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ご 縁 の あ る 地
多くの人々との 「ご縁」 の中で、人は同じ時代を生きている。 時の流れである歴史の中でも、様々な人々と網目のような 「ご縁」 がある。 きっと、あなたも、会津と 「ご縁」 があるはず。
∬ ツールチップあり .
≪ 北 方 警 備 (樺太出兵) と の ご 縁 ≫
( 調 査 中 )
ロシア海軍が樺太や北海道の漁村で略奪・焼き打ちを繰り返したので、文化4(1807)年に幕府は荘内・秋田・弘前・盛岡4藩に蝦夷地へ出兵し防備を命じた。
親藩である会津藩に任の義務が無いにもかかわらず、家老/田中玄宰は会津藩の軍事力を誇示すべく、あろうことか樺太出兵を幕府に願い出た。
一説に出費4万3千4百両もの巨額と試算され、その後の藩財政悪化の発端となった。
∬この行為が後の江戸湾警備、京都守護職へとつながり、会津藩消滅の原点となる。
文化5年の干支は「戊辰」、次に迎えた「戊辰」の慶応4年に会津藩は消滅した。
所縁とは不思議なものである。
文化5(1808)年1月9日から2月5日まで (先遣隊は1月2日から) に軍将/内藤源助信周のもと4班7隊1,633名と人夫などを含め約5千人が鶴ヶ城を∬出立、風雪を冒して本宮・一関・盛岡・七戸・津軽半島へと北上し、三厩から9隻の船で海を渡り、松前に連絡係を残し宗谷に本陣を設置した。
[資料]
そして、陣将/北原采女・軍監/丹羽織之丞・番頭/日向三郎右衛門が唐太、番頭/梶原平馬景保が利尻に布陣した。
豪雪には慣れていたが、極寒地での対応は知る由もなかった。
風土病とされた「水腫病」で50余名が亡くなった (会津出軍記「死亡之者合五拾人」)。
水腫病とは、顔がむくみ、腹が太鼓のように水膨れになって苦しみ死ぬ奇病で、寒気が原因・野菜の欠乏が原因などといわれている。
ロシアがナポレオン戦争で兵を引き上げたため交戦はなく騒ぎも一段落し、引揚げの命が下り樺太からの帰還の途中、船舶の故障や暴風雨で船団が遭難してしまい、散り散りになって各地の海岸に漂着した。
[逸話]
主力部隊が帰藩できたのは、12月28日 (一部は翌年) であった。
文化7(1810)年、松平容衆が新潟で墓石を製作させ、松前経由で各地に運んだ。
樺太は、陣将/北原采女の率いる745名が文化5(1808)年4月19日に到着し、同年7月7日まで警固 (一部は23日まで) したが、今では墓碑すら調べようもない。
駐屯中、樺太探検の間宮林蔵を手助けしていることが意外にも知られていない。
この時の会津藩資料が、後に間宮林蔵の学術的な海峡発見という貢献をした。
∬ロシアに拿捕された漁師に聞き取り調査の際にも、願う間宮林蔵を同席させている。
発端の田中玄宰は、藩士が想像を絶する苦難に直面の最中、8月7日に自邸で死去した。
松 前 町
文化5(1808)年4月8日に番頭/三宅孫兵衛忠良の率いる266名が到着し、警固を開始。
帰国命令により、同年9月15日に会津へ向けて出立。
松前城
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (3番) の1つ。
福山城とも。 北海道で唯一の日本式城郭。
慶長11(1606)年、松前崇広が陣屋として築城。
戊辰の役の激戦地 (大庭久輔、赤羽音吉など) の1つ。
明治8(1875)年、廃城。
昭和25(1950)年、重要文化財に指定。
▲(松前町字松城144 Tel. 0139-42-2216)
稚 内
旧藩士の墓 (宗谷公園/宗谷護国寺跡)
蝦夷地警備の任務中に命を落とした各藩士の墓。
明治44(1911)年、海岸に点在の墓を1ヶ所に移設。
昭和3(1928)年、現在地に移す。
宗谷護国寺跡にある13基は、会津藩士3名・秋田藩士2名で、残りの8基は幕府関係者と推測されている。
地元俳人の句碑「たんぽぽや 会津藩士の 墓はここ」が傍らに建立されている。
要久右衛門
要久右衛門、文化5(1808)年6月に死去。
「會津要久右
文化五
六月」 ・・・ 下部欠損
原田嘉重郎 (喜十郎) 記里
「會津原田嘉重郎記里墓
文化五年戊辰
七月八日」
平田八十八保実
