国道249号沿いに「穴切の一里塚 入口」の標柱があるものの、集落を過ぎてからは、あぜ道に近い道なので車の往来はお勧めできない。
元亀年間(1570〜1573)、赤津弾正時綱が築城。 永禄2(1559)年、蘆名氏の傘下に入る。 天正17(1589)年、伊達軍に滅ぼされ、廃城。 公園になっているが、駐車場はない。 |
福良宿
鶴ヶ城下から1日の距離であることから、多くの宿泊者で賑わい、宿屋5軒があった。 正徳5(1715)年には、家数 315軒・住民 1,286人と記録 (幕末も ほぼ同数) されている。 宿内は古町・中町・荒町が連なり、新町・裏町もでき、東西6町28間・南北3町の大きさを誇った。 岫峠 (馬入峠) への分岐点でもあり、重要拠点として馬入口留番所や、 本陣・脇本陣・代官所・御蔵なども設置されていた。 猪苗代湖舟運/秋山港の拠点として、荷揚げの集積所としても大いに栄えた。 戊辰の役では、土方歳三や斎藤一などの新撰組が駐屯、藩主/松平喜徳公も白虎隊などを率いて視察・勧奨で訪れている。 戦いが始まると、当地の古刹/千住院が野戦病院として島田魁などの負傷した新撰組の治療に当った。 当時の建造物ではないが、街並みは 昔の宿場の雰囲気を色濃く残している。 |
三代宿
勢至堂峠が白河藩 (後に二本松藩) との藩境で、かつ中野への分岐点でもあったため、慶長年間(1596〜1615)に勢至堂宿にあった口留番所が移設された。 口留番所には4人の役人が常駐し、任務は人物改めや荷物改めであったが、勢至堂峠の警備も重要な任務であった。 宝暦6(1756)年、大火で本陣が焼失し、その後は郷頭/二瓶家が番所の建物を代行し、宿場の上役/吉野家・高砂屋・松屋などが脇本陣を兼ねた。 大きな宿場町であったことから、住人の半数は旅籠や茶屋などに従事し、残りは半農に従事するものの、経済的には隣の宿場までの運送補佐賃で成り立っていたという。 享和2(1802)年、鶴ヶ城へ向かう伊能忠敬が宿泊している。 戊辰の役では、正福寺が野戦病院となり、療養中に死去した新撰組/松本喜次郎の墓が現存している。 |
立入禁止から旧国道350メートル先の両側に現存。
勢至堂宿
天文6(1537)年、領主/蘆名盛氏公が家臣/赤目越中と八田四郎兵衛に命じ、長沼城への軍事道として街道を開削、峠の入口に月輪村・更科村・西方村から村民を集めて集落を築いた。 その後、堂島村 (喜多方市) から勢至菩薩を勧請し風光堂が創建されたため、勢至堂と呼ばれるようになった。 天正18(1590)年、この地を一時的に占領した伊達政宗公に、奥州仕置きで来訪する前に豊臣秀吉が峠幅を3間にするよう命じ整備される。 江戸時代になると、白河街道として開削され、勢至堂は宿場町として整備される。 藩境である事から口留番所も設置されたが、後に口留番所は三代宿に移された。 延宝8(1680)年、会津藩や新発田藩、村上藩の参勤交代は、白河街道を利用し奥州街道へ向かう事に定まったため大いに栄え、本陣は元より遊女のいる旅籠もあった。 戊辰の役では、小峰城(白河城) に通じる街道であるため藩兵を駐屯させたが、母成峠から侵略したため大きな戦いは起きなかった。 白河側から勢至堂峠に至る手前には、上杉景勝公が徳川家康を迎え撃つために構築した「道谷坂の陣跡」がある。 |