大同2(807)年、徳一大師が五薬師の1つとして開創。
大同5(810)年、勝常寺として開基。
「高寺」の「高寺三十六坊」の1つ「慈光坊」との説がある。
この地で弘法大師 (空海) が、薬師像を刻み創建したとの伝承もある。
いずれの説でも七堂伽藍が建立され、坊舎12、子院100余の寺を持つ一大寺院であったと伝えられる。
瑠璃光山 密蔵院、真言宗豊山派。
応永5(1398)年、講堂 (現/薬師堂)が火災により焼失。
応永6(1399)年、、蘆名氏の家臣/富田祐持が薬師堂を再建し、昭和39年に茅葺き屋根を銅板葺となった以外は、当時のまま現存している。
本尊の「木造薬師如来坐像」、両脇侍像の「日光菩薩立像」と「月光菩薩立像」は国宝。
いずれも平安時代初期の造像で、ケヤキ材の一木造り (丈4尺7寸強)。
東北地方の仏像では初めての国宝である。
近畿地方以外でも、鎌倉大仏、臼杵磨崖仏に次いで3番目の国宝指定である。
会津盆地の中央に位置し、「中央薬師」とも呼ばれる。
国宝3体以外にも国指定重要文化財が、多く所蔵されている。
◇ 勝常寺薬師堂
◇ 木造十一面観音立像
◇ 木造地蔵菩薩立像 2体 (延命地蔵/雨降り地蔵)
◇ 木造聖観音立像
◇ 木造四天王立像 4体
多聞天(北方)/持国天(東方)/広目天(西方)/増長天(南方)
◇ 木造天部立像(伝虚空蔵菩薩像)
全国的にも、これだけのこれだけ多くの平安時代の仏像が、一寺に所蔵されているのは珍しい (30余躯)。
祭例の4月28日には、念佛踊りも開催される。
現地の案内板
【説明文】
【配置図】。
会津五薬師の中央薬師 (講堂/薬師堂)。
会津十二薬師の第四番。
会津三十三観音の第十番札所 (霊宝殿/観音堂)。
勝常寺の木立は、ふくしま緑の百景の1つ。
≪ウォーナー碑/土井晩翠≫
天正17(1589)年の伊達軍/侵攻時に焼失しなかったのも奇跡であるが、太平洋戦争でも、米国/ウォーナー博士が京都・奈良・鎌倉とともに会津を爆撃しないように提言したため、空襲の被害にあわず現存できている。
感謝の碑文は、土井晩翠による。
一千余年閲
秋のけしきの深みゆく 会津郊外勝常寺 仏縁ありて詣できて 十三像を拝みぬ
▲(湯川村大字勝常字代舞1764 Tel. 0241-27-4566)
・9時〜16時
・休館 火曜日、11月15日〜3月31日
・祭例 4月28日
[公共交通]
「高寺三十六坊」の1つ/常法坊で、「高寺おろし」された寺。
教主山、真言宗豊山派。
≪礫石経塚≫
境内の3躰ある石造地蔵尊の北側の台座下から石製経箱に入った礫石/約7千個が見つかった。 小石 (径1.8〜6.5cm) に1文字または数文字の経文 (妙法蓮華経) を墨で書写したもの。
▲(湯川村大字三川字二城乙1)
正嘉2(1258)年、僧/月堂が草創、七堂伽藍が造営される。
聖会山、臨済宗。
本尊は、地蔵菩薩座像。
会津若松市/興徳寺の末山。
至徳年間(1384〜1386)、興徳寺住職/大圭が大伽藍を創建し、中興。
天正17(1589)年、伊達政宗公が伽藍すべてを焼き払った。
奇跡的に七重塔は免れ、本尊は檀那たちに守られた。
その七重塔も、文禄4年(1595)の大風で倒壊、かつての大寺の面影は消滅した。
現在は、集落の中に、ひっそりと佇んでいる。
本尊の地蔵菩薩座像は、鎌倉時代の作で、県内最古とされる。
会津二十一地蔵尊の第十六番。
キリシタン殉教者の墓石と伝えられる 「切支丹石塔」 がある。
以前は寺の墓域の外れにあったが、今は畑の中に移されていた。
「村指定 昭和五十六年三月
石造 四面十字入り入り石塔 塔高 六十五糎
キリシタン信者処刑者の供養塔と伝承」。
キリスト教が会津に伝わったのは、蒲生氏郷公の入府による。
加藤明成公の時代に、幕府の禁教令 (キリスト教禁止令) に伴って多くの信者が処刑された。
▲(湯川村下樽川)
元和5(1619)年、京都/醍醐松橋堯円の高弟/宥栄が松橋無量院の末寺として開創。
沼上山、曹洞宗。
木造阿弥陀如来座像、聖観世音菩薩立像、龍図を所蔵。
▲(湯川村大字湊字奈良町丙40)