「會津平田八十八保実之墓
文化五年戊辰
七月十日」
宗谷歴史公園とも呼ばれており、様々な史跡がある。
宗谷厳島神社
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中千島方面戦没者慰霊碑
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津軽藩兵詰合の記念碑
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宗谷護国寺跡
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間宮林蔵顕彰碑
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再建された宗谷護国寺
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近くに、
◇津軽-会津-秋田藩陣屋跡
◇稚内発祥之地の碑
もある。
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津軽・会津・秋田藩陣屋跡
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稚内発祥之地
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▲(稚内市宗谷村宗谷) ・・・ 《 宗谷岬公園ではなく宗谷公園》
利 尻 島
利尻島の中央にそびえ立つ 1,721mの利尻山のふもとに8名の会津藩士の墓がある。
大正15(1926)年、墓を改築。
平成20(2008)年、会津藩士蝦夷地警固200年の記念として、会津藩士が出兵した事実と故郷に戻ることなく死亡した藩士の存在を後世に伝えるべく、墓を移設・整備された。
会津藩士の墓二基 (種富駐輪駐車公園)
樺太陣屋の諏訪幾之進と
∬山田重佐久。
警固の任務を終え、帰途の船中で亡くなった2人。
「會津諏訪幾之進光尚之墓
文化五年戊辰
七月十日」
「会津山田重佐久之墓
文化五年戊辰
七月八日」
平成7(1995)年、故郷にある磐梯山の石を運び、「会津藩士顕彰碑」が建立された。
元々は、妙法寺(日蓮宗)の境内だったとのことであるが面影は残っていない。
利尻山十六景の十六景目
▲(利尻町沓形字種富町)
会津藩士の墓三基 (慈教寺)
利尻島陣屋の関場友吉と利助、樺太陣屋の宇兵衛。
・宇兵衛 耶麻郡夷田村 北原隊勘定定所役人
・関場友吉 耶麻郡西連村 梶原隊与力 28歳
・利助 梶原隊甲士/遠山登の配下
「會津白石又右衛門僕宇兵衛墓
文化五年戊辰八月二日 耶麻郡夷田村所生」
「會津関場友吉春温墓
文化五年戊辰 七月六日」
「會津遠山登僕利助墓 文化五年六月七日
耶麻郡西連村所生」 ・・・ 一部聞き取り
▲(利尻富士町鴛泊字本泊242 Tel. 0163-82-1571)
会津藩士の墓三基 (ペシ岬広場/本浄寺)
・茂右衛門 樺太陣屋 河沼郡駒板村 丹羽隊
・渡部左右秀俊 利尻島陣屋
・孫吉 利尻島陣屋 大沼郡高田村 梶原隊甲士配下
「會津丹羽織之丞僕茂右衛門墓
文化五年戊辰七月十二日 河沼郡駒板村所生」
「渡部左右秀俊墓 文化五年戊辰 七月十六日」
「樋口源太僕孫吉墓 文化五年戊辰七月二十四日
大沼郡高田村所生」
ペシ岬の頂上に行く途中にあり、広場になっている。
ペシ岬中腹の広場は、頂上とともに展望台の一つ。
利尻山十六景の十三景目
▲(利尻富士町鴛泊)
北 方 防 備 と の ご 縁 (蝦夷地拝領)
( 調 査 中 )
嘉永6(1859)年、房州沿岸警備の最中、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した。
前回の樺太出兵時のナポレオン戦争も終結し、ペリー来航の1ヶ月後にロシアのプチャーチン艦隊4隻が長崎に来航するなどロシアの脅威が増大した。
ペリーの目的は平和的交渉と分かった幕府から房州沿岸警備の任は解かれるも、安政6(1859)年に蝦夷東沿岸/標津・斜里・紋別を分譲して領地とされ、幕領/箱館奉行の支配地/網走を含めた北方防備が命じられる。
