偽物である錦の御旗や偽勅を何とも思わない卑劣な長賊/大村益次郎らは、上野戦争についても歴史の捏造を行っている。
占領地での犬畜生にも劣る長賊らの悪行の数々に、激怒した抗戦派幕臣や一橋家家臣/渋沢成一郎、天野八郎たちは彰義隊を結成した。 渋沢成一郎は、隊の創設に際して四つの取り決めを提案、卑劣な長賊の行動から長賊の間者の潜入を防ぐため、その一つに、 「浮浪者は、一切加盟させないこと」 を明記した。 しかし、天野八郎が実権を握るようになると、増員策に舵を切り、 「来るものは拒まず、あらゆる者に入隊を許す」 としてしまう。 戦いの直前には、止む無く寝返った諸藩の士気よりも、人数的に少ない彰義隊の方の士気が圧倒的に優位であった。 数千人の火消しを束ねる新門辰五郎の存在も大きかった。 これを聞き及び怯えた長賊/大村らは、劣勢を挽回すべく下劣な秘策を実行する。 すぐさま間者80余人を送り、「会津藩からの援軍でござる」 と叫びながら上野山の内側に入り込んだ。 戦闘が始まるや、あらかじめ送り込んだ間者らと呼応して上野山の内側から攻められた彰義隊は、一挙に瓦解したのが真相である。 犬畜生にも劣る長賊でも、あまりに卑怯なやり方を恥と感じたようで、極秘扱いを厳命し、外部には 「アームストロング砲の威力により勝利した」 とのシナリオを流布させた。 当時の江戸っ子の間では “嘘” と囁かれていたが、アームストロングの痕跡など見当たらず、激戦とされる黒門に銃弾や刀のあとは無数にあるが、アームストロング砲弾の痕跡は皆無である。 近年、それらを伝える当時の瓦版が発見され、真実が明らかになった。 発行元は虐殺されており、瓦版は版木ともども回収・焼却されたのだが、悲憤した心ある者が隠し持った物とされる。 なお、新門辰五郎は義を貫き通り、鳥羽伏見で敵前逃亡した慶喜に従う者も寂しい中、火消したちを呼び集めて水戸を経て駿府への警護を続け、将軍家の2万両も無事に運び届けている。 |
天保2(1831)年、上野国/磐戸村の名主/大井田吉五郎忠恕の次男として誕生。
江戸町火消し与力/広浜喜之進の養子となるも1年足らずで離縁し、天野八郎と称して将軍/徳川家茂の警護に就き上洛する。
彰義隊が結成されるや副長格の頭並”に就任。
隊長の渋沢成一郎が脱退したため、実質的な隊長として指揮を執り上野戦争を戦う。 戦い後に再起を図るべく本所の砲匠/炭屋文次郎宅に潜むが、密告され捕らえられる。
明治元(1868)年11月8日、日比谷の牢内で拷問により虐殺。
38歳。 辞世の句 「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」
遺体は小塚原に遺棄され、3年後になって同志により墓碑が建てられた。
明治23(1890)年、遺族によって仲間の眠る円通寺に改葬され、題字/榎本武揚による天野君八郎碑が建立された。
墓前の線香立は、五代目菊五郎が寄贈とのこと。
「合同舩」
山田(今井)八郎 十六番隊/組頭 | 西村賢八郎 十八番隊/組頭 | |
松本義房(勘吉) 三番隊/組頭 | 前野利正 | |
大塚嘉久治(霍之丞) 第二白隊/頭取並 | 羽山寛一 | |
小林一知 | 百井求之助 会計係 |
慶応4年5月15日、上野山王台 (上野公園にある彰義隊の墓の付近) からが潜む料亭「雁鍋」に砲撃し火玉を命中させたが、あいにくの雨天のため焼き尽くすことができず、逆に雁鍋から狙撃され戦死した。
「旧幕府徳川之臣御書院番
