ネ  ッ  ト  で  墓  参

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近 藤 勇 の 墓 (天寧寺)

▲(会津若松市東山町石山天寧208 Tel. 0242-26-3906 <旧/天寧村>)
入口

 寺への入口にある標柱に、「萱野父子奥津城の入口」とある。
 「奥津城」とは、上代の墓、神道でいう墓所のこと。
 「奥都城」 「奥城」ともいう。

 多少の傾斜がある山道なので、ハイヒールなどは避けよう。
 まず、本堂に参詣。

天寧寺

天寧寺  応永28(1421)年、11代/蘆名盛信公が創建し、楠木正儀 (楠正成の3男) の子/傑堂能勝が開山。
 萬松山(ばんしょうざん)、曹洞宗。 本尊は文殊菩薩。
 文安4(1447)年、盛信公が出家し、2世住職として名僧/南英謙宗を招く。
 一時は、会津曹洞宗の僧録司であった。  [鳥瞰図]
 宝暦年間(1751〜1764)には、末寺33寺・寺院12・常住僧侶17名・雲水1,000名を従え、東西71間半・南北64間の伽藍を有していた。 現在でも、53の末寺を持つ。
 民謡/会津磐梯山の元歌/玄如節の玄如とは、6世/朝玄のこと。
 天正17(1589)年、伊達政宗公により、蘆名氏所縁の寺として堂宇すべてが焼き払われた。
 当時の遺構として残っているのは、本堂の礎石のみ。
 住職/祥山曇吉は京都に逃れ同名の寺を開山、再興後も門人に継承されている。
 秋田に移封された蘆名氏は、同名の末寺を角館に建立している。
 従って、会津・京都角館の3ヶ所に同名の「萬松山天寧寺」が存在する。
 明治10(1877)年、現在の本堂が再建される。
 会津十二支守り本尊の卯 (文殊菩薩)
近藤勇の墓の説明文 萱野権兵衛父子の墓の説明文 境内案内図 境内案内図  会津七福神の毘沙門天
 会津二十一地蔵尊の第十番
 境内に、2基の句碑もある。
 伊東左太夫 古川兼定 田村忠長
 殉難墓あり

 墓域への入口に、近藤勇之墓の説明文がある。

 すぐに、分岐点に至る。

早乙女貢の墓

作家/早乙女貢の墓 会津士魂の碑
作家/早乙女貢の墓 会津士魂の碑

 角地に、平成22(2010)年、この地に改葬された作家/早乙女貢の墓がある。
 ライフワークであった全13巻の大作「會津士魂」の碑は、それ以前からあった。
 続編「続會津士魂 (全8巻)」も遺している。

 直進 (右折でも可) して山道を少し上ると、萱野権兵衛郡長正/父子の墓がある。
 近藤勇の墓へは、左の方へのカーブの道を行く。

近藤勇の墓  本堂の裏手の上り道を進む。


近藤勇の墓  3ヶ所ほどのカーブの先に、目的地はある。
 

近藤勇の墓 .

近藤勇の墓

 上坂仙吉 (会津小鉄) が、京都三条河原に晒された近藤勇の首を夜陰にまぎれ奪い取り、子分に命じて会津に持ち込ませた。
 仙吉自身も、籠城戦の最中、鳥羽伏見での戦死者遺品を届けている。
 その他にも、
  ◇ 土方歳三が、近藤の首を埋葬して建墓した。
  ◇ 斬首を聞いた土方が、斉藤一に命じて首を奪って持ち帰った。
  ◇ 土方が持参していた遺髪を埋葬した (平石弁蔵)。
などの諸説あるが、かつては配下とはいえ藩士でもない武人の遺髪を納めただけで、松平容保が破格の供養墓を建立(許可?)するであろうか。
 戒名まで贈っており、首と共に会津へ持参したと伝わる刀「阿州吉川六郎源祐芳」も現存している。
 「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」   「松平容保公 天寧寺山ノ上に閏四月二十五日ニ建立 法名ハ貫天院殿純忠誠義大居士ト云フ

近藤勇の墓の説明文  藩士は東京組と越後/高田藩に別けられ謹慎、そして斗南へ挙藩流刑。
 この墓も例外ではなく、しばし人々の記憶から消え去った。
 昭和30年代に入って、キノコ狩りの中学生らによって、草木に埋もれていた墓石が偶然に発見され、近藤勇の墓と確認された。
 に見つかれば確実に壊されるのを防ぐために、「隠された」ともいわれている。
 「貫天院殿純忠誠義大居士 慶応四戊辰四月二十五日卒俗称近藤勇藤原昌宜
 墓は龍源寺法蔵寺、慰霊墓は寿徳寺にもある。
 [肖像]

近藤勇辞世歌碑

近藤勇辞世歌碑 孤軍援絶作俘囚 (孤立し、援軍も絶え、囚われの身となる)
顧念君恩涙更流 (君主の恩を顧みて、涙が更に流れる)
一片丹衷能殉節 (真からの忠誠心、義のためなら命を捨てられる)
雎陽千古是吾儔 (雎陽での張巡は、永遠の同志である)
靡他今日復何言 (敵方に、今更何も言うことは無い)
取義捨生吾所尊 (大義のためなら、命を捨てることは望むところだ)
快受電光三尺剣 (首を刎ねる長剣を、快く受けよう)
只将一死報君恩 (一死をもって、君主の恩に報いたい)
      「雎陽」 とは、中国の故事から。
 唐代の武将/張巡が、雎陽城を守って賊軍(西軍)の安禄山と戦った。
 籠城戦で食料が尽き、愛妾を殺してその肉を将兵に与えて奮闘するも落城。
 屈せず死んだことから、忠臣の鑑と呼ばれている。
 近藤勇の忠節の心に、まったくの揺らぎのないことを示している。

土方歳三慰霊碑

土方歳三慰霊碑

 新撰組副長。
 近藤勇と並んで、盟友/土方歳三の慰霊碑が建てられた。

   慰霊碑
   歳進院殿誠山義豊大居士
     没年 明治二年五月十一日

 慶応4(1868)年4月11日、江戸城の無血開城が成立したため江戸を脱走する。
 秋月登之助の先鋒軍/参謀に就き、宇都宮城の戦いで勝利するなど活躍する。
 城を奪還したが足を負傷したため、会津へ護送される。
 約3ヶ月の療養生活を経て全快、近藤勇の墓参を毎日欠かさなかったという。
 母成峠の戦いで奮戦するも破られ、仙台を経て北海道に渡る。
 明治2(1869)年5月11日、一本木関門で腹部に被弾し戦死。
 享年35歳。
 埋葬地は不明であるが、墓は東京/石田寺、慰霊墓は寿徳寺にもある。

古川兼定 (古川家)

 会津で最も古い刀匠の家柄として子孫も代々「兼定」を名乗り、銘を奥州住会津兼定などと切り、長道とともに会津の2大刀匠と称される。
 土方歳三の愛刀は、11代/兼定のものである。

 歴代 実相寺だったが、一旦、故郷を離れたものの、近年、この地に改葬された。
 本殿の前方、会津の市街地が一望できる高台にある。


以上の緑色の文は、現地の「説明板」から .
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり
ツールチップあり .
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