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福良村農民。
青龍足軽一番隊/鈴木隊。
慶応4(1868)年8月24日、城下で負傷、9月に城内で死去。
墓碑には、「八月二十四日若松戦死」とある。
27歳。
「大慶養道清信士」。
「弥蔵人」と読める。
慶応4(1868)年7月3日、戦死。
軍雇とのことであるが、詳細不詳。
石田寅太郎か?
以下の3基は木標だったとも云われ、消滅した模様。
≪五十嵐清之助≫
慶応4(1868)年8月23日、蚕養口で戦死。 31歳。
≪石川寅松≫
治左衛門分限。 伴百悦組。 26歳。 詳細不詳。
≪伊藤源太郎≫
慶応4(1868)年、越後口で戦死。 21歳。 詳細不詳。
▲(郡山市湖南町福良荒町238 Tel. 024-983-2434)
善次とも。
墓碑は、「武藤信光之墓」とある。
青龍足軽一番隊/鈴木隊。
慶応4(1868)年8月26日、小田山で戦死。
16歳 (17歳とも)。
福良村の人。
軍夫。
慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。
38歳。
西田多左衛門 .青龍士中一番隊/鈴木隊付。慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。 27歳。 |
長嶋とも。
郡奉行支配。
戊辰(1868)年9月、負傷し、10月27日に御山病院で死去。
古川民伊 .戦死者らしいとのことであるが、詳細不詳。墓碑「若松藩士族」。 民衛なら、朱雀寄合一番一柳隊付、5月1日に磐城/白河で戦死。 |
青龍士中一番隊/隊頭。 藩境守備隊。
生き残り福良に在住し、明治23年9月16日没。
「義昌院徳雄整光居士」
以下が見つからず。
ご存知の方、連絡を乞う。
≪川井留五郎≫
進撃隊/山室隊。 慶応4(1868)年8月23日、天神口で戦死。 56歳。
≪蓮沼丈之助≫
玄武足軽隊。 戊辰(1868)年9月15日、中野で戦死。 48歳。
≪畑岩五郎≫
軍夫、福良村農民。 慶応4(1868)年8月27日、城外で戦死。 48歳。
永正3(1506)に開創。
▲(郡山市湖南町福良字荒町256 Tel. 024-983-2528)
≪大竹一郎≫
市郎とも。 熊四郎の伜。
青龍一番隊付三代口小人。
慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 18歳。
≪大竹善吾≫
熊四郎の次男。 三代口小人。
慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 15歳。
【武藤幾之助】
三代口小人。
慶応4(1868)年5月1日、白河にて戦死。
昭和初め頃まで墓があったと聞くが、消滅した模様。
真言宗豊山派。
戊辰の役の時、会津藩の野戦病院となっていた寺。
主に新撰組の負傷者を収容した。
慶応4(1868)年5月26日、藩主/松平喜徳公が福良本陣に向かい出陣した際、6月9日に千手院を訪れ、新選組/負傷者たちを見舞っている。
新選組/島田魁も入院し治療している。
▲(郡山市湖南町福良字寺前6164 Tel. 024-983-2723)
福良村の農民。 役夫。
慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
26歳。
「即應全心信士」。
1段上った桑名家墓域の中央左側にある。
「明治四辰五月朔日」。
▲(郡山市湖南町福良伊羅沢)
以下が見つからず。
ご存知の方、連絡を乞う。
出身地である福良各所の菩提寺に改葬されたと思われる。
≪磯貝新三郎≫
青龍士中一番隊/鈴木隊付足軽。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 33歳。
≪伊藤文七≫
青龍士中一番隊/鈴木隊付足軽。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 25歳。
≪石田寅太郎≫
軍夫、福良村農民。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
26歳。
≪小原藤五郎≫
青龍足軽一番隊付、福良農兵 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 22歳。
≪桑名忠太郎≫
