髪が祀られているとのこと。
胸像は、昭和46(1971)年建立。
墓は、天寧寺、龍源寺、寿徳寺境外墓地にある。
現在の墓碑は、2代目。
≪芹沢鴨≫ 初代筆頭局長(壬生浪士)。
文久3(1863)年9月18日 八木邸で近藤勇や土方蔵三たちに粛清される(16日とも)。 享年35歳。
文久三癸亥九月十八日卒
≪平山五郎≫ 水戸藩出身 (姫路とも) 副長助勤。
芹沢鴨と共に八木邸で粛清される。 35歳。
播磨高砂出身。 勘定方。
慶応2(1866)年2月12日、切腹させられる。
29歳。 「遊林軒千空吉一良義居士」。
立腹した親が、新選組が建てた光縁寺の墓とは別に、立派な墓を壬生寺に建立。
▲有料 (京都市中京区壬生梛ノ宮町31
Tel. 075-841-3381)
・8時30分〜16時30分
[正面]≪山南敬助(介) 藤原知信≫
慶應元○○○年乙丑年二月二十三日没 副長、総長 33歳
[右面]≪河合耆三郎 吉輝≫
慶應二丙寅年二月十二日没 勘定役 29歳 壬生寺
≪柴田彦三郎 忠興≫
同年六月二十三日没 平隊士 28歳
[左面]≪施山多喜人 源泰朝≫ 慶應元乙丑年 勘定方 瀬山とも
≪石川三郎 源義元≫ 六月廿一日 平隊士 21歳
一橋家家臣/大石捨次郎の息子。
隊士/大石鍬次郎の実弟。
平隊士。
慶応2(1866)年2月5日、斬殺される (病死とも)。
[正面]
≪松原忠司 誠忠≫ 元冶二年九月二日 四番隊組長
≪櫻井勇之進 盛房≫ 同年十二月十二日 26歳
≪小川信太郎 國行≫ 慶應三年二月十八日 平隊士
≪市橋鎌吉 義次≫ 同年十月七日 平隊士
≪田内知 重次≫ 同三年正月十日 平隊士 29歳
[右面]≪田中寅三 正久≫ 慶應三年四月十六日 剣術師範 27歳
≪加藤羆 正徳≫ 同年六月廿三日 平隊士(見廻組並御雇)
[左面]≪矢口健一郎 定幸≫ 慶應三年四月晦日 平隊士(見廻組並御雇)
≪佐野七五三之助 重之≫ 同年六月十四日 伍長 32歳
≪中村五郎 政常≫ 同 日 19歳
≪茨木司 義忠≫ 同 日
≪富川十郎 (正+又)之≫ 同 日 24歳
真明院照誉貞相大姉
沖田氏縁者 慶應三年四月廿六日
昭和5(1930)年、当時の住職が建立。
沖田総司の看護をしていた女性「秩」で、娘「キョウ」を生んだ。
沖田総司の墓は、専称寺にある。
沖田承之進の縁者との説も。
▲有料 (京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町37
Tel. 075-811-0883)
・9時〜17時
若狭藩側用人/藤田兵助忠善の子。
脱藩し、京都の医師/水口家の養子になる。
元/伊勢津藩士。
元治元(1864)年、入隊。
慶應4(1868),年1月5日、淀で戦死。
御香宮神社/東軍戦死者名には、3日に伏見で戦死とある。
享年45歳。
中川家墓所に父/藤田兵助忠善と共に祀られている。
▲(京都市右京区鳴滝松本町32 Tel. 075-462-6540)
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美濃国雄総村の庄屋/近藤伊右衛門の次男。 永縄半左衛門の養子、後に大垣藩/嶋田家の養子となり家を継ぐ。 文久3(1863)年、新選組入隊し、後に伍長。 戊辰の役では、鳥羽伏見から函館戦争まで戦い抜く。 明治33(1900)年3月20日、夜間警備員をしていた西本願寺で、勤務中に急死。 享年73歳。 「威徳院釈教証」。 東大谷墓地にあったが、平成14(2002)年に隣接している大谷祖廟に納骨された。 ▲(京都市東山区円山町477 Tel. 075-561-0777) |
壬生の屯所は、市中取り締まりをするに不便であった。
慶応元(1865)年3月10日、隊員が200名を超え手狭になったことから、本願寺 (主に北集会所と太鼓楼) に本陣を移す。
隊士らに栄養を考えた医師/松本良順の勧めで境内で豚を飼育したり、切腹・斬首や、大砲を含む軍事訓練を行うなど寺側は迷惑だったようだ。
慶応3(1867)年、近くの不動堂村へ屯所へ移転し引き上げた。
明治6(1873)年に北集会所は姫路市/本徳寺に移築され残っていないが、太鼓楼は現存している。
明治19(1886)年、この縁で島田魁 (元/二番隊伍長) が本願寺の夜間警備員となり、近藤勇・土方歳三など新選組隊士の菩提を毎日 欠かさず弔っていたという。
明治33(1900)年3月20日、島田魁は勤務中の西本願寺で生涯を閉じている。
▲(京都市下京区堀川通花屋町下る門前町60
Tel. 075-371-5181)
慶応3(1867)年6月15日、新選組は屯所を西本願寺から不動堂村へ移した。
わずか半年後の同年12月14日に伏見奉行所へ屯所を移したため面影は残っておらず、本陣の場所も「七条堀川下ル (永倉新八)」「七条通り下ル (宮川信吉)」「堀川の東から木津屋橋の南 (京都坊)」など諸説があり「まぼろしの屯所」といわれる。
「不動堂明王院と道祖神社」辺りが有力とされるが、ハトヤ瑞鳳閣の敷地にも石碑があり、資生堂京都ビル辺りとも伝わっている。
3千坪を超える大名屋敷のような広大な屯所だったので、リーガロイヤルホテル京都・元/安寧小学校から道路向かい一帯が屯所だったのではなかろうか。