蔵奉行。
慶応4(1868)年8月23日、城内で自刃。 51歳。
「慶応四戊辰年八月廿三日於城中戦死」。
長男/清八は、鳥羽伏見の戦い、赤口の戦い、籠城戦と戦い抜き、後に初代/若松市長になった。
長谷川源次郎
. 青龍士中一番隊鈴木隊。
慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。 36歳。
「義正院殿忠道日源居士」
「明治元年五月一日戦死 白河ニ葬ル 長谷川源次郎之霊」
長谷川源三郎 源次郎の弟 大砲林隊。
慶応4(1868)年1月5日、京都/伏見で戦死。 27歳。
黒谷慰霊碑に合祀。
「明治元年一月五日戦死 伏見ニ葬ル 源次郎弟 源三郎之霊」
進撃小室隊組頭助勤。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
43歳。
▲(会津若松市御旗町1-9 Tel. 0242-27-9114)
・大法寺については、こちら。
三村留吉とも名乗っていた。
墓域の中央、一本杉の下にある。
遊撃隊/遠山隊足軽。
慶応4(1868)年閏4月25日、磐城/白河で戦死。
35歳。
左源治の伜。
朱雀足軽二番隊/桜井隊免許。
慶応4(1868)年7月29日、岩代/二本松で戦死。
18歳。
目付席。
進撃隊/小室隊。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺で負傷し、9月1日に鶴ヶ城で死去。
53歳。
墓は大窪山にもある。
秀長寺古戦場碑 供養塔 佐川官兵衛の歌碑
山門をくぐった右手に、秀長寺古戦場碑、供養塔、佐川官兵衛の歌碑が並んでいる。
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慶応4年(1868)年9月5日、佐川官兵衛の部隊が長賊らを撃破した。
大勝利を収めた会津軍も、
4名の戦死者を出した。
これ以降、開城するまで、城内への物質の補給路を確保する。
≪佐川官兵衛の歌碑≫
雲水に 心はまかせ 澄む月の 法の鏡と 世をやわたらむ
▲(会津若松市材木町1-10-33
Tel. 0242-27-4935)
・秀長寺については、こちら。
隣りの住吉神社境内に「会津藩戦勝地跡」の木標が、入り口の鳥居脇に「住吉川原戦場跡」の木標がある。
住吉神社については、こちら。
一ノ堰周辺の戦いで確認された戦死者だけで67人にも及ぶが、戦いが終っても埋葬は許されず、遺体は鳥獣に喰い荒らされた。
翌年5月に見つけることのできた戦死者47名 (現地板は48名) の遺骸を合葬したが墓碑の建立は許されず、今となっては場所すら不明。
戊辰戦争終結直前である慶応4年9月中旬、ここ一ノ堰を中心として、小山田・青木・御山・堤沢・面川・雨屋・新村・中野・井出・徳久・羽黒等当時の門田村全域が戦場と化していた。
旧暦9月15日と9月17日の2回にわたる激戦が この一ノ堰の地で繰り広げられ、多くの戦死者を出すこととなる。 〜 〜 〜 〜 〜
二回にわたる激戦で、東西両軍に多くの犠牲者を出したが、東軍 (会津軍) の兵士の遺体は、そのまま放置されていた。 これは、会津の兵士の遺体を埋葬することを禁じたためである。 その後、現在の供養碑は、明治2年になってから、戦死した会津兵の遺体を収集し、光明寺境内に供養されたものである。
一ノ堰の戦いで戦死した会津兵は、67人とされているが、ここ一ノ堰に埋葬されたのは48人である。 残りの19人の埋葬先は未だに不明である。
(現地板より)
家老、越後方面の総督。
食糧路を確保するため入城せず、城南周辺を防備。
そのため一ノ堰周辺は、激しい戦闘が繰り広げられた。
戊辰(1868)年9月15日の徳久村で負傷し、22日に桑原村病院で死去。
砲術隊長、享年37歳 (25歳とも)。
家老としては、唯一の戦死者である。
山本覚馬、新島八重の父。
元の名は永岡繁之助といい、砲術師範/山本佐兵衛の一人娘/佐久と結婚し婿養子に入り、後に権八と名乗る。
玄武士中隊/伊与田隊。
戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。 61歳。
一之瀬要人之墓の西隣。
京都/若王子墓地に慰霊墓がある。
名:重義。
直之助の父。
玄武士中隊/伊与田隊。
戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。
享年44歳。
「直蔵院忠○俊居士」
▲(会津若松市門田町大字一ノ堰字村西500)
・光明寺については、こちら。
慶応4(1868)年8月23日、諏方神社で負傷し、
10月8日に青木病院で死去。
15歳。
「法照院秋山兼居士」
≪杉原良之助≫
戊辰(1868)年9月17日、城内で負傷し、
27日に御山で死去。
27歳。 「性山義孝居士」
≪杉原勇記≫
朱雀足軽二番隊/桜井隊。
慶応4(1868)年7月29日、岩代/二本松大壇で戦死。
「法全日歓居士」
重蔵の伜。
遊撃隊足軽。
慶応4(1868)年8月23日、一之丁で負傷し、
10月11日に青木病院で死去。
20歳。
「清正院寒山道風居士」
横山三郎
.
