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ご   縁   の   あ   る   地

兵 庫 県 と の“ご 縁”

山鹿素行の胸像 (赤穂城)

山鹿素行の現地板 山鹿素行の現地板

 山鹿素行が設計した二の丸門の脇に建立。
 会津出身の儒学者・軍学者/素行は、赤穂藩に通算20年ほど居住し、赤穂藩士へ与えた影響は大きかった。
 家老/大石良雄 (内蔵助) は素行の教えを直接受けており、用意周到に一致団結して主君の仇を討った行動は、素行の教え「死節論」そのものであった。
山鹿素行の胸像  忠臣蔵になくてはならない「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」は映画などでの創作であるが、いかに素行の影響が大きかったかの証であろう。
 墓は、宗参寺にある。

大石神社

大石神社参道の左側 大石神社 大石神社参道の右側
堀部安兵衛の石像

 明治33(1900)年、大石内蔵助以下四十七士・浅野家三代などを祀る神社として創建。
 大正元(1912)年、社殿が竣工。
 毎年12月14日に赤穂義士祭が開催。
 大石神社は、京都にもある

 参道には義士の石像が並んでいる。
 当然、会津生れの堀部安兵衛の石像もある。

大石邸長屋門

大石邸長屋門

 「この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。 門口約二十六・八メートル、奥行約四・八メートルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。 かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちが たたいたのも この門である。
 安政三年 (一八五六年) に大修理が行われ、大正十二年 国の史跡に指定された。
 更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三、一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。
                            赤穂義士会

赤穂城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (60番) の1つ。
 文正元〜文明15(1466〜1483)年、岡光広が築城。
 加里屋城、大鷹城とも。
 赤穂藩主/浅野長直は軍学者/近藤正純に改築を命じ、山鹿素行を招聘し砲撃戦を考慮した最新鋭の城に造り直された。
 明治6(1873)年、廃城。
 昭和46(1971)年、国の史跡に指定。
 ▲(赤穂市上仮屋)

  《浅野家時代の赤穂藩》
 藩庁を赤穂城として、播磨国赤穂郡の周辺を領有した藩。
 正保2(1645)年、池田家に代わり、浅野長直 (5万3千石) で入府。
 13年を費やし、新たな赤穂城を築き、城下町を整備。
 2代目藩主は、浅野長友。
 元禄14(1701)年、3代目藩主/浅野長矩 (内匠頭)が江戸城中で旗本/吉良義央への刃傷事件を起こし、長矩は切腹、浅野家は改易となる。
 元禄15(1702)年、家臣による吉良邸討ち入りが起こる。
 長矩の弟/浅野長広は減封されたが、後に旗本に召し抱えられた。

花岳寺

花岳寺
 

JR播州赤穂駅前

JR播州赤穂駅前の銅像
 正保2(1645)年、入府した浅野長直が菩提寺として創建、大石家の菩提寺でもあった。 浅野家改易後も歴代藩主/永井家・森家の菩提寺となる。
 元文4(1739)年、赤穂浪士三十七回忌に義士墓が建立。
 ▲義士墓拝観も有料 (赤穂市加里屋1992)
   播州赤穂駅の南口にも、大石内蔵助の銅像がある。
 右手に采配を持ち、台座には「義魂」と刻印。

 ▲(赤穂市加里屋328)

徳一大師作/日限地蔵尊 (法音寺)

法音寺

 徳一大師の作と伝わる日限地蔵尊像を所蔵。
 天正年間(1578〜1580)のとある日、蘆名盛氏
 「泥深い葦の中に埋まっている地蔵様を探し出すべし
と霊夢によるお告げを受けた。
 早速、家臣らに黒川城 (鶴ヶ城) 内の沼の中を探させてたところ、徳一大師作/地蔵尊が3体出現した。
 盛氏公は、西光寺に地蔵堂を建立し安置した。
 現在、残り2体は、西光寺と東京/松秀寺に祀られている。
 徳一大師(菩薩)については、こちら。
 ▲(明石市日富美町13-35 Tel. 078-912-3759)

川崎尚之助の生家跡

川崎尚之助の生家跡

 元/会津藩士で、八重の元/夫。
 明治9(1876)年、生家は大火で焼失し、現在の建物は再築したものとのこと。
 現在は資生堂化粧品店で、住人も子孫ではない。
 「大河ドラマ八重の桜 川崎尚之助生家跡」の看板があった。
 ▲(豊岡市出石町本町29)