戊辰五月十五日於上野山王台戦死」
実弟の後藤鉄郎が建立。
一橋家家臣/相馬右近胤永の倅。
兄弟 (相馬鉦吉胤富) 共に彰義隊遊撃隊に入隊。
結城藩の内紛で藩主/水野勝知側の片腕として活躍し勝利する。
慶応4(1868)年4月5日、古河藩の戦いで策略に嵌まり殺害される。
彰義隊の戦死者第1号とされる。
幕臣。
慶応4(1868)年3月、江戸城明け渡しに激怒し、江戸を脱走する。
撤兵隊指図役に就く。
同年4月8日、上総/木更津の戦いで戦死。 33歳。
明治33(1900)年4月に建立。
書は榎本武揚、碑文は山岡鉄舟の長男/山岡直記。
戦死した彰義隊士を弔うために建立されたと伝わる。
「慶應四辰年五月十五日
明治四辛未五月建之
駒込住 酒井八右エ門」
円通寺の23世住職。
上野戦争が終わるやの残虐な残党狩りが行われ、彰義隊士の遺体は見せしめとして、手を触れる事さえ許さず野ざらしにされた。
見かねて弔った円通寺の仏磨和尚も捕縛されたが、斬首覚悟で埋葬許可をとり、寛永寺の御用商人/三河屋幸三郎、侠客/新門辰五郎の協力を得て、上野山 (現/上野公園) で隊士266人の遺体を火葬し、遺骨を持ち帰り埋葬した。
明治25(1892)年1月に死去。 66歳。
は寛永寺の寺宝を略奪した後、根本中堂や本坊など全ての堂宇を焼き払った。
梅雨が明ける直前で火を放っても、なかなか燃え広がらなく苦労して燃やしたという。
明治40(1907)年、唯一焼け残った黒門が円通寺境内に移築された。
隊名を騙って箱館市中で借金を強要していたことが、頭取/大塚霍之丞に知れてしまう。
明治元(1868)年12月27日に切腹。
斬首ではなく切腹であった点もあり、金策に窮乏していた隊のために責任を一身に背負ったとの説もある。
明治29(1896)年6月、介錯をした鷹羽玄道たち有志が建立。
将軍家の御庭番。
江戸城の無血開城に憤慨し、榎本隊に同行。
一本木関門で戦死した土方歳三の遺体を引き取った者として知られる。
降伏・赦免後は、円通寺の墓守として生涯を送る。
大正5(1916)年9月2日、死去。
88歳。
一橋家近習番頭取/土肥半蔵の嫡男。
放蕩三昧を尽くし廃嫡の上で江戸を追放されるが、徳河慶喜の禁裏御守衛総督に就くと帰参 (幕臣) する。
彰義隊幹部の弟/八十三郎からの誘いで入隊し、応接掛として防諜活動に専念する。
戦後は吉原の太鼓持ち/松廼舎露八 (まつのやろはち) と名乗り活躍。
明治36(1903)年11月23日に死去 (71歳)。
正二位勲一等子爵 榎本公追弔碑 明治41年10月26日に死去、翌年2月に有志が建立。 |
正二位勲一等男爵 大鳥圭介君追弔碑 明治44年6月15日に死去、同年7月に有志が建立。 歩兵奉行、幕府伝習隊長、陸軍奉行 |
荒井郁之助君 追弔碑 明治42年7月19日死去、翌年1月に建立。 幕府の軍艦頭、蝦夷共和国/海軍奉行、後に初代中央気象台長。 |
大澤常正の句碑 「さがるほど 見あげる人や ふぢの花」 後に彰義隊の世話人を務めた弁護士。 |
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彰義隊八番隊長木下福治郎 彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道 追悼碑 木下福治郎と鷹羽玄道 (上原仙之助) は実の兄弟。 木下は明治13年1月16日に死去(42歳)、鷹羽は明治44年6月6日に死去(69歳)。 鷹羽の娘/登宇が建立。 |
