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なよ竹の碑、西郷一族の墓(善龍寺)
▲(会津若松市北青木13-33 Tel. 0242-26-3022 <旧/北青木村>)
[寺宝]
山 門
戊辰の役で、竜宮造りの山門だけが焼け残った。
戊辰の役で奇蹟的に現存する江戸期建築の三仏閣の1つ。
(飯盛山/さざえ堂・法用寺/三重塔)
白壁の土蔵の上は木造入母屋造りの2階建てで、高さ15メートル。
内部には西国三十三観音がコの字に並んで安置されている。
[観音像]
建造物 善龍寺の山門
平成十三年一月二十三日指定 .
この山門は寛政九年 (一七九七) の建立とされ、竜宮門あるいは竜宮造りと呼ばれる珍しい様式であり、当地方ではほとんど例を見ない山門である。
楼上には高欄が巡らされ、朱塗りの痕跡がわずかに残っており、内部には西国三十三観音が安置されている。
入母屋銅板葺、二重軒、扇垂木造りで建立以来二百余年を経ているが、建立当時の原型を良く留めている。
平成十五年十二月
会津若松市教育委員会 .
鐘楼堂
本堂と同様に、昭和52(1977)年に再建したもの。
延命地蔵堂 .
石段を上り切った左側で、
出迎えてくれる。 .
寛永20(1643)年、僧侶/泉海が花畑にて開山。
会津拝領の保科正之公に従って移った"お供寺"の一つ。
建福寺、大龍寺、大法寺なども、お供をした。
祥雲山、曹洞宗。
本尊は、釈迦如来。
寛文7(1667)年、花畑から現在の地に移る。
11世に招かれた大雄得明が七堂伽藍を建立し中興。
竜宮造りの山門を除き戊辰の役で、寺宝は略奪され、貴重な資料もろとも本堂など堂宇すべてが焼き払われた。
現在の建物は、昭和52(1977)年に再建したもの。
殉難墓あり。
善 龍 寺
祥雲山善龍寺は寛永20年 (1643) 曹洞一派の泉海という僧が藩祖保科正之に従い花畑に建立、その後現在地に移った。 本堂は戊辰戦争で戦火にあい焼失し、山門は寛文年中に建造され今もなお当時の面影を残している。
この寺には西郷頼母一家の墓があり、同邸内で自刃した西郷千重子の辞世の句を記した“なよ竹の碑”もあり、戊辰戦争の悲劇をとどめている。
な よ た け の 碑
1868年、戊辰の役は、会津藩にとって、最大の悲劇であった。 多くの婦女子は、藩のために戦い非業の死をとげたのである。 この碑は、戊辰の役に殉じた名前の解る233名の、婦女子の偉業を留め、霊を慰めたものである。
碑の歌は、か弱い婦女子の心をたまわぬ竹の節になぞらえながら、会津婦女子の精神の強さを、うたいあげたものである。
裏面には、名前の判明している婦女子233名が刻まれている。
しかし、碑の建立は、昭和3(1928)年まで待たねばならなかった。
毎年5月1日、奈与竹墓前祭が行われ、県立会津女子高校 (葵高校) 舞踊部により踊りが奉納され、今なお参列者の涙を誘っている。
[写真]
撮影の時、どこからともなく美しい鳥が現れた。
そして、“なよ竹の碑”の、てっぺんに留まった。
頭が朱色で、尾が長く、まるで“極楽鳥”を思わせた。
こちらが帰るまで、見守り続けていた。
なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たわまぬ節は ありとこそきけ
西郷頼母夫妻の墓
.
本名は「近悳」で、「頼母」は通称。
墓の「保科八握髯翁墓」は、下記の和歌からの法号。
「八束髯 かいなでながら 浜千鳥 文見る外に なすわざもなし」
「室飯沼千重子位」
二十一之墓 .
夫妻の墓から、一段上の.
墓域にあり、祠のような中.
で眠っている。 .
整備される前は、各々埋.
葬された斜面の土が凹み見.
