北田氏 |
きただし、
佐原盛連公の次男/広盛を祖とする家系。 河沼郡北田に城を築き、河沼郡半郡を領し、北田氏を名乗る。 その後、210年を超える間で、北田氏7代まで続く。 応永9(1402)年、本家/蘆名盛政公に反旗を翻す。 応永16(1409)年6月3日、居城/北田城が陥落、城主/北田上総介政泰 (大庭政泰) 父子および一族が討死し、北田氏は滅亡した。 ≪北田城≫ 建久4(1193)年、佐原氏一族/北田広盛が築いた北田氏の居城。 東を湯川、西を阿賀川、北を日橋川と三方囲まれた要害の地にあり、当時の平城としては最大級の規模であった。 昭和58(1983)年、発掘調査が行われた。 今では標柱と案内板、土塁の一部が残るのみ。 ▲(湯川村三川〜堂畑) [配置図] |
北原 采女 |
きたはら うねめ
《初代・采女光次》 高遠藩主/保科正光の庶子/北原采女光次を祖 (初代) とする。 幸松丸 (保科正之公) が保科正光の養子となった際に教育係に就き、正之公が山形藩、そして会津藩への移封に従って会津入りをする。 幕府からも「会津の誉れ」と称されるほど優秀な人物だった。 以降、北原采女を世襲名とし、家老九家の中でも家禄が突出した筆頭家老 (歴代家老8名) として幕末まで仕える。 《2代・采女光敬》 元禄17(1704)年、死去 (56歳)。 《3代・采女光慶》 享保 7(1722)年、死去。 《4代・采女光平》 明和 7(1770)年、死去 (序暦、70歳)。 《5代・内膳光保》 寛政10(1798)年、死去 (64歳)。 《6代・采女光裕》 寛政10(1798)年、父/光保の死去で家督を継ぎ若年寄に就任。 寛政11(1799)年、家老に就任。 文化 4(1807)年、勘解由光裕から釆女光裕に改名。 文化5(1808)年、北方警備の任を命じられ、陣将として樺太に赴く。 文化 7(1810)年、大老に就任。 文化14(1817)年5月12日、死去。 《7代・出雲光輔》 光裕の次男。父の北方警備に同行。 《8代・采女光有》 光輔の弟。 《9代・采女光美》 光輔の長男。 文久 2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に伴い、上洛する。 元治元(1864)年、9月に若年寄に就任し、11月に家老に就任。 慶応 4(1868)年8月23日、 が鶴ヶ城下に迫るや 、采女光美の母/北原きよは、後顧の憂いを断つため西郷勇左衛門邸で自刃。 《10代・大和光国》戊辰の役では松平容保・喜徳公の警護に従事。 《11代・光近)》 光美の次男 |
木村 忠成 |
きむら ただなり、寛永8(1631)年〜宝永7(1710)年閏8月11日(79歳) 初名:重直。 名:忠成。 通称:忠右衛門。 豊臣秀頼の家臣/木村長門守重成の孫で、浪人/木村忠次の子。 京都/大徳寺近くで幼少を過ごす。 寛永11(1634)年、上洛した高遠藩主/保科正之公に見い出され、親子共々 召し抱えられ、小姓に就く。 大徳寺に入った正之公にお茶を差し上げる際、遊びに来ていた重直 (忠成) に茶碗を持たせたが立ったまま茶を差し出した。 正之公が理由を尋ねると「豊臣家の家臣であるから関東武士には膝を屈しない」と答えが返ってきた。 非礼を咎めるどころか素質を見抜いた正之公は「すでに時代が変わり、天下の士、関東に服す、今から我に仕えよ」と諭し父子とも召し抱えた。 寛永20(1643)年、正之公の会津藩加増移封の際、忠右衛門忠成と改名する。 寛文 2(1662)年、町奉行に就任。 寛文 8(1668)年、郡奉行に就任。 貞享 3(1686)年、正之公の人を見る目は正しく、南山お蔵入り郡奉行にまで上り詰める。 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。 木村 忠次 きむら ただつぐ、元和元(1615)年〜明暦2(1656)年 初名:重直。 豊臣秀頼の家臣/木村長門守重成の長男。 父/重成が大坂夏の陣で戦死、その直後に誕生。 浪人となるが、武士の心得は失わず切磋琢磨し続ける。 木村忠成の父となる。 寛永11(1634)年、上洛した保科正之公に召し抱えられる。 寛永13(1636)年、最上藩へ加増移封の正之公に従う。 寛永20(1643)年、会津藩へ加増移封の正之公に従い、使番に就く。 |
岌州 |