佐久間貞一君 記念之松 徳川慶喜の護衛に選抜され水戸に向い、上野戦争には参加できなかった。 壊滅した彰義隊を生涯忘れなかったという。 [略歴] 明治33年5月13日に建立。 |
澤太郎左衛門君 記念之松 幕臣/澤太八郎の嫡男。 オランダ留学生に選抜、欧米で大砲や火薬などを学ぶ。 蝦夷共和国/開拓奉行。 明治31年5月9日に死去 (65歳) し、翌年4月に建立。 |
新門辰五郎碑 内容は、下記/盛雲寺を参照。 彰義隊士の遺骸266体の荼毘に尽力。 明治8年に死去。 墓は、盛雲寺と善養寺 (分骨)。 |
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高松凌雲君追弔碑 幕府の奥詰医師。 パリ留学中に戊辰の役が勃発、蝦夷共和国の榎本武揚らに合流して、敵味方を問わずに治療をしている。 大正5年10月12日に死去 (79歳)。 墓は谷中墓地。 |
永井尚志君 追弔碑 永井岩之丞君 永井尚志は 幕臣/若年寄。 蝦夷共和国/箱館奉行。 降伏後は元老院権大書記官。 明治24年7月1日に死去 (76歳)、本行寺。 岩之丞は養子で、養父/尚志とともに五稜郭で戦う。 降伏後は大審院判事。 明治40年5月25日に死去 (63歳)。 三島由紀夫の曾祖父と高祖父にあたる。 |
町野五八君追弔碑 元の名は堀覚之助 (旧幕臣)。 降伏後に町野五八と名乗る。 大正5年3月8日に死去。 同年5月に建立。 |
松平太郎君墓 内容は、下記/大林寺を参照。 明治42年に死去。 遺言により円通寺に埋葬。 昭和14年、大林寺に改葬されたが墓石は残された。 |
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樵村丸毛君碑 旗本/大草弥三郎の3男、旗本/丸毛彦三郎の養子となる。 彰義隊/第二白隊伍長、本営詰組頭。 降伏後は横浜税関や農商務省等を経て横浜毎日新聞/記者。 明治38年8月6日に死去 (56歳)。 明治40年8月に建立 (題字/榎本武揚)。 樵村は雅号。 |
三幸翁之碑 寛永寺御用商人/三河屋幸三郎。 姓は浅岡。 逃亡する隊士をかくまったり、仏磨和尚とともに彰義隊士の埋葬や死節之墓の建立に尽力、。 明治22年5月5日に死去 (67歳)。 明治23年5月に建立。 |
有縁諸霊之碑 上野戦争で戦死した彰義隊士の霊を弔ったものとのこと。 大正9年4月15日に二世桝屋が建立。 |
良馬之碑 陸奥下手渡藩主/立花種恭 (後に筑後三池藩藩主) から彰義隊に贈られた「八重垣」と名付けられた名馬も、の酒宴の余興で射殺された。 明治32年5月に建立。 題字/立花種恭、撰文/本多晋。 |
越後/高田藩は止む無くに与したが、義に反すると拒否した江戸詰藩士/酒井良佐たちは脱藩し、志しを持って終結した者たちで「神木隊」を結成した。
隊名は、藩主/榊原家の「榊」をもじって命名。
上野戦争、宮古湾海戦などで活躍し、蝦夷に渡り、蝦夷共和国の一員として箱館戦争に参加、義を最後まで貫き通した。
義に殉じた神木隊士は、こちら。
神木隊26名の戦死者の慰霊碑。
越後/高田藩は、恫喝され止む無くに与することに決したが、これを不服として江戸詰の藩士が脱藩して上野山内「涼泉院」に集結した。
取締/近田六郎太夫・隊長/酒井良輔の下に馳せ参じた82名が高田藩主/榊原の「榊」をもじって「神木隊」を結成し、幕臣と共に上野戦争を経て蝦夷に渡り、蝦夷共和国の一員として戦った。
