戊 辰 の 役 / 殉 難 者
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大 龍 寺 (ネットで墓参)
▲(会津若松市慶山2-7-23 Tel. 0242-27-9376)
・大龍寺については、こちら。
ツールチップあり .
大龍寺戊辰戦争殉難殉節供養
.
本堂の前にある。
会津藩士と唐津藩士の名前が刻まれている。
∴
唐津藩士
.
慶応4(1868)年8月21日、勝軍山で戦死。
・水野忠右衛門
・高須大次郎
・吉倉冕三郎
・田邊鉄三郎
・市川熊雄
・吉川七之助
「明治元戊辰年八月○○日 於将軍山戦死」。
母成峠の戊辰戦役東軍殉難者慰霊碑にも記載されている。
遊撃隊/三宅隊小隊頭 兼 力士隊/隊頭。
慶応4(1868)年8月14日、赤谷で戦死。
34歳。
「源徳院殿戦道勇義居士」
新発田市上赤谷に、會藩戦死碑がある。
赤埴定蔵、酉四郎
.
≪赤埴定蔵≫ 遊撃隊/相沢隊。 54歳。
慶応4(1868)年9月1日、若松郊外/西方で戦死。
(舟渡山での戦いとも)。
「義了院殿智山良戦居士」
上原墓地にもあったのだが確認できず。
≪赤埴酉 (鳥) 四郎≫ 平八の弟。
大砲士中一番隊小原隊嚮導。 21歳。
慶応4(1868)年8月23日、城内埋門で戦死 (天寧寺町とも)。
「源正院殿義道了戦居士」
神戸民治、岩蔵綱衛
.
≪神戸民治≫
青龍士中三番隊/木本隊半隊頭。 31歳。
戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。
≪神戸岩蔵綱衛≫ 民治の弟。
父/内蔵が江戸詰で、会津訛りがなかった。
文久3(1863)年6月23日、間者として長賊の地に潜入するため出立。
馬関や長府の内実を探っては、京都の本陣に送り続けた。
慶応元(1864)年5月に発覚し、8月2日に道玄堂山にて惨殺。
21歳 (20歳とも)。
沼沢道子・貞子・ゆや子・すが子
.
慶応4(1868)年8月23日、甲賀町の自邸にて家族と共に自刃。
・沼沢道子 | 小八郎の母 | 52歳 |
・沼沢貞子 | 同/祖母 | 86歳 (82歳とも) |
・沼沢ゆや子 | 同/姉 | 27歳 |
・沼沢すが子 | 同/姉 | 23歳 |
沼沢家家臣
.
≪鈴木勝之丞≫
沼沢出雲の家来。 52歳。
慶応4(1868)年8月23日、甲賀町の主家/沼沢邸前で戦死。
≪内川源吾 (源吉とも)≫
沼沢出雲の家来。 30歳。
慶応4(1868)年8月23日、甲賀町の主家/沼沢邸前で戦死。
墓は、下ノ原墓地にもある。
沼沢弘通の2男だが、兄/明通が禁門の変で戦死したため家督を継ぐ。
小八郎から、後に七郎に改名。
戊辰の役では15歳ながらも、一族を集め「遊撃隊」と称し、各地で奮戦。
戦後は、上京し修学、岩手・福島・香川・秋田県などの役人を歴任。
大正4(1915)年12月22日没。
中土井弥右衛門
慶応4(1868)年4月11日、下野で戦死。
詳細不詳。
「長徳院翁宗清居士」
近年、整理された模様。 [墓石]
大砲奉行兼軍事奉行。西洋砲術導入に尽力。
慶応4(1868)年1月3日、伏見豊後橋で負傷。
同月10日、紀州沖の船中で死去。
63歳。
京都/黒谷に慰霊碑がある。
戦後に外交官・大使として活躍した林権助は孫。
林安儀 (又三郎)
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権助の倅。軍事方。 40歳。
慶応4(1868)年1月5日、淀で戦死。
京都/黒谷に慰霊碑がある。
林氏合葬之墓 .
林一族の合葬墓。 .
明治33(1900)年9月16日建立。
国府3兄弟
≪国府辰次郎≫ 源十郎の弟。 義集隊/小隊頭。
慶応4(1868)年閏4月25日、磐城/白河で戦死。 37歳。
≪国府篤三郎≫ 源十郎弟。 朱雀士中三番隊原田隊。
慶応4(1868)年8月29日、下町西堀端で戦死。 20歳。
≪国府源十郎≫ 白虎士中隊/小隊頭。
慶応4(1868)年9月6日、城内二ノ丸で戦死。 42歳。
吉田義助
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七名が連名の中にある。
預方。
慶応4(1868)年8月23日、大和町で戦死。
「勇戦良義居士 〜〜
勇 明治元年八月廿三日 〜〜」
佐藤次郎八
.
武八の父。
堀隊。
慶応4(1868)年1月5日、淀で戦死。
38歳。
「忠心院戦山義勝居士」
諏訪米之進
.
早右衛門の倅。
青龍士中三番木本隊。
慶応4(1868)年6月1日、越後/見附 (赤坂山とも) で戦死。
48歳。
渡部綱英、三男、後妻
旧会津藩士。
妻は「8月23日没」とある。
小田磯之助
.
太子流剣術師範として日新館/教導。
開城後は、無法地帯と化した城下の治安に尽力し、私立日新館が開校すると教授に就く。
明治37(1904)年5月28日没。
85歳。 「槍剣院殿謡曲好喜居士」 「槍剣院謡曲深得居士」
斎藤幸元.
天保14(1843)年、青木村で誕生。 藩医。
藩医師範/杉原外之助に師事し、侍医/関良真に学ぶ。
上京し、幕府の侍医/松本良順に多年研学。
帰郷し、桂林寺町で開業、若松での医院の始まりとされる。
野口英世が最初に手術を受けた医師、後に会陽医院長/渡部鼎(かなえ)の再手術を受ける。
大正2(1913)年7月、死去。 73歳。
永井氏七人之墓
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慶応4(1868)年8月23日、本二ノ丁の自宅で自刃。
・永井左京 | 35歳 | 青龍士中三番隊/木本隊小隊頭 |
・永井ツル | 62歳 | 左京の母 |
・永井スミ | 30歳 | 左京の妻 |
・永井フヂ | 14歳 | 左京の娘 |
・永井英記 | 11歳 | 左京の二男、英吉とも |
・永井右京 | 8歳 | 左京の三男 |
・永井ヤエ | 38歳 | 左京の姉 |
丹羽族 (にわ やから)
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無縁墓石 (三界萬霊供養塔) の外側中央にある。
野尻代官。 兵粮方総督。
越後/長岡城が落城し、会津領に入った1千6百人を超える大量の避難民への食糧調達を命じられた。
地元の農民は協力せず、避難民は飢えに苦しんだ。
慶応4(1868)年8月7日、職責を果たせない無念さに、野尻村で遺書をしたため自刃する。 54歳。
代官の責任を取っての自害を聞き驚いた農民は、食糧の供出に応じ、避難民は何とか若松へ逃げ延びることができた。
畑五郎左衛門
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慶応4(1868)年8月23日戦死、その他は詳細不詳。
本堂へ向かって右の墓域にある。
籾山充盛
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戊辰(1868)年9月20日、戦死 (場所など不詳)。
墓碑には、「明治元年九月二十日」とある。
34歳。
籾山幾馬、籾山省介ともいわれるが、詳細不詳。
幾馬なら、籾右衛門の伜で遊撃隊/教導。
省介なら北見国/紋別代官、省輔の名で殉難殉節供養の碑に記載。
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