会津は、弥生、縄文時代にも、広い地域との交易が活発であった。
遺跡発掘が進むにつれ、出土品から想像以上の交易があったことが、次々に明らかになっている。
古代に、律令制によって制定された7つの 「道」 が制定されていた。
会津とは、「東山道」 で結ばれる。
天正18(1590)年、豊臣秀吉は白河街道から会津に入り、下野街道を通って帰った。
江戸時代になって、徳川家康は全国の街道の整備を命じた。
東北地方で江戸に最も近い城下町であった会津藩は、国家事業として開始した。
寛文7(1667)年、保科正之公は、一里三十六町の制度を施行し、一里塚には榎を植え、松並木を植栽して、橋や船渡し、宿場町整備に注力した。
そのことで往来が多くなり、米や朝鮮人参、漆器、絵ろうそくなどの特産品が発達することになる。
慶安2(1649)年、幕府への報告には、「本道五筋」があるとしている。
◇ 南山通り(下野街道・日光街道) <一里塚>
◇ 白河街道 <一里塚>
◇ 米沢街道 <一里塚>
◇ 越後街道 <一里塚>
◇ 二本松街道 <一里塚>
各々の本道以外にも「裏街道」と称する複数の筋も存在した。
街道の起点は大町一之町の四つ角にあり、本道五筋が放射状になっている。
制札場が置かれ、「札之辻」 と呼ばれた。
南山通り、越後街道、米沢街道は西に向かい、南通りは郭外に出てすぐに南下する。
さらに阿弥陀寺を過ぎてから北向う米沢街道と、そのまま西に向かう越後街道が別れる。
二本松街道と白河街道は東に向かい、蚕養国神社で、北への二本松街道と、東へ向う白河街道と別れる。
後に、会津五街道、または東西南北道と呼ばれるようになる。
いずれも主要街道で、古くから商業物資の運搬や軍事用の道であり、江戸時代に参勤交代のため整備された。
内陸部であるため塩の入手、江戸や大阪などの消費地への米の販売に、ますます街道は重要性を増していく。
本道五筋の他にも、沼田街道や松川街道などの「小道二十五筋」も報告している。
現在の幹線として残っているのもあるが、裏道や廃道になっている街道が多い。
街道の整備に、暗黒時代を迎える。
会津藩消滅を目論む長賊に与した極悪人/県令三島通庸が命じた「三方道路」である。
会津から、西、北、南へ放射状に伸びる道路。
・西は、新発田から日本海へ
・北は、米沢から東北各地へ
・東は、太平洋から東京へ・・・・・南は、日光から東京へ
会津五街道の起点と同じく、大町一之町の札之辻なのだが、ルートが異なるのである。
古来から集落の中心であり流通の要である宿駅の解体が狙いであったため、意識的に宿場町を外したルートであった。 大内宿などが好例である。
むしろ、難工事になるルートを選んでの掘削で、途中で放棄した所も多発している。
もくろみ通り、その後の日本の発展から、会津は取り残された。
会津の人口は、今でも江戸時代末と変わっていない。
極悪人/三島は、会津の資力を削ぐのも目的だったため、三浦文次や赤城平六、宇田成一、原平蔵たちなど数多くの陳情にも決して耳を貸すことはなく、逆に誣告罪で逮捕という法治国家にあるまじき悪行に出る。 そして、目に余る内容を明治15(1882)年から強行する。
主要道路の建設は国の税金で作るべきなのに、16歳から65歳までの男女は、無賃で2年間/毎月1日を労役に服さなければならないとし、役務に出れない者からは1日当たり男は15 銭、女は10銭を徴収した。
毎月1日といっても、遠方から自費で工事現場に行かなければならず、食費や宿泊費などの生活費も自前なのである。 工事現場が住む所から80里も離れていることも多かったという。