御山で戦死とのことだが、詳細不詳。
強清水で負傷し、10月5日に青木で
死去した健三郎 (英蔵の伜、31歳) か。
以前は点在していたが、加藤の墓を除き入口に移された。
その他にも戦没者と伝えられている墓が並んでいる。
御山病院で亡くなった方々と思われるが、詳細不詳。
16基の内、3基は「大姉」が付いている。
悲しい最期を遂げられたのであろうか。
▲(会津若松市門田町大字御山字館ノ内81-1 旧/浅山村
Tel. 0242-26-0160)
・明光寺については、ことら。
青龍士中一番隊/有賀隊付。
戊辰(1868)年9月14日、諏訪社で戦死。
22歳。
「義範道覺居士」
▲(会津若松市門田町大字堤沢709)
・慈光寺については、こちら。
中島村の人。
若松で戦死と伝わるが、詳細不詳。
「勇學良道清居士」
▲(会津若松市門田町一ノ堰)
日向左衛門
.
文政10(1827)年、父/与惣右衛門の嫡男として誕生。
名:次孝。 日向新太郎・日向ユキの父。
御旗奉行 → 町奉行。
慶応4(1868)年8月23日、大町口郭門を守るべく乗馬して敵兵を蹴散らすも重傷を負い、近くにあった母の実家/加須屋左近邸内で自刃。
42歳。 「英義院殿忠山日路居士」
日向新太郎
遊撃二番隊/半隊頭。
戊辰(1868)年9月8日、飯寺で戦死。
20歳。 「至孝院殿忠義日勇居士」
幼少寄合組小隊頭。
慶応4(1868)年8月23日、甲賀町口で戦死。
50歳。 「真勇院忠道日義居士」
この日の甲賀町口郭門の戦いは、会津での最大の激戦であった。
藩兵は国境防備に就いており、隠居した者や幼き子だけの迎撃で、武器は刀槍だけであった。
それでもひるまず、味方の屍を乗り越え奮戦するも、次々に狙撃の餌食となり、悲壮・凄惨な死闘が繰り広げられた。
一時、甲賀町口郭門は奪われたが、国境から藩兵が帰城するや奪還し、開城するまで守り抜いている。
横田クヱの娘。
慶応4(1868)年8月23日、死去。
「妙忠院義達日道大姉」
日向勝見
白虎士中一番隊/生田小隊。 |
海老名リン像 軍事奉行/海老名季昌の妻。 戦後に斗南藩に移住し、その後は夫の転勤に伴い山形、福島、東京などを経て会津へ戻る。 明治26(1893)年、甲賀町に私立若松幼稚園を開園。 女子教育のため若松幼稚園の敷地内に「私立若松女学校(現/県立葵高校)」も開校。 明治42(1909)年4月20日没。 享年61歳。 |
豊岡神社は、土津神社の拝殿として、東照宮の東側に創建。
後に、徳翁霊神 (正容公)と、土常霊神 (容貞)も合祀される。
戊辰の役で焼失し、今では名残りもなく、跡地に墓地が造られた。
星 勇八 . 勝治の次男。
白虎寄合二番隊/太田隊。
慶応4(1868)年8月10日、越後/石間口左取で戦死。 16歳。
墓は、飯盛山と、五泉市の長徳寺にもある。
星 保記 勝治の弟、勇八の叔父。
結義隊/井上隊。寄合。
戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。 35歳。
慶応4(1868)年8月23日、戦死。
52歳。
詳細不詳。
▲(会津若松市城南町)
白虎寄合一番原隊嚮導。
慶応4(1868)年8月25日、津川で戦死。
16歳。
墓域の中ほどにあったが、近年、現在地に整理された。
墓は、飯盛山と津川/新善光寺にもある。
▲(会津若松市南千石町3-20 Tel. 0242-28-9130)
※ 飯沼貞雄の家族之墓は、整理された模様。
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現地板の図 |
惣五郎常利の子、良助の父。
宝蔵院流槍術師範。
和歌にも長じており、和学所師範でもあった。
慶応4(1868)年8月23日、桂林寺町で戦死。
67歳。
戦後に長男や門人たちが遺体を捜すも見つからず、菩提寺に遺詠を埋め、旧邸内の庭石を遥拝石にした。
「晧月院覺譽涼齋居士」
墓は大窪山墓地、野矢常方翁拝石は大運寺にある。
自宅近くの桂林寺町口郭門で、敵兵1人を十文字槍で仕留めるも、銃弾を浴び戦死した。
槍先には、一首の歌が結び付けられていたという。
弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花
後の教科書「修身」に常方の歌が載り、全国的に知られることとなる。
君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里
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[閑話]
[遺命]
[長賊らの悪行の数々]