蝦夷地若年寄陣将/田中玄純の率いる本営をシベツ (標津) に設営し、分営を函館とシャリ (斜里)・モンベツ (紋別) に置いた。
[資料]
◇ 標津代官 万延元(1860)年~文久2(1862)年 : 一ノ瀬紀一郎 (雑賀孫六郎)
文久2(1862)年~ 慶応3(1867)年 : 南摩綱紀
◇ 斜里代官 慶応元(1865)年~慶応2(1866)年 : 秋月悌次郎
◇ 紋別代官 慶応2(1866)年~ 慶応3(1867)年 : 籾山省介・柴守三
江戸湾
防備で藩財政は悪化しており、資金不足で建設できた宿舎は僅か6棟だけである。
文久2(1862)年には松平容保が京都守護職に任命され、北方防備と京都警備の2方面での大任で会津藩の財政は急速に疲弊していった。
函 館 市
会津ルスイ跡
安政6(1859)年、幕命で箱館留守居役となったため、東蝦夷地警護の分営地として建立。
御役所役所の隣りで、庄内ルスイと隣接していた。
道路の向かいが、浄玄寺・称名寺。
箱館戦争の時は、榎本軍将兵の駐屯地となる。
▲(函館市弥生町1番付近 船見町)
住吉町共同墓地
一ノ瀬帰一 (雑賀孫六郎、雑賀重村)
一瀬紀一郎、雑賀孫六とも。 藩士/一ノ瀬郷助の3男。
安政元(1854)年、蝦夷を巡視。
万延元(1860)年、蝦夷/標津代官に就任。
戊辰の役では榎本艦隊へ援軍依頼の使者として新潟港に赴くが、開城の誤報を受け雑賀孫六郎と改名、会津遊撃隊に入隊し榎本軍と共に蝦夷へ渡り、開拓奉行支配組頭に就任し、室蘭開拓の企画・立案に携わる。
函館戦争後は阿波徳島藩での謹慎後に雑賀重村と改名し斗南藩を経て、北海道開拓使に招聘される。
明治13(1880)年、茅部郡と山越郡初代郡長の在職中に病死。
石川啄木一族墓より手前の山側階段を登った3基の一番左。
小池毅
会津藩御側医師/小池求真の3男。
歌棄郡有戸村にて誕生。
東京済生会学の在学中、学費を得るため陸軍軍医にも籍を置く。
その後、北里柴三郎に嘱望され、伝染病研究所に就く。
ペスト (黒死病) が大流行の台湾に、政府から派遣され、日本軍人や台湾市民・高砂族などの区別なく懸命に医療・研究に尽力した。
明治31年2月28日、志半ばでペストに罹患し死去した。 24歳。
[略歴]
早世しなければ野口英世を超える細菌学者になっていただろうと言わしめている。
石川啄木の墓へ行く坂の途中の左側にあり、木柱が目印。
▲(函館市住吉町16)
北 斗 市
松前藩戸切地陣屋 (戸切地陣屋跡史跡公園)
蝦夷地防衛を強化するために、幕府は松前藩に陣屋の構築を命じた。
旧/上磯町 (戸切地) の一帯は、「陣屋の内」と呼ばれ、会津陣屋や蔵屋敷が置かれ蝦夷地経営の拠点であったと、藩士/鈴木平八の日記「蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記」に記載されている。
箱館戦争で全てが焼失、会津陣屋の面影は残っていない。
現在は国指定文化財で、桜並木のトンネルが名所となっている。
▲(北斗市野崎66-10)
太田藤蔵妻之墓 (東光寺)
太田藤蔵
會津藩中
妻之墓
戸切地の陣屋に常詰の藩士の家族の墓と伝わるが、詳細は不詳。
▲(北斗市中央2-3-23
Tel. 0138-73-2048)
赤岡大助 (清川寺)
戊辰の役後に青森を経て函館に移住し、初の牛鍋屋を営んだ。
明治11(1878)年、函館にて死去し、この寺に埋葬して墓もあったとのことだが、不詳。
「迎雲院聖誉音衆来居士」
▲(北斗市野崎85 Tel. 0138-73-8887)
≪ 屯 田 兵、 開 拓 と の ご 縁 ≫
幕藩体制崩壊により無防備となってしまった北海道防備に困り、幽閉していた会津士族を送り込み、日常は未開の地を開墾させ有事の際には兵士にしようと謀り、戦犯の罪を許すとのエサで北海道開拓への移住を勧奨したが、応じた者はいなかった。
藩主と運命を共にする決意が固いと知るや、かつての大藩による反撃の恐怖から、藩そのものの流刑 (斗南藩) をもくろんだ。
明治2(1869)年9月、それに先立ち兵部省は会津士族103戸333名を流罪人として、品川沖からコユール号 (ヤンシー号とも) にて11日間をかけて小樽に移送した。