工事のできない冬期の分は、農繁期である夏期に強要した。
貧富には関係なく、例外などは一切認めず徴収され、未納者には戸板、畳、戸棚の道具や種籾に至るまで差し押さえて競売にするという前代未聞の冷酷さであった。
「該村民の分担、哀願猶予、家人の在、不在にかかわらず、家財を調査しては農具や牛馬までも封印し、なかには一村全戸が処分 〜〜〜
公売法に許していない板戸、襖、障子、神仏、棚、畳、薄べりや仕付戸棚など、いやしくも財産の種類を問わず、掛矢 (大きな槌) を用いて打ち破り 〜〜〜」
この過酷な労働と厳しい代金徴収の圧政から、喜多方事件、清水屋事件などが起こり、自由民権運動の発端になった。
後に加波山事件(Wikipediaへリンク) を誘発することになる。
時は流れ、計画よりずいぶん遅れたものの平成9(1997)年に磐越自動車道が全線開通し、日本海と太平洋がつながった。
江戸からの道も、4時間弱で結ばれた。
文化庁選定「歴史の道百選」
平成8(1996)年、文化庁が全国各地の最もすぐれた「歴史の道」78ヶ所 (◇) を「歴史の道百選」として選定。 令和元(2019)年、新たに36ヶ所 (※) の道を追加選定、計114ヶ所となる。 《佐渡路=会津街道》 選定地図/文化庁 ◇ 束松峠/会津坂下町 〜 滝沢峠/会津若松市 ※ 鳥井峠〜車峠〜束松峠/西会津町側 《八十里越》 選定地図/文化庁 ◇ 白沢平 〜 八十里峠/只見町 〜 吉ケ平/新潟県下田村 《下野街道 (会津中街道・会津西街道)》 選定地図/文化庁 ◇ 山王峠/南会津町 〜 大内宿/下郷町 〜 栃沢/会津美里町 ※ 大峠/下郷町 〜 三斗小屋宿/那須塩原市 〜 〜 〜 藤原/日光市 《会津街道=米沢街道:桧原峠越》 選定地図/文化庁 ◇ 桧原峠 〜 大塩 〜 関屋/北塩原村 《白河街道=会津街道》 選定地図/文化庁 ◇ 大町札の辻 〜 黒森峠/会津若松市 〜 勢至堂峠/郡山市 〜 〜 〜 女石/白河 市 |
大町一之町の札之辻から、下野/今市 (栃木県日光市今市) を結ぶ街道。
行程は、32里 (130km)。 江戸へは60里 (240km)。
関山街道、南通り、下野路とも呼ばれていた。
関東側からは、会津街道、会津西街道などと呼ばれていた。
日光街道とも呼ばれていたが、近年では分かりやすい点から会津へ通じる西側の通り、“会津西街道”がよく使われている。
古くから、軍馬などの通行に利用されていた。
保科正之公により本格的に整備され、日光大地震で通行不能になるまでは参勤交代に使用されていた。
日光東照宮が造営されたため北からの入口となり、参勤交代や江戸廻米、名産品の運搬、庶民の出稼ぎ・西国巡礼などの利用も加わって、重要な街道となる。
新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代でも重要な街道であった。
[宿駅]
(札之辻) → 福永 →
関山 → 大内 → 倉谷 → 楢原 → 田島 → 川島 → 糸沢 → 横川 → 中三依 → 五十里 → 高原新田 → 藤原 → 大原 → 高徳 → 大桑 → 今市
越後から江戸へ向かう旅人のために、越後街道の坂下から分かれて大内に通じる道も下野街道と呼んでいた。
(坂下) → 高田 → 市野 → 大内
天和3(1683)年、日光大地震の崩落で男鹿川が堰き止められ、出現した湖底に五十里宿が沈み、南山通りは通行不能となる。
元禄8(1695)年、松平正容公が代替に松川街道 (松川新道、宇都宮街道、那須越え) を整備。
