慶応四年八月二十一日、母成峠の戦いの東軍戦死者の遺体は 当時 西軍のきびしい命令により埋葬を許されず戦後暫くの間、放置されたままになっていたが これを見かねた近くの人々が西軍の眼をぬすんで遺体を集め仮埋葬した。
その後この地は雑草に覆われて その所在がわからなくなっていたのを、百十余年後の昭和五十三年六月二日猪苗代地方史研究会の手によって発見された。 その後 子孫を中心として母成弔霊義会を結成し毎年慰霊祭を執り行ってきたが、昭和五十七年十月六日東軍殉難者慰霊碑建設と同時に長く保存することにしたものである。
母成峠の戦いは、慶応四年(一八六八)八月二十一日、ここ母成峠周辺を戦場として戦われた。 この日、本宮、玉ノ井村に結集を終った西軍は、兵を三分し、谷干城(土佐)の率いる凡そ千名は勝岩(猿岩)口へ、板垣退助、伊地知正治率いる凡千三百名は石筵本道口へ、川村純義(薩摩)率いる凡三百名は山葵沢より滝沢口へ、一斉に進発した。
これを迎え撃つ東軍は、総数僅かに八百名。
勝岩口には、勝岩上に、大鳥圭介率いる伝習第二大隊及び会・二本松
兵併せて三百名が守備に当たり、勝岩下には、新選組凡七十名を配置し、土方歳三・山口次郎がこれを指揮した。
石筵本道口の第一台場(萩岡)第二台場(中軍山)第三台場(母成峠)には、会津藩主将田中源之進・二本松家老丹羽丹波、伝習第一大隊長秋月登之助らの指揮する、会・仙・二本松及び伝習第一大隊併せて四百数十名が守備に当たった。
戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分かれ、午前九時から凡そ七時間に及ぶ激戦を展開したが、圧倒的な兵数と火力の差は如何ともすることができず、
東軍は、北方高森方面、西方猪苗代方面に敗退した。 このため西軍は、二十二日十六橋を突破し、二十三日戸ノ原口を経て、怒濤のように会津鶴ヶ城に殺到した。 東軍戦死者八十八名、西軍戦死者二十五名。
母成峠の戦いは、慶応四年 (一八六八) 八月二十一日 圧倒的な兵力を集中して 一挙に会津国境を突破しようとする西軍と天嶮に拠って あくまでもこれを阻止しようとする東軍との間に戦われた戊辰戦役中 最も注目される戦いであった。
西軍総勢三千 これに対する東軍僅かに八百 戦いは前日の山入の戦いを皮切りに 濃霧の中 終日行なわれたが 東軍は終に衆寡敵せず北方 高森方面 西方 猪苗代方面に敗退した。
ここに百十余年前に思いをいたし この戦いに散った東西両軍の兵士百余名の霊を弔うと共に この戦跡を永く後世に伝えるために この碑を建設するものである。
昭和五十七年十月六日
埋葬された遺骸は88柱とも、100柱以上ともいわれている。
埋葬した当時に、戦死が判明できた殉難者の姓名と遺骸58柱が同定されたのではない。
現在、判明している殉難者数は74名。
会津藩 (38名) |
秋山牧太郎 | 市左衛門の伜 猪苗代隊 |
8月21日勝軍山で戦死 | 27歳 |
浅野浅次郎 | 詳細不詳 | |||
石山万七 | 猪苗代勇壮隊井深組 | |||
磯田藤治 | 猪苗代勇壮隊井深組 | 8月21日勝軍山で戦死 (負傷し23日若松で死去とも) | ||
柿田政太郎 (又六郎とも) | 猪苗代隊石山組足軽 | 8月21日勝軍山で戦死 | 16歳 | |
梶田銀蔵 | 猪苗代勇壮隊井深組 | 8月20日二本松/山入で戦死 | 山入 | |
兼子進 | 勇の伜 猪苗代隊 | 8月21日勝軍山で戦死 | 41歳 | |
兼子雄吾 | 勇の孫 | 8月21日勝軍山萩岡で戦死 | 17歳 | |
菊地徳蔵 | 猪苗代隊勇壮組足軽 | 8月21日勝軍山で戦死 | ||
小林平馬 | 猪苗代隊 | 44歳 | ||
小林祐之進 | 平馬の伜 猪苗代隊寄合 | 22歳 | ||
小林米蔵 | 半蔵とも | |||
鈴木与七 | 猪苗代小田の住人 | |||
高橋利左衛門 | 猪苗代隊付 | 54歳 | ||
鳥居熊之助 | 大鳥圭介隊歩兵隊軍目付 | 21歳 | ||