通常の開拓団と思われているが、藩主の助命条件として出された青壮年だけの集団流刑であり「会津降伏人」と呼び、すでに札幌に政府機関/北海道開拓使が設置されていたにも係わらず、その配下ではなく兵部省の下であった。
明治3(1870)年、政府方針として兵部省の北海道支配権が剥奪された。
当然、北海道開拓使に移管されるものと思われたが、北海道開拓使と兵部省とは犬猿の仲であったらしく北海道開拓史は拒絶し、明治政府は「扶助等の一切を旧藩に仰ぐべし」と通達し、送り込んだ未開の地で切り捨てた。
困窮 (第2次入植者を合わせて既に200戸) の中、ロシアの脅威が増大したため旧/会津藩士を北方警備に使おうと明治3(1870)年に樺太開拓使が設置されたが、またもや音沙汰なく移住の通達を日々 待つことになる。
ところが、明治4(1871)年8月7日には北海道開拓使に吸収されしまい樺太開拓使も消滅、樺太移住の計画は立ち消えになるなど、西軍 (明治政府) の鬼畜にも劣る浅ましい蛮行により翻弄され続けた。
余 市 郡
開村記念碑
大正9(1920)年、入植50年の記念に建立。
題字は、海軍大将の藩士/出羽重遠の筆。
明治4(1871)年、樺太移住が中止となり、滞在していた地に未来を託すことに決した。
余市川の河口上流/東側に黒川村、西側に山田村の2村を興し、開拓を開始した。
駅周辺の地名/黒川町は、会津の旧名/黒川に因んでつけられた。
鬱蒼とした熊笹や大木に覆われ、ヒグマや鹿など獣の生息地でもあり危険の中、開墾は遅々として進まなかった。
ニシン漁の日雇いなどで食をつなぐ日々が続く。
不慣れな農業でもあり生活は困窮し、去る者も多かったという。
そして、塗炭の苦しみの中、先人たちの汗と涙の努力で、現在の余市の基礎が造られた。
▲(余市町黒川町9-58)
殉節碑
昭和12(1937)年、戊辰の役の全責任を1人で背負って切腹した家老/萱野長修 (権兵衛) の殉節碑として建立。
墓は興禅寺・天寧寺、殉節碑は鶴ヶ城内にもあり、遥拝碑は阿弥陀寺にある。
かつて奥近くに船着き場 (ニッカ沼) があり、入港の目印にしていた2本の「楡の木」があったとのこと。
平成16(2004)年、風雪による倒木防止のため、残っていた1本も伐採された。
日進館跡
明治4(1871)年、入植して間もなく黒川村の入植者用住宅1軒を開放し、士族子弟教育のための寺子屋を開校。
藩校/日新館と同名は恐れ多いとのことから「日進館」と名付けたという。
明治6(1873)年に「郷学所」と改称し、開村記念碑の隣りへ移転した。
大正11(1922)年に閉校となるが、校舎の一部が現存する。
▲(余市町黒川町7-78 殉節碑の左裏手)
やがて合併して余市教育所となり、後の沢町小学校・大川小学校・黒川小学校の前身として、余市の学校教育に大きく寄与する。
∬3つの石碑の中に
「余市教学所跡」がある。
▲(余市郡余市町浜中町)
会津藩士之墓 (美園霊園)
明治21(1888)年、入植した会津藩刀匠/鈴木半兵衛香兼友が、開拓時の塗炭の苦しみを子々孫々に伝えようと慰霊碑を建立 (明治23年とも)。
兼友は会津藩刀匠の4代/古川兼定の子/兼友を祖とする系列。
昭和24(1949)年、墓碑文の銅板が盗難にあう。
昭和59(1984)年、空白部に「会津藩士之墓」と刻み修復。
(翌年に京王帝都電鉄の社長宅で碑文の拓本所蔵が判明)。
平成13(2001)年、土神神社の御神杉が傍らに植栽された。
左右の墓域にある墓は、会津藩士の子孫とのこと。
霊園内には佐藤駒之進など数多くの会津藩士が眠っている。
訪れた日は あいにくの雨で、左右にある墓の他には、下山の途中で見つけた1基以外は探せなかった。
「林理武墓 會津藩士族 林茂 明治十九年七月十六日」
▲(余市町美園町33付近)
緋衣 (吉田観光農園)
明治8(1875)年、米国人の顧問/ケプロンからリンゴ・ナシ・サクランボなどの果樹苗木が配布された。 農業の経験すらない旧会津藩士たちは果樹栽培に戸惑ったという。
しかし、4年後の明治12(1879)年、赤羽源八 (後の緋衣) と金子安蔵 (後の国光) の庭先で民間としては日本初のリンゴが結実した。