ぎゅうしゅう、 大永5(1525)年10月14日〜文禄元(1592)年10月14日 (68斎) 青木村の地頭 (近隣13ヶ村を支配) /生江大膳の子として、河沼郡稲川荘青津郷青木邑 (会津坂下町) で誕生。 母は、河沼郡野沢邑豊川の人。 生まれつきの神童で、「かねて利口発明ゆゑ大学者になる (慶長誌)」と称される。 3歳の時、父が死去。 母は岌州を連れて、隣村の砂越村/渡部忠兵衛と再婚。 10歳の時、正徳寺で剃髪し、住持/岌円に師事。 その後、高巌寺で岌天に学び、20歳の時に京に上り修行する。 越後/津川の新善光寺の住持を経て帰洛し、百萬遍知恩寺に進む。 すぐに頭角を現し、30歳そこそこで知恩寺の第30世住職に就任し、後奈良天皇から紫衣を賜る。 永禄3(1560)年、上杉謙信の招請に応じて越後へ下向する。 永禄5(1562)年、帰洛。 永禄8(1565)年、落雷で焼失した御影堂再建のために四国へ下向。 元亀3(1572)年、堺の旭蓮社 (大阿弥陀経寺) 復興に努める。 天正7(1579年、宮中で「阿弥陀経」を進講。 蘆名盛氏公や金上盛備と親密な関係にあり、盛氏公への官位や将軍/足利義輝から屋形号が授けられたのは岌州の働きとされる。 上杉謙信と関白/近衛前久との盟約にかかわったり、盛氏公と豊臣秀吉、細川幽斉らとの交わりを手助けしている。 永禄年間(1558〜1570)、帰郷のため青木村に下向した折、正徳寺に贈った5品「絹本著色十六善神軸・山越来迎阿弥陀図・中将姫蓮糸織物・阿弥陀三尊来迎図織物・獏の香炉」が寺宝として現存している。 天正13(1585)年に岌州が金上盛備に送った書翰も現存。 高巌寺には、法然上人像を送っている。 文禄元(1592)年、京都で遷化。 |
木本成理・成勝 | 木本成善・成福 |
北原 雅長 |
きたはら まさなが、 天保13(1842)年〜大正2(1913)年7月24日 (71歳) 通称:半助、号:清華、歌仙庵。 家老/神保内蔵助利孝の次男、母の実家/北原光吉の養子となる。 兄/神保修理は、鳥羽伏見戦の時に藩主が戦線離脱した責で自刃。 容保の京都守護職就任に従い上洛し、中枢で多くの機密に係わる。 禁門の変の戦いにも参加。 戊辰の役では、母成峠守備の大鳥圭介や田中源之進の参謀役に就く。 開城後は、戦争責任を一身に背負って自刃した家老/萱野権兵衛の最期に立ち会い、遺骸を芝白金/興禅寺に埋葬。 東京で幽閉 (謹慎)。 明治6(1873)年、新設の工部省に入省。 その後、秋田県権大属、長崎県少書記官、対馬島島司などを歴任。 明治22(1889)年、長崎県令の日下義雄に抜擢され長崎市長に就任、上水道を明治24(1891)年に完成させるなど尽力。 明治31(1898)年、東京市下谷区長に就任。 明治37(1904)年、孝明天皇から賜った御宸翰の存在を初めて明らかにし、会津版画賊軍ではないことを示す京都守護職時代から7年間の「七年史」を著す。 真実の公表を恐れた長賊らは、不敬罪との濡れ衣で拘留した。 晩年は静岡県浜松に移り、歌道に親しんだ。 辞世「人の世を 離れてすめる月影に さそわれて行く 西の山の端」 墓所は浜松市/西来院。 |
木村 熊之進 |
きむら くまのしん、 文化14(1820)年〜慶応4(1868)年5月1日 (49歳) 文化11(1817)年〜 (52歳) とも。 名:重光。 字:中羽。 号:蕉陰。 幼くして書を好み、藩校/日新館で頭角を現し16歳で大学に進む。 剣、槍、弓、馬に長じ、詩をも能くする。 文武に秀でるも気骨のある性格からか、物頭・組頭にとどまる。 禁門の変では、壱番隊長坂隊として奮戦。 戊辰の役では、軍事奉行添役の職にあったが、国内外の大勢を論じ強く帰順論を唱えるも聞き入れられなかった。 さればと白河口へ出陣して奮戦するも、砲弾にあたり負傷すると桜山町に退き、自刃して果てた。 乗越/戦死墓・会津銷魂碑に合祀。 |
《殉難者》 | 菊地徳蔵 | 菊池[某] | 北原軍太夫 | 岸清兵衛・庄左衛門 |
北村直衛 | 木間源次郎 | 木間留次郎 | 木村常之助 | |
木村兵庫・幸蔵・ナミ・カヨ・スカ・エン・忠右衛門・ナヲ・コト | ||||
木村次郎 | 木本左門 | 木本内蔵丞成紀 |
北村 正哉 北村 正任 |
きたむら まさや、大正5(1916)年5月3日〜平成16(2004)年1月26日 牧場主の長男として三沢村 (三沢市) にて誕生。 本来の「哉」は、旁にノが付かない異体字。 野辺地中学 (野辺地高校)、盛岡高等農林学校 (岩手大学) を経て、陸軍獣医学校へ進む。 陸軍/獣医少佐として出征し、インドネシアで終戦を迎える。 昭和27(1952)年、大三沢町議に出馬し、初当選。 昭和30(1955)年、青森県議会議員に出馬し連続3期務める 昭和42(1967)年、副知事に就任し、連続3期務める。 昭和54(1979)年、第10代/知事に出馬するや得票率74%超えで当選し連続4期務め、県の経済水準を高めるべく、道路や鉄道 (特に東北新幹線/青森までの開通)、港湾、空港など社会基盤の整備に尽力。 