画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり .
慶応4(1868)年閏4月25日、来襲したを撃退した。
小峰城も奪還している。
しかし、5月1日の戦いでは、村役人/大平八郎の裏切りで側面を突かれ、200余名の戦死者を出し、小峰城は落城した。
副総督/横山主税、軍事奉行/海老名衛門も戦死している。
毎年、6月第1日曜日に慰霊祭が執り行われている。
この戦いが、その後の勝敗を決めたという。
特に、仙台藩内では、主戦派が鳴りを潜めることになる。
銷魂碑には、確認できている白河の戦いで亡くなった304名の名前が刻まれている。
題字は、松平容保の書による。
戦後は斗南藩に移住していたが、白河の戦いの敗戦原因が村役人/大平八郎の裏切りによるものと聞き及んだ。
逆心の大平は、から感謝状を授受され、白坂村の責任者の地位にまで任じられて、大変な羽ぶりであったが、感謝状を自慢して見せびらかしていたため、己の裏切りを世間に知らしめることになる。
かねてから、なぜ敗れたのか疑問を持っていた軍次は、仇を討つべく斗南藩を脱藩する。
1ヵ月を要して、やっと白坂に辿り着く。
明治3(1870)年7月、八郎を斬殺するも、累が及ばぬよう自刃して果てた。
21歳。 「操刀容儀居士」。
[碑文]
墓は白坂観音寺にあったが、二十七回忌にあたる明治29(1896)年7月、白河会津会などによって、この地に改葬され、新たな墓碑も建立された。
八郎の養子は軍次を葬って謝罪の意を示したが、結局いずらくなり白坂村から去っている。
▲(白河市松並14周辺)
門から一直線の突き当たりにある。
木立に包まれ、うっそうとした神秘的な雰囲気。
戦死塚
慶應四戊辰五月一日
同穴四十四人
海老名衛門君碑銘
.
本道裏の墓域の真中の坂道より先にある。
仙台藩/斉藤直三郎の墓の後ろに建つ墓石。
本名は、鈴木義之助。
青龍寄合第一番隊/木村隊。
慶応4(1868)年5月26日、白坂で戦死。
享年46歳。
本名は丹羽俊吾、源五郎の伜。猪苗代隊大砲組頭。
慶応4(1868)年7月15日、小峰城で戦死。享年33歳。
墓域の国道4号側に並んでいる3基の中央の墓。
脇の墓石は、仙台藩士の墓。
慶応4(1868)年6月12日、白河で戦死。
仙台藩士 (足軽) とのこと。
詳細不詳。
▲(白河市小田川行屋久保2 Tel. 0248-22-4140)
大砲隊林隊/渋井小太郎の弟。
遊撃三宅隊嚮導。
慶応4(1868)年8月14日、赤谷の戦いで戦死。
16歳。
墓誌には、
「七月一日 白虎隊士 小次郎 十七才」
とある。
會藩戦死碑に記載あり。
▲(白河市横町86
Tel. 0248-23-3906)
稲荷山の麓にある会津藩士の戦死墓。
道路わきにあるのだが、生け垣と小屋の間の奥 (池畔) にある。
徒歩ならともかく、車での走行では分かりづらい。
戦死墓
慶應四戊辰六月二十四日
[逸話]
▲(白河市関辺油久保5 付近)
慶応4(1868)年閏4月25日に来襲したを退けたが、村役人/大平八郎の裏切りで側面を突かれた5月1日の戦いでは200余名の戦死者を出し、多くの捕虜も出た。
翌日、捕えられた会津藩兵全員と、東軍協力者とみなされた住民たちが、谷津田川にかかる円明寺橋畔に引きずられ、幾十人となく次々に斬首された。
南無阿彌陀佛
実際には、住民たちの取り調べなどしていない。
長賊らの戦死数の10倍を処刑するという、単なる見せしめであった。
首と胴とが切り裂かれた遺体は、そのまま川に投げ込まれた。
あちこちに留まった遺体から流れる血で、しばらく川は真っ赤に染まっていたという。