後に品種名は、孝明天皇が信頼の証として賜った「緋の御衣」と、会津での戦い終結の時に受けた侮辱「緋毛氈」から、緋衣 (ひのころも、ひごろも) と名付けられた。
やがて、余市の名産品となった。
1本だけ現存している原木は、吉田農園 (初代は猪苗代町出身) 内にある。 農園の入口に、平板型の石碑「りんごの発祥之地」がある。
平成12(2000)年、会津の有志に苗木が寄贈され、復活の取り組みを開始。
平成20(2008)年、会津坂下町の菓子店が「緋の衣アップルパイ」を商品化。
“会津総合運動公園”にも、記念樹として2本が植栽された。
[逸話]
▲(余市町山田町7 Tel. 0135-22-3658)
・民有地のため許可が必要
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記念樹/水木
由来
この水松は明治二年 旧会津藩士百七拾六名と共に町内山田村の原始林内に移住し未開の地を拓いて林檎を栽培した川俣友次郎氏が 同二十九年 全国博覧会にりんご緋衣を出品 見事に受賞したのを記念して 昭和十一年 旧町役場庁舎新築の際 余市町の発展を念じて樹齢八十年の大木を自庭から この舎前に移し寄贈したものである (現地石板より)
▲余市町役場 (余市町朝日町26 Tel. 0135-21-2111)
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よいち水産博物館
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旧会津藩士の入植に関するコーナーが3階にある。
緋衣の宣伝用看板やラベルも展示されている。
1階には、当時の「御受書 (コピー)」が備えられており、自由に閲覧できる。
最盛期のニシン漁の様子や、アイヌ民族の関連資料など見応え充分。
余市を訪れた際には、ぜひ立ち寄りたい。
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▲有料 (余市町入舟町21 Tel. 0135-22-6187)
・9時~16時30分
・休館 月曜日、祝祭日の翌日、年末年始
・駐車 完備
札 幌 市
琴似神社
明治 8(1875)年、武早神社として創建。
明治30(1897)年、琴似神社に改称。
大正 4(1915)年、現在地に移転。
平成 6(1994)年、保科正之公の土津霊神を合祀。
平成7(1995)年、土津神社から御神杉10本が寄贈。
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琴似屯田兵屋
明治7(1874)年、第140番兵屋として建築。
昭和38(1963)年、琴似神社へ寄贈され、
翌年に現在地/琴似神社境内に移築。
北海道の有形文化財。
内部見学可
(無料/9時~16時、休館/11月~5月初)。
▲(札幌市西区琴似1条7-1-30 Tel. 011-621-5544)
琴似屯田開村 紀念碑 (屯田の森)
明治8(1875)年、208戸が入植し、翌年に32戸が加わり、240戸で
未開地の開拓が始まった。
その内の56戸は、斗南藩からの旧会津藩士。
明治30(1897)年、屯田兵開拓発祥の地を記念して建立。
昭和5(1930)年、5基が区役所横にまとめられた。
平成6(1994)年、現在地に移設。
琴似屯田兵顕彰碑
大正13(1924)年、移住50年を記念して琴似神社境内に建立。
老朽化のため、平成11(1999)年に再建。
屯田兵本部趾
大正13(1924)年、建立。
記念碑(通称・・琴似屯田開村記念碑)
明治30(1897)年、琴似神社の拝殿付近に建立。
陸軍屯田兵第一大隊第一中隊本部之趾
昭和15(1940)年、建立。
琴似屯田百年記念碑
昭和50(1975)年、開村100年を記念して建立。
▲(札幌市西区琴似2条7丁目 西区役所隣り)
琴似屯田歴史館 資料室
「札幌市西区消防署琴似出張所」と、「琴似まちづくりセンター」が入っている建物の2階にある。
右隣が「西区役所」、左隣が「屯田の森」があり、道路の向かいに「琴似神社」がある。
▲(札幌市西区琴似2条7丁目 Tel. 011-614-8245)
