≪観光案内≫
会津坂下町役場 産業部商工観光班は、こちら。
《現地観光案内板》
会津坂下町観光マップ(245KB)
春日八郎氏の出身地である この地に建てられた。
愛用のピアノ、ステージ衣装、楽譜などの思い出の品々が展示されている。
公園内には、別れの一本杉もある。
春日八郎については、こちら。
大正13(1924)年10月9日、会津坂下町塔寺に生まれる。
「赤いランプの終列車」、「お富さん」、「別れの一本杉」などの曲が有名。
独特な歌声は、今でも多くの人を魅了している。
晩年には、親交の深かった三橋美智也、村田英雄とで「三人の会」を結成。
平成3(1991)年10月22日、肝硬変のため逝去。 享年67歳。
JR会津坂下駅前広場に、
ブロンズ像も建てられた。
≪その他のヒット曲≫
青い海原
、青い月夜だ
、足摺岬
、雨降る街角
、あれから十年たったかなァ
、居酒屋
、浮草の宿
、海猫の啼く波止場
、裏町夜曲
、大阪の灯
、男の舞台
、俺と影法師
、ギター流し
、ごめんよかんべんナ
、三味線風来坊
、たそがれの砂丘
、旅の燈台
、月の嫁入り舟
、妻恋峠
、長崎の女
、長良川旅情
、弱虫小僧
、苦手なんだよ
、博多流し
、花かげの恋
、母の便り
、瓢箪ブギ
、風林火山の歌
、ふたりの坂道
、故郷は遠い空
、街の燈台
、山の吊橋
、夜行列車
、雪国の女
、ロザリオの島
、別れの燈台
など
▲無料 (会津坂下町大字船杉554 Tel. 0242-82-4254)
・10時〜16時
・休館 12月〜3月
[公共交通]
昭和13(1938)年4月11日、会津坂下町に生まれる。
メイン通りの中央に、生誕の地を示す1本の標がある。
現在は、役場庁舎の駐車場。
平成5(1993)年6月10日、肺がんのために逝去。
享年56歳。
墓は、中野竹子の墓のある法界寺。
森進一のデビュー作「女のためいき」を作曲し、その後も「港町ブルース」、「おふくろさん」、「冬の旅」などヒット曲を提供し続けた。
水原弘の「君こそわが命」、五木ひろしの「千曲川」、テレサ・テンの「空港」、藤圭子の「女のブルース」なども有名。
猪俣公章については、こちら。
≪その他の代表的な作品≫
◇ 森進一 (恋ひとすじ、波止場町、北航路、ひとり酒場で、冬の旅、さざんか)
◇ 藤圭子 (京都から博多まで、私は京都へ帰ります、別れの旅、恋の雪割草)
◇ 内山田洋とクール・ファイブ (噂の女)
◇ 五木ひろし (ふたりの旅路、愛の始発)
◇ 都はるみ (港町、長崎の恋は悲しい、おんなの海峡)
◇ 北島三郎 (渡り鳥いつ帰る)
◇ 美空ひばり (花と炎)
◇ 西川峰子 (峰子のマドロスさん)
◇ 坂本冬美 (あばれ太鼓、祝い酒、男の情話、能登はいらんかいね、男惚れ)
◇ マルシア (ふりむけばヨコハマ、待ちわびて哀愁、あきらめてバイバイ)
◇ 園まり (気にかかる)
◇ 石川さゆり (港唄、かくれんぼ、東京かくれんぼ)
◇ 藤あや子 (木曽の恋唄)
◇ 海原千里・万里 (大阪ラプソディー)
◇ 伍代夏子 (恋ざんげ)
◇ チャダ (面影の女)
◇ 増沢末夫 (さらばハイセイコー)
など
会津坂下町生まれの日本画家/小林五浪の作品を展示。
平成13(2001)年開館し、年4回ほどの企画展も開催。
開館は、土曜日と日曜日、祝日のみ、ご注意を。
▲有料 (会津坂下町字台ノ下842
Tel. 0242-84-1233、 平日は、Tel. 0242-83-2234)
・9時〜16時30分
・休館 月曜日〜金曜日
