会津藩の家老で、5代藩主/松平容頌公から容住公、容衆公の3代に仕えた。
天明の大飢饉の際、領民救済と藩政改革を願い出たが受け入れられず、病と言って辞職したが、1年後に復帰を求められ、"天明の改革"で成果を上げる。
藩士には就学を義務付け、藩校「日新館」を創設した。
産業としては、漆器、酒造、陶磁器、絵ろうそくなどの改良、薬用人参の栽培などを進めた。
江戸に"会津物産会所"を設置し販売の促進をした結果、一時は、江戸の漆器のほとんどを、会津塗で占められたという。
藩士たちが樺太で北方警備の最中、この世を去る。
寛延元(1748)年10月8日〜文化5(1808)年8月7日、享年61歳。
遺言により、鶴ヶ城と日新館が見える小田山の山頂に建墓された。
▲(会津若松市花見ヶ丘) 鶴ヶ城から 2.1km
・見学自由
2.7メートルの石造の五輪塔が木造家屋で被われている。
桃山時代か、遅くとも江戸初期に建てられた。
かつての允殿館跡地。
国の重要文化財。
蒲生氏郷公と織田信長の次女/冬姫との間に生まれた武将。
妻は、家康の3女/振姫。
氏郷公の急死により会津藩主となるも、一時は宇都宮に移封され、関ヶ原の戦いの後に、再び藩主に復帰する。
慶長17(1612)年に没、享年30歳。
「弘真院殿前拾遺覚山静雲大禅定門」、「弘真院殿覚山浄雲大居士」。
弔いの行事を終えた同年7月5日に家臣4名が殉死、その一人の小々姓/森川若狭守の墓
. が傍らに現存している。
▲(会津若松市館馬町8) 鶴ヶ城から 1.3km
・弘真院については、こちら。
・見学自由
長岡藩の名家老/河井継之助は、戊辰の役で長岡藩が落城した際、銃弾を受け負傷した。 長岡城が落城したため、親藩会津での再起を目指し、若松へ向かう。 願いもむなしく破傷風が悪化し、慶応4(1868)年8月16日、塩沢の矢沢宗益宅にて死去した。
享年42歳。
遺骨は荼毘に付され、長岡藩の宿および駐屯地であった建福寺に運ばれた。 塩沢医王寺にある墓は、火葬で拾い残された細骨を集めて建てたもの。
遺骨が持ち込まれた翌日に、会津藩主/喜徳公も列席されての盛大な葬儀が、建福寺にて取り行われた。
明治2(1869)年、遺骨は長岡に帰り、栄涼寺にある河井家の墓に改葬された。
鶴ヶ城が良く望める場所にあり、故郷/長岡を向いている。
松倉重頼は、島原藩2代藩主/松倉勝家の弟であるが、勝家の養子になり次の城主になるはずであったが、島原の乱の発生を許した咎により勝家が斬首された。
会津藩が家族を庇護したため、重頼は会津藩預かりとなった。 江戸時代に、大名が切腹ではなく死罪となったのは、この1例だけである。
右の五輪塔は家臣/野添作兵衛、左は下司伊兵衛。
墓碑には、
島原の乱にて保科正之公に預けられ優遇さるも
臣となるを好まず一六五三年秋 自刃す
とあるが、伝承は少し異なる。
保科正之公は、罪人扱いせず八角神社の南に屋敷を与え客分として丁重に処遇した。
正之公の厚情に感涙し、保科家に任官することを決める。
しかし、逗留していた建福寺裏にある池の脇を通り過ぎる際、やつれ変わり果てた自分の姿を見て、この姿で仕えるのは申し訳ないと、明暦元(1655)年8月27日に自刃した (35歳)。
▲(会津若松市建福寺前7-3 Tel. 0242-28-3892) 鶴ヶ城から 1.4km
・建福寺については、こちら。
◇ 大窪山墓地(東麓
中央
西麓)
◇
◇ 善龍寺 (なよ竹の碑)
◇ 恵倫寺
◇ 本光寺 など