琴似屯田兵村兵屋跡
明治7(1874)年、第133番兵屋として建築。
昭和47(1972)年、復元。
国の指定史跡。
内部見学可 (無料/9時~16時)。
▲(札幌市西区琴似2条5-1-12
Tel. 011-621-1988/警備所)
山鼻兵村開設碑 (山鼻公園)
明治9(1876)年、240戸1,114人が入植し、琴似兵村に次ぐ2番目の屯田兵村 (約130万坪) が開村。
その内の53戸は、旧会津藩士。
明治27(1894)年9月3日、兵村開設20周年を記念して碑が建立。 裏面に営農の様子や旧藩士名が刻まれている。
▲(札幌市中央区南14条西10丁目)
山鼻開拓記念館
山鼻公園の四つ角の斜向いにある。
土曜日と日曜日のみ開館。
2階に資料室がある。
▲(札幌市中央区南14条西9丁目 Tel. 011-512-5020)
山鼻屯田兵の像 (山鼻日の出公園/児童遊園地)
昭和42(1967)年、開道100年を記念して建立。
作/山内壮夫のブロンズ像。
札幌南警察署の北側にあり、屯田兵の墓地 (平岸霊園に移設) があった場所。
▲(札幌市中央区南29条西11丁目)
飯盛山で自刃した白虎士中二番隊で唯一の生き残り。
明治38(1905)年、逓信省札幌郵便局工務課長として仙台から札幌に赴任 (52歳)。
札幌から旭川、小樽、室蘭など主要都市を歩き、全道を結ぶ電気通信網の設置に尽力した。
明治43(1910)年、北海道での役割を終え、逓信省仙台逓信管理局工務部長として仙台に戻る (57歳)。
平成元(1989)年、NTTと北海道会津会により功績を讃える記念碑が、札幌で暮らした場所に建立された。 白虎隊自刃の日 (8月23日) に貞吉を偲び慰霊の献花が行なわれている。
墓は仙台/輪王寺と飯盛山、終焉の地に碑「飯沼貞吉終焉之地」がある。
▲(札幌市中央区南七条西1-12 札幌第一ホテル駐車場前)
資生館 (市立資生館小学校)
明治4(1871)年、明治になって北海道で最初の学校「資生館」が開校し、藩士/大庭恭平が初代館長に就任。
「資生」とは、「易經/萬物資生乃順承天」による。
幾度の統合を経て「創成小学校」となる。
平成16(2004)年4月、4校 (創成小学校・大通小学校・豊水小学校・曙小学校) が統合され、元の校名の「札幌市立資生館小学校」となる。
大庭恭平は会津藩士/大庭正吾弘訓の次男。 機、景範、松斎とも称す。
松平容保の京都守護職就任の際、浪人となり上洛し過激派を監視する密偵となる。
戊辰の役では、幕軍/衝鋒隊に加わり各地で奮戦、鶴ヶ城が開城すると居残り組として会津に留まり戦死者の埋葬に奔走、高田謹慎/林西寺 (幽閉) を経て斗南藩へ移住。
藩が消滅すると、招聘され様々な官職に就く。
明治35(1902)年1月5日に室蘭で死去。 享年73歳。
▲(札幌市中央区南三条西7丁目 Tel. 011-204-9811)
明治26(1893)年、関場医院 (札幌北辰病院) を開業。
明治34(1901)年、「北海医報 (現/北海道医報)」を北辰病院研究会から創刊。
我が国屈指の名外科医と讃えられ、北海道医師会および札幌医師会の初代会長、札幌市議会副議長などを歴任し、北海道医学界に多大なる貢献をした。ドイツ人医師スクリバ門下十哲の1人で、アイヌ人も積極的に診療を行なう。
慶応元(1865)年11月7日、父/忠武の次男として鶴ヶ城下の中鷹匠町 (千石町) で誕生。
昭和14(1939)年8月25日、札幌市で死去、満75歳。
墓は谷中霊園、「貫学院仁誉杏翁理堂居士」。
著書「腹膜結核及剖腹術」「西医学東漸史話」「あいぬ医事談」。
曽祖父/春温は北方警備で利尻島に赴き現地で病没、28歳。
祖父/春武は戊辰の役時に敢死隊/指図役として城下で戦死、62歳。
父/忠武は、京都守護職時に「先鋒隊」、帰国後に「朱雀隊」として奮戦、後に会津松平家家譜の編纂に携わる。
▲(札幌市厚別区厚別中央二条6-2-1 Tel. 011-893-3000)
札幌市役所 (上原六郎)
明治(1945)年8月14日、藩士/雑賀重村の孫/上原六郎が、官選最後の第4代/札幌市長に就任。
明治(1946)年11月12日、官選最後の市長を退任。