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本尊「十一面千手観音菩薩」は8.5メートル(2丈8尺)もあり、根の付いている一木彫の仏像としては日本最大。 本尊の左右に脇侍二十八部衆、風神、雷神30体がすべて揃っているのは、京都/三十間堂と立木観音堂だけとのこと。 木造千手観音立像と観音堂は、国指定重要文化財。 大同3(808)年、弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた立ち木の巨木に彫刻したことから「立木観音」となる。 |
「だきつき柱」に抱きついて、眼を開けて観音様の方を向いて祈願すれば、どんな願いも叶うと言い伝えられている。
ころり三観音の一つとして、人々の信仰を集めている。
会津六詣出の一つ。
会津三十三観音の第三十一番札所。
≪ 恵 隆 寺 ≫
欽明元(540)年、中国/梁の高僧/青岩が庵を結ぶ。
後に高寺と呼ばれ隆盛を誇るも、慧日寺の興隆により衰退。
金塔山 真言宗豊山派。
舒明6(634)年、青巌の高弟/恵隆が高寺として開山。
斉明4(658)年、蓮空上人が一宇を建立し恵隆寺とする。
延暦23(804)年、僧/利仁が中興し、全盛期を取り戻す。
大同3(808)年、徳一大師、もしくは空海が再興との説も。
建久元(1190)年、仏像等の一部を移し 今の恵隆寺が創建。
正治2(1200)年、立木観音堂が建造。
慶長16(1611)年、大地震で堂宇が倒壊、数年を要して修築。
かつては、周辺の広大な地域を支配していた「高寺三十六坊」として隆盛していたという。
今では立木観音堂、仁王門、本堂のみが残されているだけ。
≪ 三佛堂 (薬師如来 阿弥陀如来 六地蔵菩薩)≫
会津十二支守り本尊の
・子 (千手観世音菩薩)、
・未、申 (金剛界大日如来)、
・戌、亥 (阿弥陀如来)。
会津二十一地蔵尊の第十五番。
《補》 春日八郎の腕白時代を見守ったお地蔵さんや、歌碑も建立されている。
現/住職は、八郎の家来として魚釣りなどに連れ回されていたとのこと。
《補》 大イチョウの木から、秋には10俵ほどの銀杏の実が収穫。
▲(会津坂下町大字塔寺字松原2944 Tel. 0242-83-3171
〔HP〕)
・例大祭 8月17〜18日
・見学時間 30分
[公共交通]
享保14(1729)年建造で、中規模農民/五十嵐智信の住宅。
中開津から移築した代表する寄せ楝造り、茅葺きの家屋。
国指定重要文化財。
立木観音の右側すぐ近くにある。
▲(会津坂下町大字塔寺字大門1466)
・4月〜11月の9時〜16時
・休館 月曜日 (祝日の時は翌日)、12月〜3月
江戸詰の勘定役/中野平内の長女として江戸に生れ、学問と薙刀を修める。
戊辰の役がぼっ発したため、会津に戻る。
照姫が会津坂下に退いたとの噂を聞き、中野竹子たちは母/こう子、妹/優子や、神保雪子、依田まき子・菊子の姉妹、岡村すま子たち20余名で、警護をするため「婦女隊」を結成した。
従軍を申し出るも、会津藩には女子を戦闘員にする習わしはなく、当初は許されなかった。
嘆願を続ける熱意が受け入れられ、従軍を許される。
入城すべく出撃し、奮戦したが、柳橋にて敵弾に倒れる。
共に戦っていた妹の手で、介錯された。 享年18歳(20歳、22歳とも)。
「美性院芳烈筆鏡小竹大姉」。
握られていた薙刀には、辞世の句が結ばれていた。
「ものゝふの 猛
雅号は、「小竹」と称した。
終焉の地/柳橋には、ひっそりと白い石像が建っている。
「娘子 (じょうし) 軍」 「娘子隊」とは、あまりの勇敢・奮戦ぶりに恐れ慄いた西軍が付けた隊名である。
平成5(1993)年6月10日、肺がんで死去。 享年56歳。
山門を入って、すぐ左側にある。