国道118号の下郷までは、松川街道沿いである (その先が国道121号の所以)。
享保8(1723)年、五十里湖部が修復され、五十里宿復活。
文久3(1863)年、難所の高原峠を避ける栃久保新道が開削。
明治17(1884)年、会津三方道路の完成で、意図的に外された旧道は衰退。
平成14(2002)年3月19日、大内宿辺りの10キロほどが下野街道として国の史跡に指定された。
おおよそ国道121号沿いであるが、下郷町までは違う。
県道59号 → 県道131号沿いにあった。
「札之辻」(七日町通りを西へ) → 桂林寺通り → 融通寺通り → 川原町 → 材木町 → 大川を渡ると若松から出る (昔は上米塚の渡しがあった)。
一里塚については、こちら。
大町一之町の札之辻から、磐城/白河 (福島県白河市) を結ぶ街道。
[地図]
奥州街道へ結ぶ街道でもある。
行程は、17里 (68km)。 江戸へは65里 (260km)。
白河側からは、若松街道、会津街道、会津本街道、会津越後街道と呼ばれていた。
古来より往来に使われており、行基菩薩が会津入りする時に通った道である。
天文6(1537)年〜天文14(1545)年、蘆名盛氏公が勢至堂峠経由の街道を、安積郡西部と岩瀬郡長沼地方 (二本松・郡山・三春・須賀川・白河・相馬) を統治するために、本格的に整備。
[宿駅]
(札之辻) → 金堀 → 赤井 → 原 → 赤津 → 福良 → 三代 → 勢至堂 → 長沼・惣五郎内 → 江花 → 牧の内 → 上小屋 → 飯土用 → (白河)
滝沢峠、沓掛峠、黒森峠、勢至堂峠と峠が多いため、宿駅間の距離は比較的短い。
慶長16(1611)年、地震により、南山通りが通行不能となると、佐渡の金の運搬や、新発田藩・村上藩の参勤交代に重要な街道となる。
越後街道へつながる佐渡金山への「佐渡三道 (三国街道・北国街道)」の一つであり、江戸五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)に次ぐ街道でもあった。
蒲生氏郷公が会津に入部の際や、豊臣秀吉が会津に入る時も、この街道を利用している。
豊臣秀吉は、街道の道幅を3間とするように、伊達政宗公に整備を命じている。
寛永4(1627)年、会津入りした加藤嘉明公は、険しい背炙山ルートから滝沢峠を通る道を開き、背炙峠を冬坂峠と改める。 寛永11(1634)年に完成。
新発田藩や村上藩の参勤交代に利用された。
沓掛峠辺りまでは、二本松街道の上街道と共有している。
国道294号の流れではあるが、共通する部分は少ない。
「札之辻」(東へ) → 六日町(北へ) → 博労町(相生町) → 蚕養国神社 → 滝沢本陣 → 若松を出る。
<猪苗代湖の舟運>
古来より頻繁に行われていたが、保科正之公の時代になると南端にある船着き場/舟津村が二本松藩領になったため、原則禁止となった (後に規則が定められ再開)。
宿駅間の紛争が数多く起こっており、それらが藩同士の争いになることを避けるための配慮であった。
大町一之町の札之辻から、出羽国置賜郡/米沢 (山形県米沢市) を結ぶ街道。
[地図]
行程は、14里 (56km)。
米沢側からは、会津街道と呼ばれていた。
古来から桧原峠 (大峠) を越え行き来していたが、室町時代初め、裏磐梯一帯の領主となった穴沢氏が整備、出羽三山詣や、米沢からは円蔵寺 (福満虚空蔵尊) 詣にも利用されていた。
伊達正宗公や、特に上杉景勝公の時代、米沢は会津藩領地だったため、街道は本格的に整備された。
