西雲院で管理している山上墓地の北東側300坪の敷地にある。
文久2(1862)年から慶応3(1867)年の5年間にこの地で亡くなった237名と、鳥羽伏見の戦いで戦死した115名の慰霊碑など、352名を祀っている。
使役人で苗字のない者や女人たちも、武士と同様に祀られている。
会津松平家は神道のため、7割ほどの人々が神霊。
鳥羽伏見の戦いでの戦死者115霊を祀る。
115霊については、こちら。
6月の第2日曜日には、殉難者追悼法要が営まれている。
手前左側に「伏見淀鳥羽 戦死者道志るべ」の石碑 (誌あり) もある。
左側の墓域 |
右側の墓域 |
奥の壇の左側 |
由来碑(中央の奥) |
奥の壇の右側 |
文久2(1862)年閏8月1日、藩主/松平容保は将軍/徳川家茂から京都守護職に任ぜられるも、病弱でもあったため、何度も固辞した。
江戸湾警備の任に就いていたため国際的な流れを把握していた家臣たちも、
「火中の栗を拾うようなもの」、
「薪を背負って火消しをするようなもの」
と大反対をした。
容保は、養子で、かつ若干26歳、動乱期の藩主としては若すぎた。
会津松平藩の藩祖/保科正之公の家訓を逆手にとった松平春嶽の策略により、就任を決意せざるを得なくなる。
「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」
この期に及んで、大反対をしていた家臣一同は覚悟を決めた。
文久2(1862)年12月24日午前9時頃、全藩士の3分の1にも及ぶ1千人を従えて、京都三条大橋に到着した。
暗殺や強奪に苦しむ京の人々は、道の両側に人垣を作り大歓迎した。
本陣を金戒光明寺に構えた。
◇ 御所まで約2キロと近い
◇ 大小52の宿坊があり、1千名の藩士の収容が可能 (25の宿坊を使用)
◇ 小高い岡にあり自然の要害であり、かつ城構えである
京の治安に藩の総力を尽くし、孝明天皇の絶大な信任も得た。
しかし、孝明天皇が暗殺されるという夢にも思わなかった衝撃を受けるに及び、意に反する時代の流れに翻弄されることとなる。
西雲院の住職は、長賊らからの想像を絶する迫害にもかかわらず、
「京都を守った恩義に報いるのは当然であり、仏になった者に罪など無い」
と一喝、非道な恫喝を撥ね退け会津墓地を死守した。
会津墓地西隣りの西雲院庫裡前にある。
会津小鉄は愛称で、本名は上坂仙吉 (こうさか せんきち)。
天保4(1833)年5月20日〜明治18(1885)年3月19日>
会津藩戦死者の遺体埋葬は禁じられていたが、処罰を恐れず子分200人ほどを動員し、荼毘に付して埋葬した。
西軍から黒谷会津墓地を西雲院の住職と共に死守したのも小鉄であり、命を助けられた恩を終生忘れず、清掃や維持管理をし続けた。
籠城戦の最中、西軍が包囲している会津若松に潜入し、鳥羽伏見の戦いでの戦死者遺品を届けている。