軍夫、福良村農役夫。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 20歳。
桑名宇太郎と同じ伊羅沢墓地と思われるが、墓碑が見つからず。
≪畑徳太郎≫
青龍士中一番隊/鈴木隊付、福良村農民。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 26歳。
≪長谷川仲≫
青龍足軽一番隊/杉田隊。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 42歳。
≪長谷川光蔵≫
青龍足軽一番隊/杉田隊。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 18歳。
≪半沢徳蔵≫
青龍足軽一番隊/杉田隊。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
≪半沢庄吾≫
徳蔵の伜。 青龍足軽一番隊/杉田隊。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
≪宗像庄次郎≫
青龍足軽一番隊/杉田隊、福良農兵。 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。 46歳。
▲(郡山市湖南町福良樋ノ口 伊羅沢)
慶応4(1868)年、磐城/白河で負傷。
同年8月17日、療養中の正福寺で死去。
和泉岸和田の生まれ。 23歳。
「喜見道清居士
新選組士松本喜次郎二十三歳
慶応四戊辰年八月十七日没」
勢至堂峠 (三代) で戦死とも。
喜二郎、喜治郎、喜三郎、喜四郎とも名乗る。
歩兵取締役。 土方歳三の信任深い部下だった。
昭和の初めは2基の墓石があったと聞いているが、今は1基のみ。
▲(郡山市湖南町三代字寺ノ前289 Tel. 024-982-2655)
寅五郎とも名乗る。
福良村農民で軍夫。
慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
同日に戦死した二瓶熊太郎(20歳)、二瓶幸之助(26歳)、
二瓶貞次郎、二瓶左太夫、二瓶左内(46歳)、二瓶直次や、5月26日に戦死した二瓶辰巳(41歳)とは別人。
▲(郡山市湖南町三代)
朱雀隊。
慶応4(1868)年、日光口で負傷し、江戸で死去。
25歳。
詳細不詳。
▲(郡山市湖南町赤津 秋山地内)
権右衛門の伜。
青龍足軽一番隊/杉田隊。
慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。
24歳。
以下は墓域内を探すも見つからず。
≪斎藤確松≫ 福良の人。 朱雀士中三番隊/原田隊。
慶応4(1868)年5月2日、下野/大田原で戦死。 30歳。
≪斎藤[某] ≫ 中野の農民。
徴募に応じ農兵として、会義隊に従軍。
▲(郡山市湖南町中野日ノ岡1727 Tel. 024-982-2012)
戦死者とのことだが、詳細不詳。
「明治元戊辰九月塑日」。
▲(郡山市湖南町馬入新田字下ノ原道東)
青龍足軽一番隊と農兵の戦死者を、延命地蔵堂の近くに埋葬したと伝え聞く。
4名とも、13名とも。
御霊櫃峠を守備していたが援軍至らず、負傷者は自刃したという。
埋葬地は、痕跡すら見当たらず。
▲(郡山市逢瀬町多田野)
慶応4(1868)年8月21日、母成峠に布陣する東軍と、石筵口から侵攻した長賊らとが激突した。
この街道は、前九年の役の時に源義家が通っており、天正17(1589)年に伊達政宗公が会津へ進攻した際にも通った要衝である。
しかし、主力の旧幕府軍が奮戦するも、重火器は貧弱で、大砲の差は歴然だった。
一昔前は道路沿いにあった案内板も、畑の中に移動しており分かりづらい。
文字も、消えかかっている。
▲(郡山市熱海町石筵)
民家の軒先を入った裏手にある。
参勤交代の際に藩主が宿泊している。
土方歳三などの新選組や、白虎隊が陣を構えていた場所。
慶応4(1868)年7月8日、藩主/松平喜徳公が巡察した際、傷の癒えた土方歳三と白虎士中一番隊・二番隊が護衛し、半月ほど滞在している。
平成15(2003)年頃には遺構 (建物の一部) も残っていたと記憶しているが、今では何も残っていない。
▲福良本陣跡(郡山市湖南町福良字古町)
近くの馬入墓地には数人の会津藩兵が埋葬され、「御番所の墓」と呼ばれていた。 今では、形跡すらなくなっている。
確認できる墓碑は、生き残って、後に猪苗代小学校の校長となった藩士/野村木哉のみ。
▲(郡山市湖南町馬入新田)