川崎尚之助供養之碑 (願成寺)

川崎尚之助供養之碑

 平成25(2013)年、NHK大河ドラマ「八重の桜」を記念して、川崎家の菩提寺であった願成寺に建立。
川崎尚之助供養之碑
川崎尚之助供養之碑  昭和40年代までは、尚之助の戒名「川光院清嵜静友居士」を刻んだ墓碑があったとのこと。

 東京/称福寺に埋葬されたが、今では不詳。



願成寺

 ▲(豊岡市出石町東條32 Tel. 0796-52-2318)

新撰組屯所 (本徳寺)

新撰組屯所(本徳寺)

 西本願寺にあった新撰組屯所が解体の時期、本徳寺本堂が焼失したため北集会所が移築された。
 当時のまま移築されたとのこと。
 柱には、隊士たちの腕試しと思われる刀痕が残っている。
 「〜 もと西本願寺の北集会所(しゅうえじょ)だったが、
     明治六年 (一八七三) 移築した。 〜

 ▲(姫路市亀山324 Tel. 079-235-0242)

建勲神社

 元禄8(1695)年、織田信長の子孫で柏原藩初代藩主/織田信休が柏原陣屋内に創建とされる。
 明治3(1870)年、建織田社から建勲神社に改称。
 明治13(1880)年、現在地に遷座。
 平成18(2006)年、再建築。
 ▲(丹波市柏原町柏原字大手525-2)

明石城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (58番) の1つ。
 喜春城、錦江城とも。
 元和4(1618)年、小笠原忠真が築城。
 明治7(1874)年、廃城。
 昭和32(1957)年、国の重要文化財に指定。
 平成16(2004)年、国の史跡に指定。
 諸説はあるが、天守は台石まで積まれたが建立されることはなかった。
 明暦3(1657)年の大火で江戸城が焼失した際、再建を主張する老中・長老らの大反対を押し切って、今でいう「ハコモノは要らぬ」と無駄な出費をさせず、江戸城の天守閣再建は着手すらさせなかった保科正之に匹敵する名君だったのは間違いあるまい。
 ▲(明石市明石公園1-27)

姫路城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (59番) の1つ。
 白鷺城とも。
 貞和2/正平元(1346)年、赤松貞範が築城。
 明治4(1871)年、廃城。
 昭和3(1928)年、特別史跡に指定。
 昭和6(1931)年、旧/国宝に指定。
 平成5(1993)年、日本初の世界遺産 (文化遺産) 登録。
 ▲(姫路市本町68 Tel. 079-285-1146)

竹田城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (56番) の1つ。
 虎臥城とも。
 永享3(1431)年、山名宗全が築城とされる。
 慶長5(1600)年、廃城。
 昭和18(1943)年、国の史跡に指定。
 最近、天空の城・日本のマチュピチュとして知られる。
 ▲(朝来市和田山町竹田字古城山169)  

篠山城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (57番) の1つ。
 慶長14(1609)年、徳川家康が築城。
 明治4(1871)年、廃城。
 昭和31(1956)年、国の史跡に指定。

 ▲(篠山市北新町2-3)

青山幸利

 正室が会津藩主/加藤明成の娘。
 元和2(1616)年〜貞享元(1684)年8月2日
 幼名:石之助。
 父/青山幸成、母/小出氏 (福永氏とも)、養母/小笠原信之の娘。
 摂津尼崎藩の第2代藩主。
 善政だったようで、慰霊碑・報謝碑を領内の村民が建立した。
 墓は安養寺・東京/梅窓院、慰霊碑が宝満寺、報謝碑が海泉寺。
 「成覺院殿廓譽一法道山大居士」


墓碑 (安養寺)

 埋葬地 (移転はしている)。
 ▲(神戸市中央区楠町7-1-10
     Tel. 078-341-5894)




慰霊碑 (宝満寺)

 ▲(神戸市長田区東尻池町2-11-1
       Tel. 078-671-2844)




報謝碑 (海泉寺)

 ▲(神戸市長田区駒ケ林町3-10-1
       Tel. 078-611-1241)



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