元和5(1619)年、僧/宥栄が京都から帰郷し浜崎村に草創。
金剛山、真言宗智山派。
本尊は、大日如来。
山城国/松橋無量院の末寺。
寛永年間(1624〜1643)、加藤明成公が庇護し、隆盛を見る。
観音堂には、馬頭観音坐像と聖観音坐像の両像が祀られている。
会津水子地蔵の寺として、信仰されている。
境内には、新しい水子地蔵が並ぶ。
鐘楼門が見事。
▲(湯川村大字浜崎字室町706 Tel. 0241-27-4210)
永禄元(1558)年、笈川村主/栗村下総守盛胤が開基。
寛文 3(1663)年、再興。
真言宗豊山派。
境内にある笈塚は、空也上人が背負っていた笈を下ろし休んだ石と伝えられ、地名/笈川として残っている。
地上高 70cmほど(一部は土の中)・幅 70cmほど・厚さ 19cmほどの三角形の自然石に「笈川可 (行書体/おいづか)」と刻まれている。
八葉寺に通じる街道沿いにあったが、昭和30年代に現在地に移された。
▲(湯川村大字笈川字下本町甲84)
観音寺
真言宗豊山派。
本尊は、木造/十一面観音立像 (推定/室町時代作)。
天正9(1581)年、僧/宥誉が中興。
境内には、多数の名号石を再埋納した念仏塚がある。
▲(湯川村熊ノ目字居花1388-1/1411)
常照寺
開基については、不詳。
真言宗智山派。 本尊は薬師如来。
元和年間(1615〜1624)に焼失するが、僧/有栄が修築。
遍照寺の末寺。
▲(湯川村清水田字堂前乙41)
長龍寺
開基については、不詳。
福寿山、真言宗智山派。
慶長年間(1596〜1615)、僧/正真が中興。
江戸初期まで修験徳正院。
その後、遍照寺の末寺として長龍寺に改称。
▲(湯川村田川字宮ノ北丙13)
萬福寺
真言宗智山派。
▲(湯川村熊ノ目字村ノ内9)
地域活性化施設。
湯川村出身で、名誉村民2名の遺品や資料なども展示。
・高羽哲夫 映画「男はつらいよ」など撮影監督
(嘉永蔵にあった高羽哲夫記念館は閉館)
・佐野文夫 彫刻家
平成22(2010)年4月28日、旧/勝常幼稚園を利用して開館。
▲湯川村商工会 (湯川村勝常字堂後830 Tel. 0241-27-3957)
・9時〜16時
・休館 火曜日
南北朝期に築城とされるが、詳細は不詳。
別称:藤森城。
至徳年間(1384〜1386)、再築。
宝徳3(1451)年、城主/浜崎靭刀政頼を猪苗代盛光が攻め落とし、蘆名盛信公が城代に任じた浜崎主馬が再築する。
観応3/正平(1352)年、宝徳3(1451)年、享徳2(1453)年と、度々戦火に見舞われている。
その後、樹木が茂る社となり、藤森城と呼ばれるようになる。
慶長6(1601)年、蒲生秀行公は、蒲生城代十四衆の1人/蒲生郷貞を浜崎城に配置した。
その後の一国一城令でも「茶屋」と称し長らく存続した。
明治に入り、会津の消滅を謀る県令の極悪人/三島通庸の三方道路計画の際、意図的に城内を分割し、地域の精神的拠り所であった城東稲荷神社の消滅すら画策したが、村々の方々の必死な抵抗に守られ現存している。
それ以外の城の史蹟遺産は、ほんの1部の堀や土塁を残し、宅地や田畑になってしまった。
▲(湯川村浜崎字北殿町)
貞治年間(正平17〜22年、1362〜1367年)に、蘆名氏の一族/三浦四郎左衛門盛智が在地領主の居館として築いた平城とされている。
今では長福寺の境内 (周囲は住宅地) になっており、遺構は東側に土塁の痕跡と濠祉が残るのみ。
▲(湯川村大字佐野目甲42)
平成26(2014)年10月2日、オ−プン。
1つの道の駅を、2つの自治体 (湯川村と会津坂下町) が共同で整備したのは、全国で初めてのこと。
会津で来訪者が一番多い道の駅でもある。
国道49号沿いで、大川の近くにある。
小腹がすいたら、大人気の「揚げカレー焼きそばパン」を召し上がれ。
▲(湯川村大字佐野目字五丁ノ目78-1 Tel. 0241-27-8853
〔HP〕
〔HP〕)
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