遺体の埋葬は禁止されていたが、余りの惨さに「南無阿弥陀仏の碑」が地元民によって、川岸の両端に建てられた。
後に1碑は、常宣寺の境内に移されている。
▲(白河市小田川行屋久保 白河市南町 円明寺橋北西の傍ら)
奥州の入り口である白河は、城下の各所で激戦が繰り広げられ、この地の周辺でも多くの戦死者が出た。
東軍戦死者は埋葬が禁止され、野ざらしにされた。
、翌年になって、手代町や大工町などの骸に変わり果てた遺骨11体を、大庄屋の桑名清兵衛が合葬した。
埋葬者の名や出身などは、地元民の犠牲者なのかも含めて不明。
供養碑は、後に建立されたもの。
英、央五郎とも。 元/津軽藩士。
慶応3(1867)年6月頃に入隊。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸帰還を経て、北上して各地で奮戦。 新選組を裏切り薩摩藩に寝返って近藤勇の捕縛に加担した武川直枝を討つ命を受けていたという。
慶応4(1868)年閏4月25日、白河口で戦死。
享年22歳。 「誠忠院義勇英劔居士」。
墓碑には「菊地央五郎」と刻まれている。
東軍戦死者の供養塔。
一方通行の狭い道の先にある。
慶應四戊辰年
戦死供養塔
五月朔日
隣りに建つ為三界萬霊の石塔は、戦死者とは無関係とのこと。
▲(白河市本町26 Tel. 0248-23-4357)
主に6月12日の戦いでの東軍戦死者49名を埋葬。
◇ 会津藩士、徴募兵 41名
◇ 仙台藩士 4名
◇ 二本松藩士 4名
(仙台・二本松ともに4名との言い伝えから逆算)
戦死供養
會津仙臺二本松四十九名
▲(白河市大字桜岡 大沼村)
集落の外れで、本道と交差する丁字路の手前にある。
床屋の向かい側。
薬師堂の正面に、堂々と建っている。
▲(白河市白河市小田川小田ノ里45付近)
境内の墓域ではなく、外側の小道沿いの傍らにある。
とても小さいので、白い案内板が目印。
訪れた時は、雑草に包まれ、ひっそりと佇んでいた。
関川寺は、みちのく七福神の恵比寿。
▲関川寺 (白河市愛宕町94 Tel. 0248-23-3538 関川寺地内)
小池理八供養碑
. 棚倉藩。 銃士伍長。 慶應4(1868)年5月1日、白河で負傷し自決。 明治改元歳 戦死霊魂供養 五月朔日 石川大之進 . 仙台藩士。 銃士。 慶應4(1868)年7月15日、白河で戦死。 墓石には「10月27日没」とある。 忠巌良哲居士 仙藩石川大之進源春幸之墓 明治元戊辰年十月廿七日没 享年三拾七
常盤彦之助
. .
白河町中町で廻米問屋・道中取 . 締を営む大庄屋。 . 慶應4(1868)年5月6日、白河藩の . 御用達だったというだけで、東軍. の協力者と言いがかりをつけられ、. 長賊らに惨殺された。 . 赤穂浪士/堀部安兵衛と年齢1つ違いであったためか仲の良かった中村勘助の妻の墓 . もある。 討ち入りの前に、家族を故郷/白川の実弟に送り届けている。 縁とは不思議なものである。 |
住宅街の一角にある。
名前や所属など一切刻まれていないので、会津藩士など東軍の戦死者と思われる。
無縁塚
慶應戊辰年
五月朔日戦死墓
▲(白河市白井掛53)
この塚は戊辰の役で亡くなった無縁の東西両軍将兵や白河領民を合葬したものである。 左側には、「慶応戊辰年五月戦死墓」と刻まれており何名安置され、どこに所属した者かは不明である。
昭和六十三戊辰年六月 白河観光協会
遺棄されていた東軍戦死者の遺骸を、里人らが埋葬。
明治4(1871)年になって、墓標を建立。
「明治四年辛未 五月朔日 石ア建立」
戦死数名埋葬塔
.
東軍戦死者の埋葬碑。
明治23(1890)年の洪水で流失。
後に、川底から見つかる。
戊辰戦死之碑
.