また、何事にも公正で、かつ正義感の強い人として知られる。 「自分らが出来ないことを人にやらせようとしたり、 自分らがやっていることを人に直せとは何事か」 と職員に叱咤した逸話も残る。 昭和60(1985)年、苦渋の選択/六ヶ所村へ核燃施設受入れを決断。 昭和62(1987)年、「青秋林道を建設することによるメリットに疑問がある」との見直し発言で一気に流れが保護に傾き、後に白神山地のユネスコ世界遺産登録へとつながった。 平成6(1994)年、三内丸山遺跡の永久保存を決定する。 平成7(1995)年、知事選挙で5選を目指したが、新進党フィバーの最中、僅かの差で敗れる。 平成15(2003)年、糖尿病が悪化し脳梗塞で倒れる。 平成16(2004)年、妻/幸子との夫婦仲は人が羨むほど睦まじく、同じ病院に入院の妻が死去した翌日に、正哉も死去した (87歳)。 三沢市役所に銅像が建立。 きたむら まさとう、昭和16(1941)年4月29日〜 北村正哉の子として誕生。 昭和35(1960)年、県立八戸高等学校を卒業。 昭和39(1964)年、東京大学法学部を卒業し、毎日新聞社に入社。 新聞記者として岡山、京都支局、大阪本社/社会部、東京本社/政治部などを歴任。 海外特派員記者としてボン (西ドイツ) の支局長に就任、帰国して東京本社/外信部長、論説委員長、編集局長、主筆などを務める。 平成15(2003)年、第13代/日本記者クラブ理事長に就任。 平成16(2004)年、毎日新聞社長に就任。 平成17(2005)年、日本新聞協会会長に就任。 平成20(2008)年、毎日新聞会長に就任。 平成21(2009)年、横綱審議委員会委員を委嘱される。 平成23(2011)年、日本棋院/第41回大倉喜七郎賞を受賞。 平成29(2017)年、第15代/横綱審議委員会委員長に就任。 平成30(2018)年、三沢市観光大使に就任。 平成31(2019)年、委員の規約/任期5期10年の満了で退任。 現在も、毎日新聞社の名誉顧問、一般社団法人アジア調査会理事、日本ユニセフ評議員、公益法人イオン環境財団の評議員などで活躍中。 |
君島 八郎 |
きみしま はちろう、 明治9(1876)年12月28日〜昭和30(1955)10月14日 若松町 (会津若松市) にて誕生。 明治28(1895)年、会津中学校 (会津高校) に首席で入学し、首席で卒業 (1回生)、無試験合格で第二高等学校 (東北大学) へ進む。 同窓生が松江春次・山口鹿三・宇川久衛、課外特選生/野口英世。 明治34(1901)年、東京帝国大学も首席で卒業し、大学院へ進む。 在学中の明治35(1902)年に「道路学一斑」を著す。 東京帝国大学で講師、助教授を歴任し、独国・仏国・米国へ留学。 明治42(1909)年、「測量学」を著す。 明治44(1911)年、工学博士を取得。 同年、新設された九州帝国大学に招聘され工学部教授に就任、河川工学や港湾工学を教える。 大正10(1921)年、「君島測量学」を著す。 大正11(1922)年、「河海工学 全第四編」を著す。 同年、同郷の植村恒三郎が農学部教授として赴任してきた。 大正14(1925)年、「君島大測量学」を著す。 当時、同書と「君島測量学」は日本測量技術者必備の宝典とされ、「君島大測量学」と「河海工学」は土木名著100の書だった。 昭和4(1929)年、同大学の工学部長に就任。 昭和10(1935)年、退官すると、名誉教授が授与される。 大学在任中、北九州各市の顧問として上下水道の整備や港湾建設など地元の都市基盤整備に貢献。 昭和25(1950)年、土木学会の名誉会員に推挙される。 |
きよ彦 |
きよひこ、昭和25(1950)年〜令和元(2019)年10月28日 本名:大堀清日古。 旅館の板前の父と農家の母の子として西会津町にて誕生。 県立西会津高等学校を卒業し、上京。 サラリーマン、六本木でバーの経営などを経る。 昭和63(1988)年、京都の友禅呉服問屋/千總の勧めで、着物のデザインに着手する。 先立たれた妻の代わりに、短大に通学する愛嬢の弁当を2年間も作ったことが、料理人になる契機になったとのこと。 着物デザイナー、料理人、料理研究家、六本木「まめ彦 (おでん)」のオーナーや、おネエキャラのタレント業などで活躍。 会津若松市にプロデューした「そば処/きよ彦 花」は閉店した模様。 著書「びっくり極うま!野菜料理」「いきな女にいきな躾 とっておき、28の秘訣」「五色二十種の野菜を使ったきよ彦流料理」など。 |
菊池渙治 | 北村清士 | 岸俊雄 | 君興治 | 木村貞子 |