札幌観光協会/会長。
雑賀重村の姉/冨貴は藩士/福井伊織に嫁ぎ3女/冨久をもうける。 冨久は札幌郡平岸村 (札幌市豊平区平岸) のリンゴ農家/上原喜六に嫁ぎ、長男/上原六郎をもうける。
▲(札幌市中央区北一条西2丁目)
旧会津寮 (一般財団法人福島学寮)
会津人および会津出身者の子弟で、北海道にて高等教育を受ける者の支援・育成を目的として創立された。
現在は、福島県扱いになっている。
▲(札幌市中央区北8条西12-1 Tel. 011-271-4382)
室蘭病院 (市立室蘭総合病院)
明治6(1873)年、藩医/赤城信一は開拓使からの招聘され、室蘭病院の初代院長に就任。
明治19(1886)年まで院長を務め、その後は伊達・札幌で開業する。
医事講談会 (北海道医師会) の副会頭を務めるかたわら同会雑誌の編集者も兼ね、北海道における近代医療の普及に尽力した。
▲(室蘭市山手町3-8-1 Tel. 0143-25-3111)
小樽駅
中野寅吉と石川啄木との別れの駅。
寅吉が創刊に参画し事務長に就いていた「小樽日報」に、石川啄木が記者として入社してきた。
しばらくすると、社の内紛から2人は対立し、啄木は退職する。
去る日、家族と共に啄木を見送る。 停車場には吹雪が舞い、別離の悲しみに憎悪は消え去った。
「敵として 憎みし友とやや長く 手をば握りき わかれといふに」
この後に寅吉も小樽を去り政治へ、啄木は文学で功をなしていく。
晩年、住職を務めた法用寺に2人を記念した2つの歌碑がある。
▲(小樽市稲穂2-22-15 Tel. 0134-22-0771)
新島襄海外渡航の地碑
元治元(1864)年、ハリストス正教会2代主教/ニコライ主教に日本語を教えながら国禁/海外渡航を狙っていた新島襄は、同年6月14日の深夜に外国人居留地の岸壁から日本を脱出する。
安中藩に賓師として招かれていた添川廉斎に多大な影響を受けていた。
上海経由で渡米に成功。
明治7(1874)年、11年間の留学を終え帰国する。
後に山本八重と結婚し、兄の山本覚馬の支援を受け、夫ともとに同志社英学校 (現/同志社大学) を創立する。
▲(函館市大町11 相馬倉庫奥)
新島襄ブロンズ像
函館から密出国するため。築島の波止場から小舟に乗って外国船に向かう様子を再現したもの。
函館西波止場近くの小公園にある。
平成14(2002)年、建立。
▲(函館市末広町24)
下の句かるた (板歌留多)
会津藩の下級武士が、手内職の1つとして作り始めた。
文化年間(1804~)の頃には、百人一首の下の句を読み上げて、上の句の札をとる遊びが、会津藩の武家や商家たちの間で盛んに行われるようになった。
文化5(1808)年、北方警備(樺太出兵) で渡道した藩士たちが持ち込み、引き揚げる際に置き土産としたため蝦夷地に伝わった。
明治に入り、藩を失った多くの会津藩士たちが北海道各地に強制移住や屯田兵として入植をしたため、道内に広く普及する。
その後、会津では廃れたが、全日本下の句歌留多協会などを中心に受け継がれている。
松前漬
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文化4(1807)年、松前藩が陸奥国伊達郡梁川に転封 (9千石) となった際に郷土料理「イカにんじん」を知り、文政4(1821)年に再び蝦夷地転封で持ち帰り、特産である昆布を加えて「松前漬」ができたとされる。
文化5(1808)年、北方警備で松前詰の「会津陣屋」が設けられ、野菜の無い冬場に地元民がイカにんじんの美味しさを知ってからとの説もある。
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札幌ラーメン
日本三大ラーメンの1つ。
(喜多方ラーメン、博多ラーメン)。
大正12(1923)年の「竹家食堂/醤油ラーメン」が始まりとも云われるが、昭和21(1946)年頃に満州などの引揚者による屋台で売り出した豚骨スープのラーメンが原型。
その後、味噌ラーメン・塩ラーメンが提供され、全国的に知られるようになる。
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