伊達軍の会津侵攻や、上杉景勝公が米沢へ移封の際や、会津を拝領した保科正之公が山形/最上から通った道である。
大塩宿の温泉から採取する山塩の生産が盛んになると、街道の重要性も増した。
[宿駅]
(札之辻)
→ 塩川
→ 熊倉 → 大塩 → 桧原 → 綱木 → 関町 → (米沢)
江戸時代初期まで、熊倉に至る上街道、中街道、下街道の3つの道筋があった。
≪上街道≫ ほぼ県道69号に近い。
「札之辻」大町通りを北上し、榮川酒造辺りで鉄道線路を越え、県道69号に入り、まっすぐ熊倉集落に至る。
≪中街道≫ 国道121号に近い。
上街道の西側を通り、日橋川辺りで上街道に合流していた。
≪下街道]≫ ほぼ県道326号に近い。
「札之辻」から、越後街道と共有し、西七日町辺りから別れ、県道326号に入る。
湯川村、塩川を通り、昔は曲がりくねった道だったという。
慶長13(1608)年、蒲生秀行公の時代に、金川通り (上街道と中街道) が廃止され、塩川 (駅所となる) を通る下街道が本街道筋になった。
明治18(1885)年、大峠の名を移し「大峠道路」と名付けた旧/国道121号が完成したため、意図的に外された旧/米沢街道は一気に衰退した。
明治21(1888)年、磐梯山の噴火により桧原湖が出現し、桧原宿や旧/米沢街道の一部が湖底に沈んだ。
昭和48(1973)年、桧原峠より4キロほど東側に、西吾妻スカイバレーが開通した。 現在は償還が終わり無料開放されている。
平成4(1992)年、新/国道121号が新しい「大峠道路」として開通し、米沢は飛躍的に近くなった。
一里塚については、こちら。
大町一之町の札之辻から、越後/新発田藩 (新潟県新発田市) を結ぶ街道。
行程は、23里 (92km)。
[地図]
米や特産品などの物資を送り出し、北海道の海産物や日本海の塩を運ぶ重要な街道である。
江戸時代に大いに発展し、新発田藩や村上藩の参勤交代に使われていたため、越後側では「殿様街道」とも呼ばれていた。
佐渡金山関係の行き来にも使われ、佐渡三道の1つでもあり、五街道 (東海道・奥州街道・甲州街道・中山道・日光街道) に準ずる街道として重要視された。
赤谷 (現/新発田市) までが会津藩領地で、口留番所 (関所) が置かれていた。
越後側からは、「会津街道」と呼ばれる。
文化11(1814)年、十返舎一九が通り、「諸国道中金草鞋」に宿駅などの記載がある。
[宿駅]
(札之辻) → 高久 → 坂下 → 塔寺・気多宮 → 舟渡 → 片門 → 天屋・本名 → 軽沢 → 縄沢 → 野澤 → 上野尻・下野尻 → 白坂 → 宝川 → 八田 → 福取 →
八木山 → 野村 → 天満 → 津川 → 行地 → 新谷 → 綱木 → 赤谷 → 山内 → (新発田)
坂下、野澤、津川の3か所は、定期市が開催されるなど大いに賑わっていた。
坂下は、南北に2町16間、東西に10町50間に399軒が建ち並び(「新編会津風土記」)、街道一の規模を誇っていた。
津川は、阿賀川の舟運の物流拠点として、会津藩の西の玄関口いあり、代官所や蝋蔵・塩蔵・廻米蔵の船番所などがあった。
代々の領主・藩主は、鳥井峠から赤谷までを小川庄に治めてさせたが、その拠点が津川だった。
慶長16(1611)年の地震により、山崎新湖ができ、勝負沢峠が山崩れで通行不能となったため、それまでより少し南の板下を通るルートに変わった。
現在、国道49号の会津若松市から以西を越後街道と呼んでいるが、坂下の前後と津川以西が異なっている。
「札之辻」 → 七日町通り(西へ) → 阿弥陀寺(西へ) → 湯川/柳橋(橋を渡り北北西へ) → 若松を出る。