猪俣公章については、こちら。
▲(会津坂下町字光明寺東甲3944 Tel. 0242-83-3519)
・法界寺については、こちら。
高田馬場の仇討ちで有名な赤穂義士の一人の堀部安兵衛は、当地で生まれ育っている。
幼名を中山安之助といい、5歳で母を失った。
元和元(1681)年6月18日、13歳の時に父も病死したため、新発田藩の祖父に引き取られた。
父「真覚幻夢信士」 母「願譽守誓信女」
両親の墓は、今も貴徳寺にある。
安兵衛の父/中山安太郎 (弥次右衛門) は新発田藩士だったが、城で勤番中に失火で櫓を焼失させてしまい、藩を追われ浪人となる。 芸者/小菊 (本名/お絹) との関係で勘当されたとも。
下男だった茂助の住まい/坂下に来たものの家が狭く、貴徳寺の住職/厳哲に頼んで寺の1室を借り、この寺で安之助が生れる。
父/安太郎は読み書きを、母/小菊は唄・踊りを教えていたという。
正面の新しい墓は、昭和47(1972)年に8代目/子孫が建立。
元々の墓は、後ろにある。
安兵衛の本墓は泉岳寺にあるが、昭和50(1975)年、両親の傍らに墓碑が建立された。
「元禄十六年二月四日 三十二歳 刃雲輝劔信士」
平成23(2011)年、大通りの入口に
銅像
が建立された。
▲(会津坂下町茶屋町甲3873 Tel. 0242-83-2656)
・貴徳寺については、こちら。
推定樹齢200年で、周囲約3.2メートル、樹高約6メートル。
花は、やや白色の江戸彼岸桜の一種。
枝が垂れるので薬王寺の枝垂桜(しぐれざくら)とも呼ぶ。
会津五桜(石部桜、薄墨桜、虎の尾桜、大鹿桜)の一つ。
▲(会津坂下町大字船杉字北杉大道乙1170 薬王寺内)
4世紀中期から後半にかけて、大川の南岸沿いに築かれた古墳。 円墳、方墳の他に集落の跡も発見されている。
昭和51(1975)年、国指定の史跡。
は、約127メートル (前方60m、後円67m、高さ10m) の東北地方第2の規模の前方後円墳。
後円部の頂上に会津三十三観音/青津観音がある。
鎮守森古墳は、約56メートル (前方30m、後方26m)。
▲(会津坂下町大字青津字館ノ腰)
会津進出を計った越後/城重則 (重範) が築いた「会津八館」の1つ。 別称:宇内館、城氏館、藍津之城とも。
保安元(1120)年に城助職 (長茂) が築いたとも (改築か)。
総面積は4ヘクタール、幅60メートル・深さ15メートルの二重堀に囲まれている。
遺構:空堀・掘立柱建物跡・鍛冶炉跡・土坑・溝跡・土塁など。
九条兼実の日記「玉葉」に出てくる「藍津之城(あいづのしろ)」とも言われる。
平安時代の城館遺構は、全国でも珍しく、国の史跡に指定されている。
跡地の一角に、会津坂下町川西公民館が建っている。
▲(会津坂下町宇内五目1101-8)
推定樹齢400年のアカマツ。
一本の幹から何本もの枝が伸び、束ねたように見えることから名付けられた。
3本の大枝に分岐していることから、「三本松」と呼ばれていたものもある。
10数本の現存が確認されているが、ほとんどに枝の枯れがみられ、昔の面影はない。
近くの先に、束松峠の一里塚、峠の茶屋跡、秋月悌次郎の詩碑などがある。
未舗装の山道で車走行はお勧めしない。 どうしても、という方は徒歩で。
「糸桜里の湯ばんげ <閉館>」の隣にある。
▲(会津坂下町大字見明字西裏地内
Tel. 0242-83-1604)
文化財 | 大俵 | 立川湧水 | 天屋・本名宿 |
杵ガ森古墳・稲荷塚遺跡 | ややこ森古墳 | ||
片門発電所(ダム) | 蒸気機関車 | 高橋藤園の銅像 | 舟渡一里塚 |
道路元標 | 気多宮の道標 |