水野 源左衛門 |
みずの げんざえもん、 慶長9(1604)年〜正保4(1647)年11月29日 (44歳) 名:成治。 <本郷焼の陶祖> 身の美濃国瀬戸 (岐阜県) は戦火が絶えず、新たな焼物ができる地を求めて陶工らが全国に散っていった。 実弟/瀬戸右衛門を率いて探し求めていたが、岩瀬郡長沼で故郷の粘土に良く似た陶土を見つけ、開窯して焼物を生業とする。 正保2(1645)年、保科正之公に招かれて、若松に移住。 領内の山々を調査し苦労の末、本郷観音山に良質の陶土を発見。 正保4(1647)年、本郷に開窯して、大皿や茶碗、水差し、香炉、置物などを造り始める。 同年、志し半ばにして死去、弟/瀬戸右衛門が引き継ぐ。 墓は井上浄光寺 . 「釋道宣」「得業院殿忠国道宜居士」 明治13(1880)年、遺徳を偲んだ陶業者有志によって陶祖廟が建立。 陶祖廟のある常勝寺では、毎年 陶祖祭が開催され、功績を讃えている。 |
水野 瀬戸右衛門 |
みずの せとえもん、生年不詳〜万治3(1660)年3月3日 本名:成長。 通称:長兵衛。 <焼物師> 実兄/源左衛門に随従し、身の美濃国瀬戸から岩瀬郡長沼に移住。 慶安元(1648)年、保科正之公に招聘されながら、志し半ばで死去した兄/源左衛門の遺志を継ぐため、長沼の窯を閉じて本郷に移住する。 優れた石灰焼成などの作法を完成、正之公から「初代瀬戸右衛門」の称号を賜り、御用窯となる。 承応 2(1653)年、瓦役所が設置されるほど発展。 雪国に対応した凍み割れのしない赤瓦の開発 (耐寒赤瓦焼成) などを成し遂げ、本郷焼の基礎を築く。 墓は、井上浄光寺 . 「釋道○」 百年後、この地に磁祖/佐藤伊兵衛が誕生し、本郷焼が完成する。 |
道辰 |
みちとき、生年不詳〜享保15(1730)年10月7日 本名:中条太郎吉。 通称:平右衛門。 <刀工> 三善政長の弟である祖父/長俊が、三善家の分家を興す。 三善長道に師事し、刀工としての基本を学ぶ。 元禄14(1701)年、上洛し、3代/伊賀守金道の門下に入る。 修業の末、「若狭守」を授かり、名を道辰と改めて、十六菊紋を切る刀工として独立。 享保年間 (1716〜1735) の幕府選「在世名工」に選ばれる。 その後は、五鍛冶の1つとして、2代・3代(藤助)・4代(文吉)・5代 (安五郎)・6代(藤之進) まで道辰銘の刀匠一派を成す。 |
三橋氏 |
みつはしし、 <蘆名氏の家臣> 加納荘地頭/佐原五郎盛時の次男/常世頼盛を祖とする。 その子/太郎義通が、三橋村と貝沼村を支配し、居館が三橋村だったことから三橋氏を称したとされる。 後に、会津四郡を領した蘆名氏の家臣となる。 何度か反乱を起こし、 ◇ 文亀2(1502)年、常世氏の反乱に与し会津から追放される。 ◇ 文亀3(1503)年、伊達尚宗の支援で会津に攻め入るが敗退。 ◇ その後、許されて会津へ戻り、再び蘆名氏の家臣となる。 などの例もあるが、伊達政宗公により滅ぼされるまで仕えている。 会津盆地を縦断する日橋川渡河点である三橋村を支配し、三橋館の他に三橋刑部重治の下遠田館などの居館を構え、大いに栄える。 蘆名義広公が会津から常陸に逃れる際に従った数少ない家臣にも名はあるが、一族の大半が各地の肝煎など帰農した。 なお、伊達軍が黒川城を攻める際に、三橋館に陣を敷いている。 |
皆鶴姫については、こちら。 |
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三善長道(初代)については、こちら。 |
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三宅重直 |
鳥居忠政の家臣であった三宅孫兵衛重直は、鳥居家が改易となってしまったが、新たな藩主/保科正之公に召し抱えられる。 名:重直。 通称:孫兵衛 (通し名となる)。 寛永20(1643)年、会津藩への移封に従い、奉行を経て家老に就く。 慶安5(1652)年3月13日、三宅孫兵衛重直が死去。 墓は、大窪山墓地。 「釋英光」 隣接して、祖父/孫兵衛重張と父/重則の墓がある。 その後、三宅家は家老を出す家老九家となる。 歴代家老は2名。 最近まで、三宅家の庭園の一部が「料亭 米熊」に残っていたが、閉店してしまった。 |
三澤 与八 |
