会津藩士/野口九郎太夫成元の弟。
弟の留三郎は、彰義隊に加わり、上野で戦死。
万延元(1860)年、藩命により英語を学ぶため、箱館の英国領事館に赴く。
慶応2(1866)年、英国公使館書記/アーネスト・サトウに気に入られ、秘書/兼用心棒として雇用される。
慶応3(1867)年、江戸に戻る途中の掛川での宿泊所に、日光例幣使らが暴徒化し乱入してきたが、右手で抜刀し左手に拳銃を持ち威嚇射撃をすると、脱兎の如く逃げ出したという。
明治2(1869)年、アーネストに従って渡英し、ロンドンの学校に入学。
間もなく、日本政府としての留学生となる。
明治6(1873)年、帰国し公職に就く。
明治16(1883)年4月11日、兵庫県庁に在任中、急逝。
10区71号。
▲(神戸市中央区神戸港地方字堂徳山)
会津人参を一手に仕切った貿易商/足立仁十郎の生家の菩提寺。
人参売捌方用足・長崎在住の御側衆として、藩士にも召し抱えられている。
会津藩の鑑札、位牌、会津藩の家紋「三つ葉葵」が付いた小袖を着用の肖像画を所蔵。
今でも、時折、会津藩士縁の人が墓をたずねてくるとのこと。
▲(朝来市山東町与布土165
Tel. 079-676-3278)
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突然の訪問にもかかわらす、ご住職父子とも親切な対応をしていただいた。
感謝の言葉にも、「土日だったら法要などで忙しいが、平日だからですよ」と、こちらを気遣って笑って答える。 仁十郎は最後まで会津藩を裏切らなかった。 その気質はこの地が育てたのだと確信し、晴れ晴れとした気分に満ち溢れた。