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京 都 府 と の“ご 縁”

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≪ 京 都 守 護 職 (会津藩) と の ご 縁 ≫

 文久2(1862)年閏8月1日、藩主/松平容保は将軍/徳川家茂から京都守護職に任ぜられるが、病弱でもあったため何度も固辞した。
 江戸湾警備の任に就いていたため国際的な流れを把握していた家臣たちも、
  「火中の栗を拾うようなもの」、
  「薪を背負って火消しをするようなもの
と大反対をした。
 容保は、養子で、かつ若干26歳、動乱期の藩主としては若すぎた。
 会津松平藩の藩祖/保科正之家訓を逆手にとった松平春嶽の策略により、就任を決意せざるを得なくなる。
  「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり
 この期に及んで、大反対をしていた家臣一同は覚悟を決めた。

金戒光明寺

山門の本陣銘 金戒光明寺の山門 山門の石碑 [古図]

 文久2(1862)年12月24日午前9時頃、全藩士の3分の1にも及ぶ1千人を従えて、京都三条大橋に到着した。
 暗殺や強奪に苦しむ京の人々は、道の両側に人垣を作り大歓迎した。
 本陣を金戒光明寺に構えた。
  ◇ 御所まで約2キロと近い
  ◇ 大小52の宿坊があり、1千名の藩士の収容が可能 (25の宿坊を使用)
  ◇ 小高い岡にあり自然の要害であり、かつ城構えである
 京の治安に藩の総力を尽くし、孝明天皇の絶大な信任も得た。
 しかし、孝明天皇が暗殺されるという夢にも思わなかった衝撃を受けるに及び、意に反する時代の流れに翻弄されることとなる。

金戒光明寺


 西雲院の住職は、長賊らからの想像を絶する迫害にもかかわらず、
  「京都を守った恩義に報いるのは当然であり、仏になった者に罪など無い
と一括、非道な恫喝を撥ね退け会津墓地を死守した。

<戊辰の役/殉難者と併記>    .

平安神宮

平安神宮の白虎楼 平安神宮 平安神宮の蒼龍楼
 会津藩に最も信頼を寄せられていた孝明天皇を主祭神として祀っている神社。
 明治28(1895)年3月15日、創建。
 孝明天皇からの忠孝を示す御辰韓の存在を知った官賊らは驚愕し、虚妄が明らかになるのを恐れて会津松平家に3万円(現在の数億円)を支払い、明治44(1911)年まで明らかになるのを押さえた。

京都守護職屋敷門(平安神宮)

京都守護職屋敷門
 京都守護職となった会津藩は、治安を守るため、あちこちに駐屯した。
 御所近くの現/京都府庁の地に上屋敷を造営したが、大政奉還後には取り壊され、屋敷門が平安神宮 (旧/武徳殿) の門の1つとして移築され、今に面影を残している。
 聖護院村にあった下屋敷 (御用屋敷) の表門との説も。
 ▲(京都市左京区岡崎西天王町97 Tel, 075-761-0221)

凝華洞跡 (松平容保の仮宿舎)

凝華洞跡 凝華洞跡

 京都守護職/松平容保は、京都御所の建礼門の南近くの凝華洞(別称:御花畑)に多忙で本陣に帰れない時の仮宿舎とした。
 元治元(1864)年、容保は逆賊/長賊らの不穏な動きを察知し不測に備え常駐していた。
凝華洞跡 凝華洞跡

 同年7月19日の禁門の変の時には、寝返りもできない重病に陥っていたが、反乱勃発の報を聞くや病身を押して御所へ参内し、孝明天皇をお守りした。
 ▲(京都市上京区京都御苑  建礼門の南近く)

京都守護職上屋敷跡 (京都府庁)

京都守護職上屋敷跡(京都府庁)

 京都府庁の旧本館の正門を入った右側に石碑がある。
 京都守護職に就任した藩主/松平容保は、文久3(1863)年に民有地3万坪 (99,000平方メートル) ほどを買収し上屋敷を造営した。 本陣は金戒光明寺に構えたが、自前による御所近くへの造営であった。
 全藩士数の3分の1に当たる1千人の駐屯であり、支配下に京都所司代、京都町奉行、京都見廻役、幕臣で組織された京都見廻組、新選組などの配下がおり、広大な敷地が必要だった。
 徐々に会津藩の財政は困窮していく。
京都府庁 京都守護職上屋敷跡(京都府庁)
 慶応3(1867)年の王政復古により廃止され、平安神宮へ移築の京都守護職屋敷門と、京都国際ホテルに移築の京都守護職屋敷の正門が当時の面影を残すだけ。

容保桜

容保桜

 京都府庁の旧本館の中庭にある。
 調査の結果、新種の桜と判明し、この地に下屋敷を構え、京都の治安を守るのに尽力した京都守護職/松平容保の名が付けられた。
容保桜  平成22(2010)年3月12日、案内板の除幕式が挙行。
 ▲(京都市上京区下立売通新町西入藪之内)

蛤御門

蛤御門

 京都御苑の御門の1つ。
 元治元(1864)年7月19日、朝敵/長賊らが天皇の拉致 (暗殺とも) を企て、まず京都守護職/松平容保を排除しようと、この門から侵入を図り攻撃を仕掛けてきた。
 当時は盟友だった薩摩藩と共に激戦を繰り広げ撃退、孝明天皇を守り抜いた。

蛤御門の弾痕
 禁門の変、蛤御門の変、元治の変と呼ばれる。
蛤御門  今でも門の梁に弾痕が数多く残っており、戦いの激しさを物語っている。
 ▲(上京区烏丸通下長者町上ル) [御所九門図] [戦乱図]

松林院旧跡、松平容保公寄宿の地

 清浄華院の境内にある。
 文久3(1863)年の禁門の変以降、孝明天皇の強い要望により御所近くに会津藩の分隊が駐屯することになった。
 慶応3(1867)年4月頃まで、常時50人ほどが警備にあたっていた。  後に京都府顧問として京都の復旧に活躍した山本覚馬もいたという。
 松平容保も、文久3(1863)年12月から翌年5月までの半年間ほど逗留し、配下にあった新選組の近藤勇たちへの指示も出している。
 平成15(2003)年、松林院は清浄華院に統合された。
 平成25(2013)年、跡碑が佛教大学浄山学寮の門前(旧松林院脇門)に建立。
 ▲(京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395)

長谷川家住宅

長谷川家住宅

 会津藩士が長州征伐の際に投宿。
 その時に柱に残された擦り傷や、家老/神保内蔵助率いる藩士198名の隊列を当主が描いた絵を所蔵とのこと。
 寛保2(1742)年、建造。
 平成25(2013)年、国の登録有形文化財に登録。
 「歴史・文化・交流の家」として公開。
 ▲有料/開館日に注意 (京都市南区東九条東札ノ辻町5 Tel. 075-606-1956)

  [九条河原周辺警備図]
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