寺への入口にある標柱に、「萱野父子奥津城の入口」とある。
「奥津城」とは、上代の墓、神道でいう墓所のこと。
「奥都城」 「奥城」ともいう。
多少の傾斜がある山道なので、ハイヒールなどは避けよう。
まず、本堂に参詣。
応永28(1421)年、11代/蘆名盛信公が創建し、楠木正儀 (楠正成の3男) の子/傑堂能勝が開山。
萬松山、曹洞宗。 本尊は文殊菩薩。
文安4(1447)年、盛信公が出家し、2世住職として名僧/南英謙宗を招く。
一時は、会津曹洞宗の僧録司であった。
宝暦年間(1751〜1764)には、末寺33寺・寺院12・常住僧侶17名・雲水1,000名を従え、東西71間半・南北64間の伽藍を有していた。 現在でも、53の末寺を持つ。
民謡/会津磐梯山の元歌/玄如節の玄如とは、6世/朝玄のこと。
天正17(1589)年、伊達政宗公により、蘆名氏所縁の寺として堂宇すべてが焼き払われた。
当時の遺構として残っているのは、本堂の礎石のみ。
住職/祥山曇吉は京都に逃れ同名の寺を開山、再興後も門人に継承されている。
秋田に移封された蘆名氏は、同名の末寺を角館に建立している。
従って、会津・京都・角館の3ヶ所に同名の「萬松山天寧寺」が存在する。
明治10(1877)年、現在の本堂が再建される。
会津十二支守り本尊の卯 (文殊菩薩)。
会津七福神の毘沙門天。
会津二十一地蔵尊の第十番。
境内に、2基の句碑もある。
伊東左太夫 古川兼定
殉難墓あり。
墓域への入口に、近藤勇之墓の説明文がある。
すぐに、分岐点に至る。
角地に、平成22(2010)年、この地に改葬された作家/早乙女貢の墓がある。
ライフワークであった全13巻の大作「會津士魂」の碑は、それ以前からあった。
続編「続會津士魂 (全8巻)」も遺している。
直進 (右折でも可) して山道を少し上ると、萱野権兵衛と郡長正/父子の墓がある。
近藤勇の墓へは、左の方へのカーブの道を行く。
本堂の裏手の上り道を進む。
3ヶ所ほどのカーブの先に、目的地はある。
上坂仙吉 (会津小鉄) が、京都三条河原に晒された近藤勇の首を夜陰にまぎれ奪い取り、子分に命じて会津に持ち込ませた。
仙吉自身も、籠城戦の最中、鳥羽伏見での戦死者遺品を届けている。
その他にも、
◇ 土方歳三が、近藤の首を埋葬して建墓した。
◇ 斬首を聞いた土方が、斉藤一に命じて首を奪って持ち帰った。
◇ 土方が持参していた遺髪を埋葬した (平石弁蔵)。
などの諸説あるが、かつては配下とはいえ藩士でもない武人の遺髪を納めただけで、松平容保が破格の供養墓を建立(許可?)するであろうか。
戒名まで贈っており、首と共に会津へ持参したと伝わる刀「阿州吉川六郎源祐芳」も現存している。
「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」 「松平容保公 天寧寺山ノ上に閏四月二十五日ニ建立 法名ハ貫天院殿純忠誠義大居士ト云フ」
藩士は東京組と越後/高田藩に別けられ謹慎、そして斗南へ挙藩流刑。
この墓も例外ではなく、しばし人々の記憶から消え去った。
昭和30年代に入って、キノコ狩りの中学生らによって、草木に埋もれていた墓石が偶然に発見され、近藤勇の墓と確認された。
に見つかれば確実に壊されるのを防ぐために、「隠された」ともいわれている。
「貫天院殿純忠誠義大居士 慶応四戊辰四月二十五日卒俗称近藤勇藤原昌宜」
墓は龍源寺、法蔵寺、慰霊墓は寿徳寺にもある。
新撰組副長。
近藤勇と並んで、盟友/土方歳三の慰霊碑が建てられた。
慰霊碑
歳進院殿誠山義豊大居士
没年 明治二年五月十一日
慶応4(1868)年4月11日、江戸城の無血開城が成立したため江戸を脱走する。
秋月登之助の先鋒軍/参謀に就き、宇都宮城の戦いで勝利するなど活躍する。
城を奪還したが足を負傷したため、会津へ護送される。
約3ヶ月の療養生活を経て全快、近藤勇の墓参を毎日欠かさなかったという。
母成峠の戦いで奮戦するも破られ、仙台を経て北海道に渡る。
明治2(1869)年5月11日、一本木関門で腹部に被弾し戦死。
享年35歳。
埋葬地は不明であるが、墓は東京/石田寺、慰霊墓は寿徳寺にもある。