中村新六 | 竹太郎の父、足軽免許 猪苗代隊石山組 | 40歳 | ||
野村六郎 | 寅三郎の弟 猪苗代隊 | 15歳 | ||
橋本利右衛門 | 猪苗代普請方 | 55歳 | ||
早川留吉 | 猪苗代勇壮隊井深組 | |||
原政治 | 猪苗代勇壮隊井深組 | 8月20日二本松/山入で戦死 | ||
増子惣左衛門 | 勘定改役 | 8月21日勝軍山で戦死 | 40歳 | |
宮下繁之助 | 外次郎の父 猪苗代隊坂綱組 | 8月21日沼尻山で戦死 | 50歳 | |
村松栄五郎 | 猪苗代隊 | 8月20日二本松/山入で戦死 | ||
村松栄次郎 | 猪苗代隊 | 8月21日勝軍山で戦死 | ||
村松忠三郎 | 忠次郎の次男 | 28歳 | ||
村松常次郎 | 猪苗代隊大砲隊 | 32歳 | ||
目黒久次郎 | 軍夫 | 18歳 | ||
山口新次郎 | 猪苗代勇壮隊井深組 | |||
山口友記 | 覚太の伜、足軽免許 猪苗代隊石山組 | 42歳 | ||
山田作治 | 猪苗代勇壮隊井深組 | |||
山本市之丞 | 免許、猪苗代隊石山組 | 42歳 | ||
横地源四郎 | 猪苗代隊 | 8月21日勝軍山で戦死 (7月17日会津根田とも) | 23歳 | |
横山新太郎 | 猪苗代隊 | 8月21日勝軍山で戦死 | ||
横山新平 | 猪苗代勇壮隊井深組 | 8月21日石莚二枚橋で戦死 | ||
吉田長治 | 猪苗代勇壮隊井深組 | 8月21日二本松山入で戦死 | ||
渡部一八 | 五一の伜 猪苗代隊石山組 | 8月21日勝軍山で戦死 | 19歳 | |
渡部吉三郎 | ||||
渡部巳之吉 | ||||
二本松藩 (8名) | 青山又十郎 | 広間番 | 8月21日石莚村で戦死 | |
大森此母 | 広間番 | 8月21日石莚村母成峠で戦死 | ||
佐野喜代治 | 7月29日二本松城郭外で戦死 (8月20日山入村とも) | |||
滝川九右衛門 | 駒奉行 大谷与兵衛隊 | 8月21日石莚村で戦死 | 台運寺 | |
種橋荘吾 | 宗門奉行 | 8月21日石莚村母成峠で戦死 | ||
松田久右衛門 | 年賦金取立役 | 8月21日石莚村で戦死 | ||
松本織之助 | 大組広間番 大谷鳴海隊 | 8月20日石莚村で戦死 | 山入 | |
八木文三郎 | 8月21日石莚村で戦死 | |||
唐津藩 (6名) |
市川熊雄 | 8月21日勝軍山で戦死 大龍寺 |
||
高須大次郎 | ||||
田邊鉄三郎 | ||||
水野忠右衛門 | ||||
吉川七之助 | ||||
吉倉冕三郎 | ||||
新撰組 (6名) |
漢 一郎 | 局長付小頭/旗役頭取 | 8月21日勝軍山で戦死 寿徳寺 ※丸山駒之介・石田入道は負傷し たが此の地で死去していない。 |
31歳 |
加藤定吉 | ||||
木下巌 | 徳島(山城とも)出身 | 23歳 | ||
小堀誠一郎 | 平隊士 | |||
鈴木錬三郎 | 姫路出身 局長付 | 21歳 | ||
千田兵衛 | 元/津軽藩士 下役 | 23歳 |
なき魂も 恨
ともに長閑
この和歌は、会津藩西郷頼母が明治二十二年四月二十四日、会津若松市阿彌陀寺で、会津殉難者慰霊祭が、晴れて執行出来るようになった喜びを詠んだ和歌で、西郷家で自刃した二十一人のうち六名までが、小森家の血縁につながる人々であったこと、又、小森一貫斉が母成峠で戦ったことに思いを馳せ、一貫斉の曾孫である小森昌子さんが殉難者への鎮魂のため昭和五十九年九月、ここに建設したものである。
東軍殉難者慰霊碑 万 葉 の 庭
「東軍殉難者慰霊碑」は 戊辰戦争の母成峠の戦いで戦死した東軍 (幕府軍) の殉難者の霊を弔うため、昭和五十七年に「母成霊義会」の努力で建立されたものです。
毎年、殉難者の命日である八月二十一日には 厳かに慰霊祭が催されています。
「万葉の庭」は、万葉集に歌われた植物を中心に、山野草や湿原の花など約二千種もの植物を栽培し、自然植生観察園として一般開放されています。
・冬期は、閉鎖