みさわ よはち、 弘化1(1844)年3月18日〜明治24(1891)年12月30日 (47歳) 名:尚志。 変名:毅。 小出島代官/三澤牧右衛門の長男として、鶴ヶ城下にて誕生。 藩命により江戸の林塾に修学。 戊辰の役では、旧幕府軍/伝習隊の差図役頭取として日光口に布陣し、 を撃退し日光口からの侵入を断念させている。 江戸城開城で大隊解散となったため会津に帰国。 籠城戦に入り、遊撃隊/小室隊甲長として長命寺の戦いに出陣、壮絶な戦いの末に生き残ったのは、遊撃隊/小室隊に5人いた幹部で与八ただ一人だったと云う。 その後は城に戻らず、城外の各地で奮戦。 開城後は、高田/高安寺で幽閉(謹慎)を経て、斗南藩へ移住 (大畑村/大安寺)、後に青森県職などを歴任。 明治 8(1875)年、名を三澤毅に改め、老母・弟・妹・妻・子の家族6人で、屯田兵に応募し琴似村に入植。 明治10(1877)年、西南戦争が勃発するや積年の恨みを晴らすべく志願し出征したが、 への怨念は生涯 消えなかったという。 明治20(1887)年、屯田兵第一大隊第三中隊の初代中隊長に就く。 墓は、手稲平和霊園。 北海道文書館 (北海道庁旧本庁舎内) に琴似屯田入植後3年目から死去する年までの日記や覚書きなどが保存されている。 平成21(2009)年、代々受け継がれてきた戊辰の役での「進撃隊の旗」が会津若松市に寄贈された (現存している唯一の戦旗)。 |
水島 純 |
みずしま じゅん、弘化元(1844)年〜昭和6(1931)年9月7日 (88歳) 通称:弁治、弁次。 藩校/日新館で頭角を現し、昌平坂学問所(昌平黌) で学ぶ。 戊辰の役では、江戸大砲隊として鳥羽伏見の戦いで参戦。 江戸総引き揚げの際には残留し、「五助」と称して奴僕に身を扮し、情勢を探索する。 任務を終えると、山川大蔵の参謀に就き日光口を守備、旧幕府軍/大鳥圭介と連携してを撃退、この方面からの突入を断念させる。 が鶴ヶ城下に来襲したため、帰城命令を受ける。 すでに城下は戦場と化し、無傷での入城を思案する山川に、伝統芸能の獅子舞「彼岸獅子」の行列に扮して入城する奇策を進言し、1兵も失うことなく入城を成し遂げる。 開城後は幽閉(謹慎)を経て、斗南藩へ移住し権大属庶務掛に就く。 斗南藩の消滅後も残留し、青森県庁に仕官。 明治8(1874)年、陸軍少尉兼陸軍裁判官に就任。 これ以降、裁判官の道を歩む。 明治28(1895)年、日清戦争に出征し、軍功をあげる。 明治37(1904)年、退官。 妻/菊子は、婦女隊として中野竹子たちと共に柳橋で奮戦。 |
三本 住庵 |
みつもと じゅあん、生年不詳〜明治24(1891)年 (72歳) 瀕死の飯沼貞吉を最初に治療した医師。 貞吉を見つけて袋山の岩屋に連れて来た印出ハツは、箪笥の陰に隠して 寝ずの介抱をしていたが、 の探索が始まり危険を感じ、塩川村に逃げ延びた後、町医者を探し連れてきた。 傷口を縫い、膏薬を貼った。 墓は塩川/阿弥陀寺。 「廣安院濟譽民山寶生居士 三代三本住庵定茂墓 壽七十二歳 明治二十四辛卯年 陰暦十二月廿四日」 夕刻には傷口が悪化したが、たまたま居合わせた長岡藩の軍医/阿部宗達・吉見雲台らがハツの熱意により、治療をやり直してくれた。 |
《殉難者》 | 三浦重八 | 三坂喜代之助 | 三澤留吉 | 皆川守之助政詮 |
三橋文内 | 三宅小左衛門 | 宮下繁之助 | 宮下清之蒸守真 |
三浦 文次 |
みうら ぶんじ、 安政3(1856)年9月1日〜明治19(1886)年10月5日 (31歳) <自由民権運動家> 真部 (まなべ) 喜一の次男として小川村 (喜多方市山都) にて誕生。 後に米岡村針生(喜多方市)の肝煎/三浦家の分家養子となる(11歳)。 明治6(1873)年、北海道などを巡歴し、その後に警視庁巡査と就く。 明治14(1881)年、退官し、帰郷。 推されて自由党会津部の米岡組幹事に就任。 本来は国費で賄うべき工事費用を住民に押し付ける極悪人/県令三島通庸の三方道路の難事が始まり、凄まじい搾取を始めたため反対運動に加わり、手先となっていた郡長らを原平蔵と共に告訴した。 農民たちの結束の固まりを恐れた極悪人/三島は、逆に誣告罪で逮捕という法治国家にあるまじき悪行に出る。 この過酷な労働と厳しい代金徴収の圧政から、喜多方事件、清水屋事件などが起こり、会津での自由民権運動の発端になる。 極悪人/三島は絶好の口実として利用し検挙を発令、2千人を超える自由党員と農民が不法逮捕される。 国事犯として東京へ送致されたが、上告し無罪となるが、メンツを潰された極悪人どもから官吏侮辱罪の名目で追われる身となる。 明治17(1884)年、極悪人/三島の暗殺を計画中に逮捕 (加波山事件)。 明治19(1886)年、なぜか死刑判決7名に含まれ東京鍛冶橋で処刑。 墓は谷中霊園、示現寺。
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南 清 |
