展望台の「戊辰戦役 母成峠古戦場古戦場跡」の碑から、下ったすぐに脇道に入る。
道路沿いに標板はあるが、注意しないと見落としがち。
砂利道の先にある駐車場から1段下の奥にある。
短い杭で囲まれた土饅頭が埋葬地である。
木製の標柱が、墓碑として添えられている。
長賊らは埋葬すら許さなかった。
翌年、仮埋葬は黙認したが、墓標を設けることすら許さなかった。
やがて草木に覆われ、所在地すら分からなくなった。
昭和53(1978)年6月2日になって、やっと再発見された。
それからは毎年、命日の8月21日に慰霊祭が催されている。
奥の1段低い所に、東軍殉難者慰霊 万葉の庭があり、一般公開(有料)されている。
≪東軍殉難者慰霊碑≫
昭和57(1982)年10月6日に建立。
裏に戦死者として、名前の判明している会津藩38名、二本松藩8名、唐津藩6名、新選組6名の計58名の名前が刻まれている。
名前の一覧は、こちら。
埋葬された遺骸は88名とも、100名以上ともいわれている。
ここへ埋葬する際も、戦死が判明している58柱は見つからなかったという。
≪家老/西郷頼母の歌碑≫
慰霊碑の脇に、家老/西郷頼母が詠んだ和歌の碑がある。
昭和59(1984)年9月に建立された。
明治22(1889)年4月24日になって初めて、阿弥陀寺において殉難者慰霊祭が開催できた。
やっと開催できた喜びを歌ったもの。
「なき魂も 恨みは晴れて けふよりは ともに長閑く 天かけるらん」
慶応4(1868)年8月21日、母成峠の戦いが始まった。
その中でも激戦地であった勝軍山の戦いでの東軍戦死者29名を合葬した墓。
翌年による埋葬のため、埋葬者の名前は分っていない。
伴百悦が奔走して埋葬した墓の一つ。
現在の墓石は、大正6(1917)年8月21日に建立。
▲(猪苗代町新町4899 Tel. 0242-62-2833)
・西円寺については、こちら。
若林八次郎
.
海八の次男。
白虎寄合一番隊/原隊。
慶応4(1868)年8月、赤谷で戦死。
16歳。 「忠義神霊」
(戊辰(1868)年9月15日に一ノ堰で戦死とも)
墓碑は、「八月廿三日」。
墓は、飯盛山にもある。
秋山和左衛門
.
猪苗代隊/原組免許。
慶応4(1868)年8月25日、二軒茶屋辺りで戦死。
54歳。
秋山和三郎
. 和左衛門の次男。 猪苗代隊。 慶応4(1868)年1月4日、淀で戦死。 20歳。 墓碑には「行年十九才」とある。 黒谷/慰霊碑に記載あり。 |
秋山牧太郎
.
市左衛門の嫡男。 猪苗代隊。
慶応4(1868)年8月21日。勝軍山で戦死。 27歳。
東軍殉難者慰霊碑に記載。
秋山鉄次郎
市左衛門の次男。 堀半右衛門隊 堀隊。
慶応4(1868)年1月4日、伏見で戦死。 25歳。
御香宮戦死者名簿にはあるが、なぜか黒谷/慰霊碑に無い。
大竹佐兵衛
.
慶応4(1868)年8月 (9月とも)、鶴ヶ城/三ノ丸で戦死。
墓碑には、
「八月二十三日
〜 三十六才」
とある。
▲(猪苗代町弁才天西 辺り)
小平潟天満宮の社主、土津神社の守衛。
藩軍属。
慶応4(1868)年8月22日、猪苗代/古町で戦死。
22歳。
▲(猪苗代町大字中小松船場道北)
猪苗代隊石山組。
慶応4(1868)年8月21日、勝軍山で戦死。
42歳。
東軍殉難者慰霊碑に記載。
▲(猪苗代町大字三ツ和角場)