中村家之墓
≪鈴木五郎 (重季)≫
白虎寄合一番隊/原隊。 16歳。
戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰の戦いで負傷し、10月8日に雨屋で死去。
(墓碑の裏)
明治元年九月十五日六郎兄
鈴木五郎 白虎隊 十六才
一ノ堰激戦三日討死 〜〜
(台座の前面)
祖父會津藩士
鈴木清吾 九五才
伯父 五郎 十六才
〜〜〜
〜〜〜
(台座の裏)
鈴木家
断絶ノ為
會津長命寺
墓土ヲ納ム
18区2種86側。
鈴木五郎の墓は、飯盛山と長命寺、常金寺にもある。
会津松平家墓
. 松平健雄 松平勇雄 |
4区1種21側 |
藩主/松平容保の次男 伊佐須美神社宮司) 松平健雄の子 衆議院議員・福島県知事 |
横光利一 . | 4区1種39側16号 | 東山温泉の旅館「新瀧」で誕生 [略歴] |
畑英太郎 . | 6区1種16側3号 | 陸軍大将 弟/畑俊六も陸軍大将 [略歴] |
西郷従道 . | 10区1種1側1号 | 西郷隆盛の弟 武田惣角の愛弟子 山川捨松を口説き落とし婚約に尽力 西郷頼母の遠縁 (西郷隆盛らと祖は同じ) |
中野友禮 . | 10区1種7側 | 日曹コンツェルン創業者 [略歴] |
西義一 . | 11区1種10側 | 陸軍大将 教育総監 [略歴] |
丹羽七郎 . | 14区1種3側1号 | 岩手県知事・埼玉県知事 内務次官 [略歴] |
高野源進 . | 15区1種9側 | 山梨県知事・広島県知事 警視総監 [略歴] |
井深 大 | 11区1種8側7号 | まさる 事業家/ソニー創業者 [略歴] |
佐藤繁彦 . | 11区1種19側 | 会津出身 ルッター根本思想の神学 [略歴] |
鈴木清吾 | 18区2種86側 | 藩士 中村家之墓の台座に刻印されている |
山本五十六 . | 7区特1種2側 | 会津で戦死した長岡藩/山本帯刀の養子 妻/禮子は、旧会津藩士/三橋康守の娘 山本五十六と帯刀の墓は長興寺にもある |
簗瀬真琴 . | 21区1種17側 | 会津三家の1つ/簗瀬家の出身 [略歴] |
植村正久 . | 1区1種1側8 | 井深梶之助の同窓生で親友。 佐藤繁彦の師の1人。 |
間部詮勝 . | 4区1種29側 | 越前鯖江藩主 [略歴] 会津藩士/山内香渓を匿う。 |
与謝野晶子
. 与謝野鉄幹 . |
11区1種10側14 | 会津を こよなく愛し、娘を会津人に嫁がせている [ご縁] |
海老名弾正 . | 12区1種7側18 | 新島八重の夫/新島襄から按手礼を受ける。 弓町本郷教会の初代・3代目/牧師。 |
朝永振一郎 . | 22区1種38側5 <仁科芳雄の墓域内> |
新城新蔵の門下生 理論物理学者で、ノーベル賞/受賞者 |
生家/宮川家の菩提寺。
首以外が埋葬されているという。
「貫天院殿純義誠忠大居士」。
墓は天寧寺、法蔵寺、慰霊墓は寿徳寺にもある。
墓所の左手に辞世の句がある。
捕縛された翌日 (4月4日) に詠んだ漢詩。
歌碑は、天寧寺にもある。
近藤勇生家跡龍源寺から250メートルほどの所に、近藤勇の生家跡がある。産湯の井戸や、近藤勇を祀った近藤神社 (小さな祠) もある。 ▲(調布市野水1-6-8) |
松本捨助 (本宿共同墓地)本宿村/松本友八の長男。文久3(1863)年2月と11月の2度ほど浪士組入隊を望んだが、 家を継ぐべき長男であることから不許可となる。 慶応3(1867)年、入隊が認められる。 鳥羽伏見、甲州勝沼を経て、会津へ転戦。 母成峠の戦いの後、仙台で離隊し、帰郷した。 大正7(1918)年4月6日に死亡。 享年74歳。 「本阿院鐡心義光居士」。 ▲(府中市西府町3-3 持仏堂側275) |
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▲(府中市若松町5-9-5 Tel. 042-362-2547)
成合 清 桑名藩士/成合平三郎常存の3男。 桑名藩主/松平定敬に随従し、飛び地/柏崎から会津へ転戦。 仙台から箱館へ渡る。 藩主が横浜へ戻り降伏すると、新撰組に入隊。 明治2(1869)年5月15日、弁天台場で降伏。 明治10(1877)年9月27日、コレラに罹り死去。 享年30歳。 「義忠院常久日顕居士」。 合葬とのことだが、本墓は大長寺の移転時に整理された。 |
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明治(1869)年5月11日、五稜郭で戦死。
享年35歳。
「歳進院殿誠山義豊大居士」。
慰霊碑は天寧寺、慰霊墓は寿徳寺、称名寺にある。
石田寺は、土方家の墓所。
寺の周囲は、「土方」姓の住宅で いっぱい。
昭和4(1968)年、子孫が建立。
▲(日野市石田1-1-10
Tel. 042-583-6660)
近藤勇の兄弟子。
新撰組六番隊組長。
慶応4(1868)年1月5日、鳥羽伏見の戦い (淀千両松) で戦死。
元の墓石は風化したため、平成9(1997)に新しく建立。
「誠願元忠居士」。
享年40歳。
顕彰碑が駐車場に面した所にある。
井上泰助 井上松五郎の次男で、井上源三郎の甥。 慶応3(1867)年6月、11歳で新選組に入隊。 慶応4(1868)年1月。鳥羽伏見の戦いで源三郎が戦死しため、敵に奪われないように首を切り落とし、近くの寺前の田んぼに埋めたという。 「泰岳宗保居士 昭和二年二月十日 泰助」 |
多数の「井上家之墓」で囲まれている。
JR日野駅ホームからも見える。
▲(日野市日野本町36-9 Tel. 042-581-1926)
▲(八王子市堀ノ内547 Tel, 042-676-9416)
斎藤一諾斎 幕臣/鈴木伴次郎重斯の次男。名は斎藤秀全。 幼少に仏門入りし、各地で住職を歴任。 甲州勝沼で協力後に還俗し、新撰組に入隊 (諸説あり)。 上野、宇都宮を経て、会津で奮戦。 斉藤一とは別人。 仙台にて、西軍に降伏。 明治7(1874)年12月18日、病死。 享年62歳。 「一諾斎大道秀全居士」。 |
13区の中ほどにある。
八王子堀ノ内村/横倉良助の次男。
元治元(1865)年10月、新選組に入隊。
鳥羽伏見、甲州勝沼を転戦し、会津で奮戦。
仙台で榎本武揚艦隊に入り、函館へ渡る。
明治2(1869)年5月15日に降伏するが、
明治3年8月15日に東京/糾問所で拷問により獄死。
享年37歳。
小塚原に埋葬され、後に横倉家の墓地に改葬。
「義のために つくせしことも 水の泡
打ちよす波に 消えて流るゝ」
▲(八王子市鑓水1356 Tel. 042-676-8117)