この寺は高田藩主/榊原家の菩提寺。
なお、高田藩の飛地/釜子陣屋にいた藩士約20名もに与することなく戦い、鶴ヶ城の籠城戦まで戦い抜き義を貫いている。
▲(豊島区南池袋2丁目20-37 Tel. 03-3987-1300)
弘化4(1847)年、もしくは嘉永元(1848)年に誕生。
名は良雄。
幕臣奥祐筆衆/滝村小太郎の末弟。
文久3(1863)年、岡田新五太郎の養子となる。
慶応4(1868)年、江戸開城により脱走し、銃撃隊の再編成「遊撃隊」に参加、彰義隊と行動を共にする。
上野戦争後に榎本艦隊と共に合流し蝦夷へ渡り、全軍監軍に就く。
翌年から改役頭取として松前守備に就く。
同年4月17日、松前攻防戦の折戸浜で砲弾に吹き飛ばされ壮絶な戦死。
22歳 (墓碑は23歳)。
「我輩の臨む所は唯京都に於ける君側の奸を誅し以て徳川氏を恢復するにあるのみ。徒らに此處に憤死するは是大節に死するを知らさるもの如かす。海に航して房総に往き再挙を謀らんには房総に敗れんか奥州に往かん奥州に敗れんか蝦夷に往かん」
▲(北区滝野川3-88-17 Tel. 03-3910-3170)
天保10(1839)年、幕臣/松平九郎左衛門の子として誕生。
名は正親。 外国奉行支配組頭・陸軍奉行並を務める。
慶應4(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した慶喜の駿河70万石移封が決まるや江戸を脱走、仙台で大鳥圭介・土方歳三らと合流し蝦夷に渡る。
日本初の選挙 (入札) により蝦夷共和国の副総裁に選出。
蝦夷共和国が消滅後は、開拓使、外務省などに就く。
明治42(1909)年5月24日、療養先の伊豆/河津浜で病死。
71歳。 「延徳院殿正親義幹大居士」
遺言により戦友の眠る円通寺に葬られる。
昭和14(1939)年に大林寺に改葬 (松平家之墓に合祀) されたが、墓石は円通寺に残された。
大鳥圭介や榎本武揚らに勝るとも劣らない逸材であるにもかかわらず、なぜか知名度が低い。
▲(文京区向丘2-27-11 Tel. 03-3821-1452)
寛政12(1800)年、飾職人/中村金八の倅/金太郎として誕生。
町火消頭/町田仁右衛門の婿養子となる。
文政7(1824)年、町火消/浅草十番組「を組」の組頭を継承。
江戸の侠客の中で随一の資金力を誇っていた。
上野戦争で戦死し放置されていた彰義隊士/遺骸266体の荼毘に尽力。
明治8年9月19日、死去。 76歳 (83歳との説も)。
分骨した墓が善養寺にある。
円通寺には、碑がある。
娘/於芳は徳川慶喜の愛妾。
▲(豊島区西巣鴨4-8-40 Tel. 03-3918-1271)
町田家の墓に、新門辰五郎の遺骨が分骨。
「町田 先祖代〃精靈」
新門辰五郎の娘で、徳川慶喜の愛妾となった於芳の名も刻まれている。
「法林妙市信女 俗名 町田みち
行年六十二歳
明治四十三年十二月一日寂」
▲(豊島区西巣鴨4-8-25 Tel. 03-3915-0015)
◇ 上野戦争で義に殉じた会津藩江戸藩邸詰の有志/信意隊士
武川三彦信臣 | 野口源弥 | 野口留三郎 | 能見又八 |
加治啓次郎 | 川本惣兵衛 | 北越常吉 | 杉本伴蔵 | 高野一郎左衛門 | |
常吉 | 友田喜門 |
川崎佐一郎 | 木村林太郎 | 黒谷ソ一郎 | 佐藤八郎 | 鈴木周蔵 | |
滝尾斧吉 | 富沢広之助 | 松川太郎兵衛 | 石井小左衛門 |