るも無残に荒れ果てていた。
敵兵の恥辱は決して選ばないとの考えがあり、状況は風雲急を告げていた。
頼母と長男/吉十郎の登城を見送った後、籠城戦では婦女子は足手まといになると、家族9人を含む一族21名が各々辞世の歌を詠み自刃し、頼母の後顧の憂いを絶った。
小森家などは、江戸の屋敷を引き払ったため同居していた。
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母 律子 |
58歳 |
秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高
(秋霜飛んで金風冷ややかなり 白雲去って月輪高し) |
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妻 千重子 |
34歳 |
なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ |
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妹 眉寿子( |
26歳 |
死にかえり 幾度世には 生るとも ますら武夫と なりなんものを |
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妹 由布子( |
23歳 |
武夫の 道とききしを たよりにて 思ひ立ちぬる 黄泉の旅かな |
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長女 細布子( |
16歳 |
下の句 「いざ たどらまし 死出の山道」 |
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二女 瀑布子( |
13歳 |
上の句 「手をとりて 共に行きなば 迷はじよ」 |
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三女 田鶴子( |
9歳 |
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四女 常盤子( |
4歳 |
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五女 季子( |
2歳 |
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親戚の小森駿馬の家族5人
祖母/ヒデ (77歳)、妻/ミワ (24歳)、子/千代吉 (5歳)、ツネ (10歳)、
ミツ (2歳) |
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親戚の町田伝八 (軍事奉行) 一家3人
伝八 (61歳)、妻/ふさ子 (59歳)、姉/浦路 (65歳) |
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遠縁 (支族) の浅井信次郎の妻子2人
妻/たつ子 (24歳)、長男/彦 (2歳) |
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西郷鉄之助夫妻
鉄之助 (67歳)、妻/きく子 (59歳) |
頼母は籠城戦の最中、藩主容保公から孝明天皇より賜った御震翰を託され、城を抜ける。
後日、容保公が亡くなってから、この御震翰が明らかにされ、会津は朝敵ではないとの証となる。
そして、明治、大正の時代を生き抜いた。
倅の吉十郎が夭折したため養子にした西郷四郎は、富田常雄の柔道小説「姿三四郎」のモデルである。
吉十郎 (保科有鄰) の墓は、東京/長谷寺にある。
妻/千重子の辞世の歌から、"なよ竹の碑"と名付けらた。
会津武家屋敷には、西郷邸と頼母一族の自刃の様子が再現されている。
西郷頼母 (1860〜1903) は、江戸時代末期に会津藩家老として、藩主・松平容保の京都守護職就任をとりやめるよう強く進言した。 又戊辰戦争では会津の幸福を願い和議恭順を主張した憂国の士である。
慶応4年 (1868) 8月23日西軍が若松城下に侵入、西郷頼母は城中にあったが、頼母の母律子、妻千重子など家族9人と一族12人が戦いの足手まといとならないよう自刃し果てたのである。
西郷頼母近悳夫妻の墓は生前から保科家歴代の墓所この善龍寺に用意されていたが祖先の墓石の何よりも小さくその人物が偲ばれる 正面に保科八握髯翁墓 室飯沼千重子位 右側面には近悳の命日明治三十六年四月二十八日が刻まれる。
西郷頼母はよく時局の大勢を洞察し会津藩の将来を考え職を賭して藩主松平容保の京都守護職就任を強く諫止 戊辰の役では会津の幸福を願い非戦恭順を主張した憂国の士である 墓地周辺の荒廃を嘆く飯盛フミ氏の発願と同憂のご協賛により整備が完成しここに改めてその偉業を顕彰する
平成元年四月二十八日
西郷頼母墓地環境整備委員会 .
旧自邸から100メートルほどにあった みすぼらしい十軒長屋で、下女/お仲に看取られ、脳溢血で波乱の生涯を閉じた。 享年73歳。
時世の句
「あいづねの 遠近人(に 知らせてよ 保科近悳( 今日死ぬるなり」
以上の緑色の文は、現地の「説明板」から .
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり
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