊辰役東軍西軍激戦之地碑競馬関係者により建立された慰霊碑。昭和45(1970)年、競馬場の拡張工事を開始すると事故が多発し、真夜中になると「元の場所に戻せ・・・」と隊士の霊が現れた。 周辺を探すと、土まみれの東軍戦死者碑が、土の中から出てきた。 盛大な供養を行い石碑を立て直すと現れなくなったと云う。 ▲(京都市伏見区納所下野) |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 (愛宕茶屋跡)妙教寺の碑にある埋骨地3ヶ所の内の1つ。堤防に沿った道路脇にある。 鳥羽街道にあった愛宕茶屋の辺りで激戦があった。 慶応4(1868)年1月5日の東軍戦死者35柱を埋骨。 ▲(京都市伏見区横大路富ノ森町 納所崖ノ下) |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 (悲願寺共同墓地)妙教寺の碑にある埋骨地3ヶ所の内の1つ。戦死者233柱が埋骨されたとのこと。 下鳥羽小学校の南側にある。 昭和59(1984)年、都市計画による公園化のため、旧/悲願寺の墓地から改葬された。 ▲(京都市伏見区下鳥羽東柳長町) |
戊辰役戦場址 (納所会館)元々は、愛宕茶屋南の堤防の上にあった。道路整備により、この地に移された。 (向って右側) 是北従城南離宮一里至 (左側) 是南従石清水八幡宮一里 (裏側) 昭和三年春京都三宅安兵衛遺志○○」 納所小学校の奥隣にある。 ▲(京都市伏見区納所妙徳寺24-2) |
戊辰東軍戦死之碑 (法傳寺)幕府軍と会津軍の戦死者を供養する石碑。放置されていた遺骸は、荼毘に伏され埋葬されたという。 会津軍が使用した短銃、砲弾、太刀、槍の穂先などを所蔵されているが、原則非公開。 大宰府宮小路康文書。 旧/悲願寺墓地の墓標「戦死骨埋骨東儿悲願寺墓地明治三十年一月吉晨 建之」 昭和59(1984)年、都市計画による公園化のため、旧/悲願寺の墓地は共同墓地に改葬された。 ▲(京都市伏見区下鳥羽中三町61 Tel. 075-611-5713) |
鳥羽伏見戦跡碑戊辰の役の発端を示す碑。昭和51(1976)年4月に建立。 ▲(京都市伏見区下鳥羽南三町) |
埋骨地、柴宮八三郎など (悟真寺)幕軍・会津藩の戦死者埋葬地が2ヶ所ある。戦死者64柱を埋骨とのこと。 埋骨者の中で判明している会津藩士名 (墓のある柴宮・稲生・佐々木を除く)。 |
沢田富之助 | 25歳 | 大砲林隊 | 1月3日、伏見で戦死 | ||
三瓶鉄蔵 | 34歳 | 別撰組 | 〃 | 一心寺 | |
中澤常左衛門 | 52歳 | 大砲林隊組頭 | 〃 | ||
神田一八 | 50歳 | 上田隊足軽小頭 | 1月4日、鳥羽で戦死 | ||
池上貞之助 | 21歳 | 別撰組佐川隊 | 1月5日、淀で戦死 | 善龍寺 | |
佐藤主計 | 39歳 | 生駒隊付目付 | 〃 |
明治元戊辰年 伏見鳥羽戦役
山門入口の左側にある案内標。 |
柴宮八三郎行孝 大砲林隊。 慶応4(1868)年1月3日、伏見で戦死。 22歳。 「会津臣 柴宮八三郎行孝」 黒谷の慰霊碑にも記載。
清浄院殿光雲居士。 . 「会津藩士 稲生新助 行年四十七歳 . 慶応四年一月四日 伏見○○戦死 . 昭和四十二年五月建之 〜〜」 . |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 (東北碑)本堂の裏手にある。傍らに、戦死した藩士の1基。 東軍に与した浜田藩士の墓も1基ある。 |
佐々木悦太郎 佐左衛門の伜。 慶応4(1868)年1月4日、淀で戦死。 32歳。 「章行院釋種忠覚之墓」。 墓は、光照寺にもある。 安達市太郎 河村鋼之進 浜田藩。 慶応4(1868)年1月4日、戦死。 |
▲(京都市伏見区榎町713 Tel. 075-621-2229) |
鳥羽伏見戦勃発地の碑 (鳥羽離宮跡公園)徳川慶喜は長賊を討つべく上洛を決意し、會津藩・桑名藩や幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に向かったが、この地で薩摩の砲撃を受け戦闘となり、戊辰の役が勃発した。大政奉還後であり、すでに慶喜は将軍ではなかった。 ▲(伏見区中島御所ノ内町) |
鳥羽伏見戦跡の碑 (旧小枝橋)千本通と城南宮道との交差点にある。 平成14(2002)年、旧/小枝橋は撤去された。 ▲(京都市伏見区中島秋ノ山町) |
会津藩駐屯地跡 (東本願寺伏見別院/伏見御堂)慶応4(1868)年1月2日、上洛する徳川慶喜の先供で藩士/先鋒隊200名が泊、翌日の薩摩藩発砲で戦火に見舞われる。畳を楯にした銃撃戦だったようで、多くの藩士が戦死した。 、大砲奉行/林権助 (安定)も負傷し、同月10日に死去。 慶長7(1602)年の創建で、蓮池を埋めて建立したことから (寺に蓮池があったとも)、蓮池御坊と呼ばれていた。 平成2(1990)年、老朽のため解体されて、現在は山門と大銀杏樹を残すのみ。 ▲(京都市伏見区大阪町609 Tel. 075-601-1939) |
伏見奉行所跡寛永元(1624)年、富田信濃守の屋敷の場所に移設した。 桃陵団地から桃陵中学校のグランドまでが伏見奉行所の敷地だった。戊辰の役の時には新撰組の屯所でもあり、そして、すべてが焼失した。 桃陵団地の入口に碑がある。 桃陵中学校のグランド内にも石柱はあるが、見学の際は事前に許可を得よう。 正門の正面のは、維新戦跡の碑。 ▲(京都市伏見区桃陵町) |
御香宮神社 (御香宮、御幸宮)慶応3(1867)年12月中旬、徳川氏陣営の御香宮神社を薩摩藩が占領して陣を敷いた。 半月後の鳥羽伏見の戦いで、ここから眼下の伏見奉行所に砲火を浴びせた。明治30(1897)年5月になって、戊辰戦役30年を機に奉納された東軍戦死者283霊の中に、会津藩士129霊も祀られている。 ▲(京都市伏見区御香宮門前町 Tel. 075-611-0559) |
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