みなみ きよし、 安政3(1856)年5月1日〜明治37(1904)年1月3日 (満47歳) 藩士/南舎人(保定)と母/竹子(河原善左衛門の妹)の子として鶴ヶ城下にて誕生。 戊辰の役では、中軍護衛隊として籠城戦を戦い抜く。 開城後は、幽閉 (謹慎) を経て赤貧の中、上京し洋学者/神田孝平などの塾で英語を勉強する。 塾慶應義塾、開成学校で学んだ後、工部省/測量司技生に就く。 明治 6(1873)年、設立された工部大学校 (東京大学工学部) に、在職しながら入学。 明治12(1879)年、最優等の成績で工部大学校土木科 (1期生) を卒業し、工学士号を授与される。 明治13(1880)年、イギリス/グラスゴー大学に国費留学し、橋梁、築港工事などを学ぶ。 冬季の休校中、スペインで鉄道や給水工事に従事して実務を学ぶ。 明治15(1882)年、グラスゴー大学を卒業し、アメリカ/ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴなどの鉄道関連企業や鉄道線路などを訪れて調査・研究に没頭する。 明治16(1883)年、帰国し、工部省/御用掛に就く。 建築主任/権少技長に就任し、各地の工事監督を担任。 明治23(1890)年、乞われて筑豊鉄道 (山陽鉄道会社)/技師長兼建築課長に就任。 明治24(1891)年、筑豊鉄道/技師長兼技術課長に就任のまま、播但鉄道/技師長に就任し兼務する。 明治29(1896)年、工事前の阪鶴鉄道 (福知山線) に移り、総務顧問兼技師長に就任。 明治30(1897)年、阪鶴鉄道/社長に就任。 明治31(1898)年、大阪の鉄道協会発足に携わり常議員に就く。 その後、同協会の副会長に就任。 駿甲・徳島・中越・七尾・阪神電気、北海道鉄道などの顧問を歴任。 明治33(1900)年、経営難の唐津興業鉄道/社長を兼務し、九州鉄道との合併を成し遂げ同社/社長を辞任。 明治37(1904)年、阪鶴鉄道/社長の在任中、兵庫県神戸市で急逝。 工事・運輸で関与路線は1,373キロメートル、測量・調査・顧問の関与路線は2,187キロメートル、合計3,560キロメートルは、日本全鉄道の3割 (開通線路では4割) を超えていた。 青山墓地に埋葬されたとのこと。 |
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三淵 忠彦 |
みぶち ただひこ、 明治13(1880)年3月3日〜昭和25(1950)年7月14日 (71歳) <最高裁判所/初代長官> 藩士/三淵隆衡の子として若松 (会津若松市、岡山育ち) にて誕生。 父/隆衡は、故なく問われた藩の責を一身に背負い切腹した家老/萱野権兵衛長修の実弟で、家名が断絶されたため三淵を名乗った。 第二高等学校を経て、東京帝国大学法科に入学。 在学中、両親と弟を相次いで失い、失意のため学業を中断する。 放浪の旅の末、京都帝国大学法科大学に再入学。 明治38(1905)年、苦学の末に京都帝国大学を卒業し(25歳)、東京で法学者/石渡敏一の書生となり、司法官試補を取得。 明治40(1907)年、東京地方裁判所/判事に就任。 長野地方裁判所/裁判官などを歴任。 明治43(1910)年、東京地方裁判所/部長に就任。 大正12(1923)年、大審院判事に就任。 大正13(1924)年、東京控訴院上席部長に就任。 大正14(1925)年、司法界から嘱望されつつも退官し、三井信託の法律顧問に就く (45歳)。 慶應義塾大学において民法の講師も兼ねる。 昭和16(1941)年、太平洋戦争が始まると一切の公職を辞任する。 昭和22(1947)年、憲法改正で新設の最高裁判所/初代長官に就任。 新制度の下、司法の確立に尽力し、民主的な基礎を築く。 占領軍に対しても、正面から正々堂々と対応した。 「民主的憲法の下にあっては裁判所は、真に国民の裁判所になりきらねばならない。 国民各自が裁判所を信頼し国民の裁判所であると信ずる裁判所にしなければならない」。 「会津武士の風格を残し、その意見は極めて適切」と称賛された。 著書「民法概説」「信託法通釈」「日常生活と民法」など。 昭和25(1950)年、退官し、4ヶ月後に回盲部腫瘍で死去。 墓は霊寿院。 「天性、勝負事は大嫌い 争いを裁く裁判・法律家に適していないのだが “公正を愛する心”のみが 私を裁判所へつないでくれた」 「我々は遠回りでも天下の大道を歩きましょう よしや抜け道や裏道があって その方が近いと分かっていても それはよしましょう 川に橋がなければ橋を架けてから渡りましょう」 |
三浦(林)梧楼 | 三浦新市 | 三浦信六 | 三沢千賀良 | 水野多門成隆 | 水野敏雄 |
箕輪醇 | 宮崎十三八 |