≪地震以前≫
高瀬(国道49号と合流し北西へ) → 佐野(大川を渡り西へ) → 青木(県道21号線、坂下町最北端の集落、西へ) → 西羽賀(西へ) → 塩坪(阿賀川沿いに西へ) → 尾登 → 野澤
≪地震後≫
高久 → 坂下 → 塔寺・気多宮 → 舟渡 → 片門 → 天屋・本名 → 軽沢 → 縄沢 → 野澤
≪野澤 以西≫
野澤から津川までは、国道49号沿い。
阿賀野川を渡り、1キロメートル位西へ行った後、国道49号と別れ北上する。
諏訪峠を越え (現在の林道は、更に北を迂回している)、行地を経て新谷で三川から来た新潟県道14号と合流、そのまま北西へ進み、赤谷を経て新発田市に至る。
大町一之町の札之辻から、岩代/二本松 (福島県二本松市) を結ぶ街道。
[地図]
奥州街道へ結ぶ街道でもある。 本宮からは奥州街道と共有。
行程は、15里 (60km)。
二本松側からは、会津街道、越後街道と呼ばれていた。
[宿駅]
(札之辻) → 大寺 → 猪苗代 → 関脇 → 中山 → 横川 → 苗代田 → 本宮 → (二本松)
大寺宿 : 古来より慧日寺の門前町として発展し、「大寺街道」と呼ばれていた。
猪苗代 : 宿場町であると同時に、鶴ヶ城の支城/猪苗代城 (亀ヶ城) の城下町、
かつ、藩祖/保科正之公を奉祀する土津神社への往復道として重要だった
なお、一国一城令にもかかわらず、会津藩では支城が認められていた。
関脇宿 : 藩境に近いことから会津藩の番所が設けられていた。
猪苗代までは、宿場のある磐梯山の山麓を通る本道の下街道と、猪苗代湖北岸の集落を通る上街道 (二本松裏街道) に別れていた。 そして、関脇で合流する。
上街道の三城潟から猪苗代宿へ通じる街道も整備されていた。
≪下街道≫
蚕養国神社の手前で白河街道と別れ、北上する。
松窪集落 → 八田 → 大寺(県道7号を東へ) → 猪苗代城下 (亀ヶ城) → 関脇
≪上街道≫
沓掛峠で白河街道と別れ、東へ向かう。
強清水 → 赤井谷地 → 戸の口 → 十六橋 → 三城潟 → 関脇
明治25(1892)年、新たに県道が開通したため、二本松街道は衰退した。
猪苗代町長田地区には、当時のままの松並木が一部 残っている。
六筋は、脇街道といっても五街道と同じく、番所や
宿駅、伝馬、制札場など通行関連で必要なものは整備されていた。
大町一之町の札之辻から、上州/沼田 (群馬県沼田市) を結ぶ街道。
[地図]
気多宮までは越後街道と共用。 行程は、60里 (160km)。
気多宮で越後街道と別れ、只見川と伊南川沿いに檜枝岐へ続き、沼山峠を越えて尾瀬沼に至る。
会津からは米や酒などが、上州からは塩や油などが運ばれ、尾瀬沼の三平下辺りで中継されていた。 参勤交代路ではなかったが、奥会津と上州をつなぐだけでなく、上州や奥会津から山形/出羽三山へ向かう街道として、重要な街道であった。
江戸時代までの沼田街道は、山口宿から沼田までの街道の呼称 (沼田からは会津街道) であったが、明治に入り新たに開削された現在の国道401号を総称して沼田街道としている。
◇ 伊北街道 気多宮
本筋は、只見から六十里越を経て中越へ至る街道
◇ 伊北越後道 只見から山口まで
本筋は、山口から八十里越を経て越後/三条・燕へ至る街道
◇ 沼田街道 山口から檜枝岐を通って上州/沼田まで
大町一之町の札之辻から、軽井沢銀山 (柳津町) を結ぶ5里ほどの街道で、現在の県道59号/会津若松三島線の母体となる。
[県庁HPの地図]
[地図]