明治23(1890)年の大洪水で流失したため、、
大正6(1917)年に再建。
(流失の塔は、後に川底より引き上げられ
傍らにある)
「二十三夜」の塔に隠れていて、分かりづらい。
月待ち行事の供養のしるしとして、全国的に建てられた塔。
文治8(1189)年、白河藩の始祖/結城朝光が築いた搦目城が、この地にあった。白河城 (小峰城) と区別するために白川城とも呼ばれていた。
▲(白河市 大字大 字搦目7)
慶応4(1868)年6月に戦死し野ざらしにされた東軍戦死者の供養碑。
明治18(1885)年、道路改修により傍らに移される。
戦死霊魂供養
慶応四戊辰年六月
▲(白河市双石字坊ノ入21辺り)
に与した越後/高田藩であったが、釜子陣屋詰の藩士たちは東軍 (高田藩/白河釜子団隊) として戦い、奮戦するものの16名が戦死した。
明治23(1890)年11月、二十三回忌に旧幕臣/榎本武揚が篆額、山川浩が撰文、旧高田藩士/中根聞が書による戦死集霊供養塔 (17名) が建立された。
遠山権之助直好
. 足軽。 慶応4(1868)年、戦死。 「九月十九日」 24歳 上越/金谷山に埋葬。 |
水野隆橘(隆吉)道長
. 徒士雇。 慶応4(1868)年5月25日、白河で戦死。 25歳。 |
緑川弥作
. 御蔵方。 慶応4(1868)年5月1日、白河/桜町口で戦死。 41歳。 |
越後/高田藩の飛び地にあった陣屋跡。
領地は西白河郡から岩瀬郡・須賀川市に至る40村・3万3千石に及んだ。
文化6(1809)年、浅川の陣屋が釜子に移された。
高田藩はに与するも、釜子陣屋は立操隊長/八木伝次郎が31人を率いて会津方に加勢した。
慶応4(1868)年6月25日、棚倉城を発した200余人の急襲を受けたが、すでに会津藩へ向かっており無人であった。
藩の方針が伝わらなったからと云われるが、この時代でも情報伝達網は発達しており、最後までと戦ってことからも間違いと判る。
高田藩内でも義に反すると脱藩した藩士たちが「神木隊」を結成し、蝦夷共和国の一員として箱館戦争まで戦い抜いている。
▲(白河市東釜子字本町115)
白河の農民。
慶応1868)年5月1日夕刻、東軍の間者と誤認したによって、見せしめとして公開で惨殺された。
非難に狼狽えた長賊らは、得意とする公文書偽造をして奸軍 (官賊) 戦死者「越後梨ノ木で戦死」と誤魔化した。
▲(白河市屋敷添1周辺)
平成18(2006)年、建立。
「うらやまし 角をかくしつ 又のへつ
心のままに 身をかくしつ」
慶応4(1868)年5月1日、家老/西郷頼母率いる藩兵は戦闘に突入する。
元々武人ではない頼母は戦術・戦略に長じておらず、地元/町役人の裏切りもあり、善戦するも多くの将兵を失い、白河城を奪われ一敗地にまみれた。
この勝敗は、戊辰の役の実質的な勝敗を決した。
▲(白河市九番町西裏)
2つの「境の明神」の間で、国道294号沿いの高台にある。
松平定信が建立の藩境碑「從是北白川領」。
戊辰の役では、白河を奪還した会津藩兵が木柱 「從是北会津領」 を建てたという。
そして、近くの稲荷山に布陣し、を迎え撃った。
古来より、下野国と陸奥国との国境であった。
現在でも、栃木県 (那須町) との県境になっている。
奈良時代から、国の境には男女一対の明神を祀る習慣があった。
国境を挟んで、白河側に女神の奥州明神「玉津島神社」、那須側に男神の関東明神「住吉神社」が並んで建立されている。
内側を女神/玉津島明神が守り、外側は男神/住吉明神)が守るとされることから、那須側では逆に白河側にあるのが住吉明神となる。
両者を併せて「境の明神」と言い、「二所ノ関」 「関明神」とも。
由緒は詳細不詳だが、藩主/蒲生氏郷公 (会津藩領) が街道整備と併せて社殿造営に着手し、文禄4(1595)年に蒲生秀行公が竣工。
その後、往来が盛んになり、奥州や越後の諸大名や豪商人らが、競って灯籠や和算額を奉納している。 元禄2(1689)年4月20日に芭蕉と門人/曽良も参詣しており、境内には芭蕉や大江丸の句碑がある。
現存する社殿は、弘化元(1844)年に建立の小祠。
江戸中期まで、ここに白河の関が設置と言い伝えられていたが、白河藩主/松平定信の考証により寛政12(1800)年に否定されている。
ただ根強い支持者もおり、道路の向かいの民家の庭先には、古代の関が置かれていたと主張する「白河二所之関跡の碑」もある。
かつては、南部藩の家老が金鉱山に纏わる不正事件で此の地に流れ来て営んだ峠の茶屋「南部屋」があった。
▲(白河市白坂字明神1)
斎藤一率いる新選組106名の隊士が宿泊。
慶応4(1868)年5月1日、ここから白河の戦いに出陣した。
白河藩が祭礼などの監視の詰め所として、脇本陣柳屋旅館の蔵座敷を使用していた。
▲(白河市本町66辺り)