軽井沢銀山は、永禄元(1558)年に村人が発見、翌年に蘆名盛氏公が採掘を開始した。
最盛期には月900斤 (約6.5トン) の銀を産出した日本屈指の銀山。
明治26(1893)年の記録にも4トンを産出 (全国6位) とあるが、3年後に閉山した。
[宿駅]
(札之辻) → 御旗町〜柳原〜蟹川橋 → 宿場/下荒井 → 中田〜長尾 → 宿場/逆瀬川 → 松坂〜柳津 → 宿場/軽井沢 → 銀山札之辻
後に延長され、田街道/小林宿 (只見町) をつなぐ72kmの街道となる。
(銀山札之辻) → 銀山峠〜五畳敷 → 宿場/砂子原 → 宿場/大谷 → 間宿
銀山峠、石神峠、美女峠、吉尾峠と風光明媚で、幕府の諸国巡見使も9回ほど利用した街道だったが、会津藩消滅を目論み地域活力である宿場解体を強行した長賊によって廃された。
おおまかな経路としては県道59号と153号に近いが、未だに車は通れず、一部は通行不能な「道無き県道」。
銀山街道の道標が、蟹川橋の近くや鶴野辺などに人知れず、ひっそりと現存している。
天和3(1683)年、日光大地震で戸板山の崩壊し、鬼怒川の支流/男鹿川が土砂で堰き止められ、五十里村が水没して五十里湖が出現し南山通りが遮断されたため、松平正容公が代替街道として急がせる。
元禄8(1695)年、新道が完成。
黒磯・矢板を経由し、下野/氏家 (栃木県氏家町) で奥州街道と合流して江戸に至る道筋。
行程は、31里 (120km)。 江戸への最短距離であっ多賀、難関の大峠が控えていた。
難所が故に、幕府は宝永元(1704)年7月に改めて脇街道とした。
松川新道、宇都宮街道とも呼ばれ、下野側からは南山通りと原街道との間にあることから会津中街道・会津通り・会津道と呼んでいた。
南山通り、白河街道、原街道とともに、江戸廻米に使用した街道。
[宿駅]
(札之辻) → 面川 → 香塩 → 小塩 → 桑原 → 小出 → 弥五島 → 松川 →
野際 → (難所の大峠/1,468m) → 三斗小屋 → 板室 → 百村 → 高林 → 横林 → 石上 → 山田 → 矢板 → 川崎 → 乙畑 → 氏家(阿久津河岸)
(脇街道:田代通り)
(札之辻) → 桑原 → 田代 → 水門 → 小松川 → 松川 で合流
元禄9(1696)年4月と元禄10(1697)年6月など3回、保科正容公の参勤交代に利用された。
越後/村松藩の3代藩主/堀直利も参勤交代で通行。
元禄17(1704)年、暴風雨で通行が困難となり、脇街道となる。
享保8(1723)年、大雨で五十里湖が決壊し土石流の被害が宇都宮・真岡近辺まで及び、1,200余人の死者を出す。
同年、五十里湖が消失したことで南山通りが復旧し、松川街道は衰退するものと思われたが、皮肉なことに道中奉行の厳しい規制もなくなったため通行量は増え、明治に入り極悪人/三島通庸が「三方道路」を強行するまで往来は大いに賑わった。
正保2(1645)年、年貢米を江戸に輸送するために、保科正之公が新設した街道。
南山通り、松川街道、白河街道とともに、江戸廻米に使用した街道。
通過する東那須野や西那須野が原野だったことから、原街道、原方道と呼ばれた。
悪路で馬も通れず、牛での運搬だったため、牛街道とも呼ばれていた。
奥州街道の脇街道で、主に荷物の運搬に使用された。
脇街道だったが幕府が管理する本街道に準じ、幕府の道中奉行が監督していた。
また、会津藩の廻米方が任命した問屋が置かれていた。
[宿駅]
白川 → 黒川 → 夕狩 → 逃室 → 小島 → 高久 → 東小屋 → 槻沢 → 平沢 → 鷲宿 → 氏家 → (阿久津河岸)